鯤蟲最終

火之元 ノヒト

プロローグ

 ​井戸の底を覗く者は、己が終焉を覗く者なり。

 我らは門を守るにあたり、門そのものを喰らう。我らが身は鍵にして錠前なれど、その内にて、かのものどもは静かに孵化の刻を待つ。

 故に知れ。我らが血の絶える日こそ、人の世の真の黄昏が始まる日であると。


 ​――『朏的ひてき』より、禁忌とされた一節



 ​奥羽の山塊が幾重にも連なり、近代の喧騒から隔絶された土地がある。古地図に辛うじてその名をとどめるのみの、岩手県、遮閡村しゃがいむら。陽の光さえもが鬱蒼とした木々に遮られ、常に湿った苔と腐葉土の匂いが立ち込めるこの村の奥深く、みかつぎの家名を継ぐ者は、人知れず永劫の務めを果たしてきた。


 ​その日もまた、みかづき惣助そうすけは夜明けと共に裏庭へと向かった。霧雨が彼の若々しい頬を撫で、黒々とした髪を濡らす。目指す先は、苔むした岩組に囲まれた古井戸。それは、水を得るための設備などという生易しいものではない。遥か昔、人の世ならざる次元に穿たれた「孔」であり、星辰の運行に呼応して、冒涜的な生命をこの世界へと吐き出し続ける呪いの源泉であった。


 ​滑車を軋ませ、惣助が引き上げた桶の中には、水ではないものが満たされていた。それは、ぬらりとした光沢を放つ乳白色の塊――人の腕ほどもある卵鞘であった。薄い皮膜の下では、無数の影がびくびくと脈打ち、あたかも一つの巨大な心臓であるかのように蠢いている。それは、視る者の精神の根を揺さぶる、名状しがたい生命の冒涜的な顕現であった。


​「……兄さん、早くしろよ。腹、減った」


 ​母屋の縁側から、年の離れた弟、此吽しんの声が飛ぶ。その声に含まれた苛立ちが、このおぞましい務めが彼らにとっての「日常」と化している事実を物語っていた。両親が相次いで短い生涯を終えてから、この呪われた聖餐を分かち合うのは、惣助と此吽の二人きりとなっていた。


 ​惣助は無言で卵鞘を厨房へと運び、慣れた手つきでそれを切り分ける。放たれる匂いは、甘く、そして腐臭にも似ていた。食卓に並んだそれは、一見すればただの煮込み料理のようにも見える。だが、兄弟は知っていた。これから口にするものが、自分たちの生命を燃料として燃え盛る、絶望の味であることを。


 ​箸をつけ、咀嚼する。肉とも魚ともつかぬ柔らかな食感の奥で、魂が軋みを上げるのを感じる。それは、遥かなる深淵からの囁き。遠い星々で繰り広げられる狂気の宴の残響。この行為によって一族は人類の盾となってきたが、同時に、その盾は内側から少しずつ、しかし確実に蝕まれ続けていた。


 ​食べ終えた後、惣助は弟の顔を見ないようにして食器を片付ける。互いの瞳の奥に、人ならざるものの影が、日に日に色濃く宿り始めていることに気づかぬふりをして。


 ​彼らはまだ知らなかった。この閉ざされた村に、彼らが喰らい続けてきた「それ」を狂おしいほどに求める者たちが、すぐそこまで迫っていることを。そして、この果てしないと思われた絶望の連鎖が、より巨大で決定的な破滅の序曲に過ぎなかったということを。


 ​井戸の底から、常とは異なる微かな音が響いた気がした。それは、遠いどこかで何かが割れる音。あるいは、闇の向こう側で、何者かが嘲笑った声だったのかもしれない。

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