第1章「目覚め」Part C:静寂を裂く鉄靴、そして消えた声

 スラムの夜は、静かであるべきではなかった。

 いつもなら、どこかで誰かが喚き、笑い、泣いていた。義体の異音、露店の油が跳ねる音、盗電ケーブルのスパーク。子どもたちの駆け足、喧嘩の罵声、ジャンク屋のスピーカーから流れる音楽の断片。

 それらすべてが、この都市の"鼓動"だった。

 しかしその晩、ハルとミナが逃げ込んだ廃倉庫の中には、不気味な沈黙が漂っていた。外から聞こえるのは、ドローンの微かな羽音と、遠くで鳴り続ける警報だけ。倉庫の壁は破れ、天井の一部は崩れ落ち、月明かりではなくネオンの残滓が照らしている。


 二人は埃まみれの床に肩を寄せ合って息を潜めていた。倉庫内に転がるのは、使い古された工具、動かなくなった運搬ロボットの残骸、そして錆びたドラム缶。かすかなオゾン臭と油の混ざった匂いが鼻を刺す。彼らの足元には粉塵が厚く積もり、歩いた軌跡が白く残っていた。


「……見失ったかな?」

 ミナが小声で言う。声には安堵と恐怖が入り混じっていた。


 ハルは何も答えなかった。額から流れる汗を拭いながら、ただ倉庫の出入り口に続く影をじっと見つめていた。さっきまでの力――あれは何だったのか。自分が何かを起こしたのか、それとも“何か”に通じたのか。


 そのとき、倉庫の天井を貫くように、鋭いビームライトが差し込んできた。ドローンのサーチライトだ。


「見つかった……!」


 瞬間、天井が爆ぜ、複数のドローンが空中から降下してくる。続けざまに、倉庫の鉄扉が強制解錠され、数名のピースキーパーズ兵士が侵入してきた。重装甲のブーツが床を踏み鳴らし、義体化された腕が神経質に武器を構える。


「逃走対象、位置確認。拘束を開始する」


 無機質な声が響くと同時に、ハルはミナの手を掴んで走り出した。

 光が交錯し、コンクリートの柱が次々に砕け散る。背後からは閃光弾が飛来し、視界が白く染まった。


 次に意識が戻ったとき、ハルは地面に転がっていた。

 耳鳴りの中、誰かが叫ぶ声が聞こえる。


「ハル! 早く……!」


 ミナの声だった。しかし、その声がどこから聞こえるのか分からない。倉庫内は爆煙に包まれ、視界はゼロに近い。煙の向こうから赤いレーザーサイトが揺れ動き、機械の駆動音が空間に滲んでいた。


 咳き込みながら立ち上がったそのとき、ハルは一つのシルエットを見た。瓦礫の向こうで、ピースキーパーズに囲まれている人影――リュカだ。


 彼は数日前、ハルとともにジャンク屋に部品を売っていた仲間だった。ふざけ合いながらパン屑を分け合い、廃棄物の中から銅線を拾っていた――あのリュカ。足に装着された安物の補助義足は、すでに火花を散らしていた。


「動くな!」


 ピースキーパーズの銃口が、リュカの胸元を狙っていた。

 ハルは叫んだ。


「やめろ!」


 だがその声は、ノイズ混じりの機械音にかき消された。

 次の瞬間、閃光が走り、リュカの姿が煙の中に消えた。


 叫びも、返事も、もう聞こえなかった。


 何かが、壊れた。

 心の奥底で、小さな“音”がした。


 ハルの全身を、見えない力が駆け巡った。

 感情が、脈打つ。怒り、悲しみ、恐怖、それらが混ざり合い、爆発寸前の渦を成す。


 倉庫内の機械が一斉にバチバチと火花を散らし始めた。

 天井からぶら下がる配線が揺れ、壊れたモニターがひとりでに点滅を始める。制御盤のスクリーンには意味不明な記号が流れ、蛍光灯はパルス状に明滅を繰り返す。


 監視システムのネットワークが“異常”を検知した。


 キュリオシティ本部のデータ中枢では、複数のアラートが同時に点灯していた。

 『感情波動異常値/個体識別不能/電子干渉レベル4』

 そのアラートに即応するように、都市中枢のAIが指令を下す。


 ──コード714A発動、現場封鎖開始。


 その指令と同時に、倉庫の外にいたピースキーパーズの指揮官が短く命令を発した。


「装甲ドローン部隊、突入準備。対象は高危険度と認定する」


 数分後、倉庫は完全に包囲された。

 周囲のスラム住民たちは遠巻きに見つめるしかなかった。誰も近づこうとしない。ピースキーパーズの作戦区域に足を踏み入れた者は、例外なく“存在を消される”ことを知っているからだ。


 倉庫内では、ハルの体から光の粒子が断続的に漏れ出ていた。

 彼自身、それを止める方法が分からない。

 ただ、呼吸をするたびに“情報”が流れ込んでくる。壁の向こうにいる兵士の体温。ドローンのプロペラの回転速度。電子機器の信号強度。倉庫の柱の構造強度すら、彼の脳裏に断片的な映像として浮かんだ。


 感覚が、世界と直結していた。


 そしてハルは、その全てを“理解できてしまう”ことに気付いた。


 だがそれ以上に、リュカのあの姿が脳裏を離れなかった。


 ミナは倉庫の隅に身を潜めていたが、ようやく顔をあげた。その顔には灰と涙が張りつき、震える手でハルの肩を掴んだ。


「……お願い、もう逃げよう……!」


 その言葉に、ハルは小さく頷いた。


 倉庫の裏手には、古い搬出用のダクトがある。

 ふたりはそこを目指して、瓦礫をかき分けて進んだ。剥き出しの鉄骨が腕を裂き、瓦礫の角が膝を打ったが、気にする余裕はなかった。生き延びること。それだけが彼らの原動力だった。


 逃走中、またしても機械が反応した。ハルの体から放たれるノイズが、周囲のセンサーを撹乱していた。自動照準が狂い、発砲命令が遅れ、ドローンが誤作動で墜落する。都市の鋼鉄の神経網が、彼の存在によって乱されていた。


 ようやく外に出たとき、背後では倉庫が爆破処理される直前だった。

 ピースキーパーズの装甲部隊は、現場証拠の全消去を命じられていたのだ。


 ミナは肩で息をしながら振り返り、ぽつりと呟いた。


「……リュカ、死んじゃったの?」


 ハルは答えられなかった。

 空は変わらずネオンで染まり、都市の心臓は何事もなかったかのように脈動している。


 だが、その夜確かに――一つの“声”が、この都市に届いたのだった。

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