洞穴に座すもの

火之元 ノヒト

プロローグ

 ​それは文字の形をした鉤爪である。

 ​汝がそれを眼で追うとき、それは汝の思考を遡り、記憶の揺り籠を貪るであろう。

 ​真理を識ったが最後、汝という器はもはや空ろとなり、永劫の沈黙に奉仕する、ただの響きと化すのだ。


 ── 『象牙の書』を翻訳しようと試みた、ある無名の言語学者の最後の走り書きより

 ​


 ​我が国の南西に連なる島嶼群の、その更に最果てとでも言うべき海域に、人々から忘れ去られたかのような島が一つ、ぽつりと浮かんでいる。古地図には「鎖渡島」と記され、いつからか訛って「砂土島さどしま」と呼ばれるようになったその島は、黒々とした火山岩の断崖に囲まれ、容易に人を寄せ付けぬ陰鬱な相貌を呈している。島の伝承に詳しい僅かな郷土史家や、好事家の間で語られるのみのその土地には、古来より一つの不吉な言い伝えがあった。「止洞穴よすのほらあなには近づくな。理を喰われるぞ」と。


 ​この時代がかった迷信が、再び現実的な恐怖として人々の口の端に上るようになったのは、ここ数年のことであったろうか。島で唯一の村落である砂土村において、十代の若者たちが立て続けにその生命を絶つという、痛ましい事件が頻発し始めたのである。本土の専門家たちは、離島特有の閉塞感や若年層の鬱屈が原因であると結論付けたが、その見解がいかに表層的で、真の恐怖から目を背けた安易な逃避であったかは、後に思い知らされることになる。


 ​なぜなら、彼らの死には、あまりにも不可解で、冒涜的ですらある共通の前兆が存在したからだ。犠牲者たちは例外なく、その前日に丸一日、あたかも深い海の底に沈んだかのように、一切目を覚まさなかったのである。それは医学的な昏睡状態とは明らかに異なっていた。呼吸は穏やかで、脈拍も正常。ただ、いかなる物理的な刺激にも反応せず、完全なる「沈黙」の中にあったという。家族が戸惑い、救急搬送をためらっているうちに夜が明け、翌日、彼らは自室で、あるいはかの「止洞穴」のすぐ近くで、冷たき骸となって発見されるのであった。


 ​この陰惨な連鎖の中心に、やがて一人の少年が立つことになろうとは、当時、誰が予想し得ただろうか。その名を嘉永 綾凡よしなが あやちかという。彼は自らを、島の外に出たこともない、退屈な日常を生きる変哲もない中学生であると信じていた。だが、彼の血脈に刻まれた古えの宿命と、彼の精神が持つ特異な感受性は、彼自身が気づかぬうちに、彼を人ならざる領域へと引き寄せつつあった。


 ​これらは全て、始まりに過ぎなかったのである。離島で起きた若者たちの不可解な連続自殺などという矮小な事件は、我々の時空の綻びから滲み出した、宇宙的規模の「飢餓」がその存在を告げる、あまりに微かな囁きだったのである。そして少年は、知らずして、その名状しがたき渇望の顎へと、自ら歩みを進めていくことになるのだ。

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