鏡の城の魔導士 ~魔法が効かない少女と時空の謎~

宵町あかり

第1話 無反応の少女

第1節 兄の遺志


 朝靄が薄く立ち込める村の外れ、石造りの小さな屋敷が佇んでいた。蔦が這う壁は長い年月を物語り、庭には手入れされなくなった薬草が野生の勢いで茂っている。


 深い藍色の髪が朝の光に揺れた。アイリス・ノルヴェインは、兄リオの形見である懐中時計を手のひらで転がしながら、小さくため息をついた。冷たい金属の感触が、失われた温もりを思い出させる。


 時計の針は、三ヶ月前のあの日から動いていない。


「時間は戻らないが、真実は必ず見つかる」


 兄が最後に残した言葉が、今も耳の奥で響いている。十五歳の少女には重すぎる言葉だったが、それでもアイリスはその意味を理解しようと必死だった。


 ノルヴェイン家の小さな屋敷は、村の外れにひっそりと建っている。かつては兄と二人で暮らしていたこの家も、今では広すぎるほどに静かだった。床板を踏む音さえ、虚ろに響く。


 コンコン、と控えめなノックの音。


「アイリス様、村長がお見えです」


 使用人の声に、アイリスは懐中時計をポケットにしまった。布地に触れる時計の重みが、決意を新たにさせる。


 応接間へ向かう廊下には、埃の匂いが漂っていた。かつて兄が愛した古書の香りと混じり合い、懐かしくも寂しい空気を作り出している。


 応接間で待っていた村長は、いつもの人の良さそうな笑顔を浮かべていたが、その目は落ち着かなく動いていた。窓から差し込む光が、額に浮かぶ汗を照らし出す。


「アイリス嬢、その……まだ鏡の城のことを?」


「はい」


 即答に、村長の顔が曇る。彼の指が、膝の上で小刻みに震えているのをアイリスは見逃さなかった。


「リオ様の事故は本当に痛ましいことでした。しかし、あの城は危険です。王国の管理下にあるとはいえ、一般人の立ち入りは……」


「事故、ですか」


 アイリスの静かな問いかけに、村長は言葉を詰まらせた。部屋の空気が急に重くなったような気がした。


「兄は、単なる事故で亡くなるような不注意な人ではありませんでした」


「それは……しかし……」


 歯切れの悪い村長の様子に、アイリスは小さく眉を寄せた。何か隠している。村の大人たちは皆、同じような顔をする。真実を語ることを恐れているかのように。まるで見えない鎖に縛られているような、そんな雰囲気が漂っていた。


「お気遣いありがとうございます。でも、私の決意は変わりません」


 穏やかな、しかし有無を言わせない口調だった。


 村長が諦めたように立ち去った後、アイリスは兄の研究室へと向かった。重い扉を押し開けると、古い羊皮紙と魔法インクの独特な匂いが鼻をついた。


 本棚には難解な魔導書が並び、机の上には解読途中の古代文字が散らばっている。アイリスには理解できない内容ばかりだったが、それでも兄の痕跡を感じることができた。ペンの跡、インクの染み、頁の端に残された小さな折り目——すべてが兄の存在を物語っていた。


 引き出しを開けると、一冊の手帳が出てきた。革表紙は手の脂で柔らかくなり、使い込まれた跡が残っている。兄の研究日誌だ。


『妹の体質について —— 完全なる魔法無効。あらゆる術式が彼女には通用しない。これは呪いか、それとも祝福か』


 アイリスは苦笑した。唇に浮かぶ笑みは、どこか自嘲的な色を帯びていた。


 幼い頃から、自分が他の子供たちと違うことは分かっていた。簡単な治癒術も、身体強化の術も、何一つ効果がない。魔法使いの診察を受けても「健康そのもの」という診断しか返ってこなかった。その度に向けられる、困惑と憐れみの混じった視線を思い出す。


『しかし、この特性こそが彼女を守るかもしれない。私に効かないなら、それでいい——そう考えることが大切だ』


 兄は、いつも前向きだった。アイリスの特異体質を欠点ではなく、個性として受け入れてくれた唯一の家族。その温かさが、今も胸の奥で小さな灯火のように燃えている。


 だからこそ、真実を知りたい。


 兄が鏡の城で何を研究していたのか。なぜ死ななければならなかったのか。


 旅支度は既に整えてあった。村の人々には悪いが、もう誰にも止められない。窓の外では、不穏な風が木々を揺らしていた。まるで何かの前触れのように。


「行ってきます、兄さん」


 誰もいない部屋に向かって呟き、アイリスは屋敷を後にした。扉が閉まる音が、決別の鐘のように響いた。


 村の門で、幼なじみのエマが待っていた。朝露に濡れた石畳が、二人の間で冷たく光っている。


「やっぱり行くのね」


「うん」


「……気をつけて。あの城には、変な噂があるから」


「変な噂?」


 エマは声を潜めた。周囲を警戒するような仕草に、アイリスは不安の匂いを感じ取った。


「入った人間が、別人になって帰ってくるって。まるで、魂を入れ替えられたみたいに」


 アイリスは首を傾げた。そんな魔法が存在するのだろうか。朝の冷たい空気が、背筋を撫でていく。


「心配してくれてありがとう。でも、大丈夫」


 懐中時計を握りしめ、アイリスは微笑んだ。金属の冷たさが、不思議と勇気を与えてくれる。


「私には、効かないから」


 その言葉の意味を、エマは理解できなかったが、アイリスの決意が固いことだけは分かった。


 見送る村人たちの不安そうな視線を背に、藍色の髪の少女は鏡の城への道を歩き始めた。朝日が彼女の影を長く伸ばし、まるで過去との別れを告げているかのようだった。


 三日後、彼女はその城にたどり着くことになる。


 兄の死の真実と、自らの運命が交差する場所へ。



   * * *



第2節 鏡の城


 三日間の旅路は、予想以上に過酷だった。森は進むほどに深く、道は曖昧になっていく。時折聞こえる鳥の声も、どこか歪んで聞こえた。まるで森全体が、何かを警告しているかのように。


 森を抜けた先に、それはあった。


 巨大な城が、午後の陽光の中で異様な存在感を放っていた。無数の鏡片で覆われた外壁は、まるで巨大な万華鏡のように光を乱反射させ、見る者の目を眩ませる。城全体が呼吸をしているかのように、壁面の映像が絶えず揺らめいていた。


 アイリスは立ち止まり、目を細めた。圧倒的な威容に、思わず息を飲む。


「本当に、鏡みたい……」


 近づくにつれ、奇妙な感覚が強まっていく。自分の姿が無数に映り込み、歪み、分裂していく。まるで自分という存在が、バラバラに解体されていくような錯覚に陥る。


 空気さえも違っていた。甘い硫黄のような匂いが微かに漂い、古い魔法の残滓を感じさせる。肌を撫でる風は、どこか生温かく、不自然な湿り気を帯びていた。


 兄の研究資料には、この城についての記述があった。古代魔法文明の遺産であり、現在は王国の管理下で魔法研究が行われているという。しかし、実物を前にすると、それだけでは説明しきれない何かがあった。


 正門へと続く石畳を歩く。一歩進むごとに、足音が奇妙に反響する。まるで見えない誰かが、自分の後をついてきているような錯覚。振り返っても、そこには誰もいない。ただ、歪んだ自分の姿が鏡の壁に映っているだけだった。


 正門には、王国の紋章を付けた衛兵が二人立っていた。彼らの鎧もまた、城壁の鏡を映し込んで奇妙に輝いている。


「止まれ! ここは一般人の立ち入りは禁止だ」


 槍を構える衛兵に、アイリスは慌てて両手を挙げた。金属が擦れる音が、異様に大きく響いた。


「あの、私、リオ・ノルヴェインの妹です。兄の遺品を……」


 リオの名前を聞いた瞬間、衛兵たちの顔色が変わった。まるで禁句を口にしたかのような反応。


「ノルヴェイン研究員の……?」


 顔を見合わせる衛兵たち。明らかに動揺している。その様子に、アイリスは胸騒ぎを覚えた。兄の名は、この城でどんな意味を持っているのだろう。


「お待ちください。上に確認を……」


 一人が城内へ駆け込もうとした、その時だった。


 ヴォン、という低い振動音と共に、城門の前の空間が歪んだ。空気が震え、まるで見えない鐘が鳴らされたかのような重低音が腹の底に響く。


「な、結界が反応している!?」


 衛兵たちが後ずさる中、アイリスはきょとんとした表情で立っていた。自分の周りで青白い光が明滅しているが、特に何も感じない。むしろ、微かに心地良いような、懐かしいような感覚があった。


「すみません、これって……?」


「動くな! 結界に触れるな!」


 衛兵の制止も聞かず、アイリスは首を傾げながら一歩前に出た。


 瞬間、信じられないことが起きた。


 堅牢なはずの防御結界が、まるで水のように彼女の体をすり抜けたのだ。青白い光の粒子が、彼女の体を通り抜けて後方へと流れていく。まるで川の中を歩いているような、不思議な感覚。


「あれ?」


 気がつけば、アイリスは結界の内側に立っていた。振り返ると、青白い光の壁が静かに揺らめいている。しかし、自分には何の抵抗も感じられなかった。


 衛兵たちは、槍を取り落としそうになりながら呆然と立ち尽くしている。


「結界を……素通り……?」


「そんなはずは……第三級防御結界だぞ!」


 慌てふためく衛兵たちを残し、アイリスは申し訳なさそうに頭を下げた。


「あの、お騒がせしてすみません。私、ただ兄の……」


 バタバタと複数の足音が近づいてきた。警備隊が駆けつけてきたらしい。金属の擦れる音、荒い息遣い、緊張した空気が一気に場を支配する。


「何事だ!」


「隊長! この娘が、結界を……」


 説明を聞いた警備隊長は、アイリスを見て目を見開いた。彼の顔に浮かぶのは、驚愕と恐怖の入り混じった表情。


「君、今結界を通ったのか?」


「はい……? いけなかったでしょうか」


「いけないも何も……」


 隊長は額に手を当てた。第三級防御結界は、並の魔導士でも突破に苦労する強力なものだ。それを、この少女は散歩でもするように通り抜けた。冷や汗が、彼の額を伝い落ちる。


「とにかく、大人しくしていなさい。上層部に報告する」


 アイリスは素直に頷いたが、心の中では困惑していた。


(結界って、そんなに大変なものだったの?)


 兄との生活では、魔法が効かないことは日常だった。だから、これも同じようなものだと思っていたのだが。


 その後、次々と現れる警備兵たちの慌てぶりを見て、アイリスは何か大変なことをしてしまったのではないかと不安になり始めた。彼らの視線には、畏怖とも恐怖ともつかない感情が宿っていた。


「すみません、私、帰った方が……」


「待て! いや、待ってください」


 隊長は慌てて言い直した。この少女を逃がせば、後で何を言われるか分からない。


「とにかく、詳しい話を聞かせてもらえますか?」


 結局、アイリスは城内へと案内されることになった。


 城門をくぐると、内部の空気がまた変わった。外よりも濃密で、魔力が充満しているのが肌で感じられる。普通の人なら息苦しさを覚えるはずだが、アイリスには心地良い涼風のようにしか感じられなかった。


 廊下を歩きながら、彼女は窓の外に広がる景色に目を奪われた。鏡のような壁面に映り込む空が、まるで別の世界への入り口のように見える。時折、映り込んだ雲が実際の雲とは違う動きをしているような気がした。


(兄さんも、最期にこの風景を見たのかな)


 胸の奥が、きゅっと締め付けられた。懐中時計の重みが、急に増したような気がする。


 気がつけば、警備兵たちとはぐれていた。


「あれ?」


 振り返ると、さっきまでいたはずの廊下とは違う場所に立っている。壁も床も、微妙に歪んで見える奇妙な空間。まるで、空間そのものが生きているかのような、不安定な感覚。


「迷っちゃった……」


 アイリスは困ったように辺りを見回した。しかし、焦りはなかった。むしろ、この城に導かれているような、奇妙な安心感があった。


 不思議と恐怖は感じなかった。むしろ、どこか懐かしいような、暖かいような感覚がある。まるで、かつてここにいたことがあるかのような——いや、そんなはずはない。


 足が自然と前に進む。石畳を踏む音が、複雑な反響を生みながら闇に消えていく。


 角を曲がり、階段を降り、また別の廊下へ。進むたびに、城の構造が変化しているような錯覚に陥る。同じ場所を歩いているはずなのに、景色が微妙に違って見える。


 気がつけば、城の深部へと向かっていた。空気はより濃密になり、古い魔法の匂いが強まっていく。


 途中、いくつもの魔法陣が光を放っていたが、アイリスが通ると何故か沈黙した。青白い光が彼女を認識し、道を開けるかのように消えていく。まるで、彼女を歓迎しているかのように。


 そして——


 重厚な扉の前に立っていた。黒檀で作られた扉には、複雑な紋様が刻まれている。それは文字のようでもあり、図形のようでもあった。


「ここは……」


 扉に手をかけると、カチリと音を立てて鍵が開いた。まるで、彼女が来ることを待っていたかのように。



   * * *



第3節 若き魔導士


 扉を押し開けると、魔法の匂いが一気に押し寄せてきた。古い羊皮紙、魔法インク、そして何か焦げたような匂い。それらが混じり合い、独特の雰囲気を作り出している。


 扉の向こうは、研究室のような場所だった。


 壁一面に古代文字が刻まれ、それらがかすかに脈動するように光っている。中央には複雑な魔法陣が描かれ、その線は床に深く刻み込まれていた。天井まで届く本棚には、見たこともない装丁の書物がぎっしりと並んでいる。


 そして、その魔法陣の前で、一人の青年が資料に目を通していた。


 黒い髪に、鋭い琥珀色の瞳。王国魔導士団の紋章が刻まれたローブを纏っている。彼の周囲には、薄い魔力の膜が張られており、それが微かに光を放っていた。


 アイリスが入ってきたことに気づいた青年——ジーク・ヴァルドナインは、顔を上げて眉をひそめた。ペンを持つ手が止まり、空気が一瞬で張り詰める。


(リオが残した研究資料を整理していた最中に、まさか侵入者とは)


 一瞬、親友の面影を探してしまった自分に気づき、ジークは内心で首を振った。


「君はここで何をしている?」


 低い声には、警戒と職務への責任感が滲んでいた。声が部屋に響き、壁の文字が一瞬明るく光ったような気がした。


「この区域への立ち入りは制限されている」


「あっ……すみません」


 アイリスは慌てて頭を下げた。


「道に迷ってしまって……」


「道に迷った?」


 ジークの眉間のしわが深くなった。


「この最深部までか?」


「最深部……なんですか?」


 アイリスはきょとんとした。


「ずっとまっすぐ歩いてただけなんですけど……」


 その言葉に、ジークは息を飲んだ。椅子が軋む音が、静寂を破る。


(第一から第七まで、全ての防衛結界を突破して……無意識に?)


 あり得ない。この区画に到達するには、少なくとも上級魔導士の力が必要だ。彼自身、初めてここに来た時は、第五結界で苦戦した記憶がある。


 ジークは立ち上がり、慎重にアイリスに近づいた。足音が石の床に響く。職務と、何か違和感を覚える直感が葛藤する。


「君の名前は?」


「アイリス・ノルヴェインです」


 ノルヴェイン。


 その姓を聞いた瞬間、ジークの表情が微かに変化した。瞳孔がわずかに開き、呼吸が一瞬止まる。しかし、すぐに元の険しい顔に戻る。


「ノルヴェイン……なるほど」


 何か納得したような呟きに、アイリスは首を傾げた。


「私の名前、ご存知なんですか?」


「……いや」


 ジークは首を振った。今は職務が優先だ。しかし、胸の奥で何かがざわめいている。


「とにかく、君はここにいるべきではない。すぐに——」


 言いかけて、ジークは気づいた。この少女の魔力が、全く感じられない。


 いや、違う。魔力がないのではない。何か別の……。まるで、魔力という概念そのものから外れた存在のような。


「動くな!」


 ジークは片手を挙げ、呪文を唱え始めた。古代語の響きが室内に満ちる。基礎的な拘束術。相手の動きを封じる、魔導士なら誰でも使える術式だ。


 魔法陣が青白く光り、アイリスを包み込もうとした。光の糸が彼女に向かって伸びていく。


 しかし——


 光は彼女に触れた瞬間、霧のように消えてしまった。まるで、存在しないものに触れようとしたかのように。


「え……?」


 アイリスは不思議そうに自分の体を見下ろした。


「今、何かしました?」


「……なぜ、拘束術が効かない?」


 ジークの顔に、初めて動揺が浮かんだ。額に汗が浮かぶ。


「拘束?」


 アイリスは申し訳なさそうに眉を下げた。


「ごめんなさい、私、何もされてないと思うんですが……」


 その純粋な困惑の表情に、ジークは息を飲んだ。


(この反応……演技ではない?)


 次の瞬間、ジークの脳裏に古代文献の一節が蘇った。埃をかぶった記憶が、鮮明に呼び起こされる。


『魔導を破壊する者、その身に一切の術を受けず』


 まさか——


「君……本当に、何者なんだ……?」


 ジークの問いに、アイリスはますます困った顔をした。室内の空気が、重く沈んでいく。


「えっと、さっき言いましたけど、アイリス・ノルヴェインです。兄の——」


「待て」


 ジークは手を挙げて、彼女の言葉を遮った。頭の中で、情報を整理する必要がある。


 防衛結界を全て無効化し、拘束術も通じない。そして、本人はそれを特別なことだと思っていない。


(まさか……君は古代文献に記された『魔導破壊者』なのか!?)


 ジークの顔が青ざめた。背筋を冷たいものが走る。


「あの、大丈夫ですか?」


 心配そうに覗き込んでくるアイリスに、ジークは一歩後ずさった。


「近寄るな!」


「ひっ」


 アイリスが怯えたように肩を震わせる。その反応を見て、ジークは我に返った。


(いや、待て。本当に魔導破壊者なら、こんな怯え方をするだろうか?)


 もう一度、慎重に少女を観察する。


 深い藍色の髪に灰銀の瞳。質素な旅装。どう見ても、ただの村娘だ。しかし、その瞳の奥には、何か見透かすような深さがあった。


 しかし、その「ただの村娘」が、城の最深部まで到達している事実は変わらない。


「君は……本当に道に迷っただけなのか?」


「は、はい」


 アイリスは必死に頷いた。


「本当です。警備の人たちとはぐれて、気がついたらここに……」


(警備が見失った? それも異常だ)


 ジークの中で、警戒心と好奇心がせめぎ合っていた。


 その時、アイリスがポケットから何かを取り出した。布が擦れる小さな音。


「あの、もしかして、これのせいでしょうか?」


 差し出されたのは、古い懐中時計だった。鈍い金色の表面には、細かな傷が無数についている。


 それを見た瞬間、ジークの顔色が変わった。心臓が大きく跳ねる。


(この時計は……リオの……!)


「それは、どこで手に入れた?」


「え? これは兄の形見で……」


 アイリスの何気ない一言が、ジークの思考を停止させた。


 兄。


 形見。


 つまり——


「君が……リオの……妹?」


 搾り出すような声だった。喉が急に渇く。


「えっ、やっぱりご存じなんですね!」


 アイリスの顔が、ぱっと明るくなった。灰銀の瞳に、希望の光が宿る。


「兄に何が——」


「待て」


 ジークは片手で額を押さえた。あまりにも急な展開に、頭が追いつかない。研究室の空気が、さらに重くなっていく。


(リオの妹が、まさかこんな形で現れるとは)


 三秒間の沈黙。壁の古代文字が、その間も静かに脈動を続けている。


 ジークの顔に、複雑な感情が次々と浮かんでは消えた。驚き、困惑、そして——罪悪感。


「……彼は」


 ジークは言葉を選びながら、ゆっくりと口を開いた。口の中が、金属の味がした。


「かけがえのない友人だったよ」


 視線を逸らしながら呟いた言葉に、真実の重みがあった。


「友人……」


 アイリスは、兄とこの青年の関係を理解した。そして、その表情に浮かぶ苦渋の色も。空気に漂う後悔の匂いを、彼女は敏感に感じ取った。


「兄は、どうして……」


「……済まない」


 ジークは首を振った。


「今は、詳しいことは話せない」


 その言葉に、アイリスの肩が落ちた。希望が、音を立てて崩れていくような感覚。


 しかし、すぐに顔を上げる。


「でも、知りたいんです。兄に何があったのか」


 真っ直ぐな瞳が、ジークを射抜いた。


「たとえ、辛い真実でも」



   * * *



第4節 真実への第一歩


 研究室に重い沈黙が落ちた。


 古代文字の脈動だけが、時の流れを刻んでいる。どこか遠くで、城の心臓が鼓動しているような、そんな錯覚に陥る。


 ジークは、アイリスの瞳を見つめていた。そこにあるのは、亡き友人と同じ、真っ直ぐな意志の光。


(リオ、君の妹は……)


 胸の内で呟き、ジークは小さく息を吐いた。冷たい空気が、肺を満たす。


「君も、兄のことを知りたいのか」


「はい」


 即答だった。迷いのない声が、静寂を破る。


「兄に何があったのか、どうしても知りたいんです」


 その決意の強さに、ジークは亡き友人の影を見た。リオも、真実を追い求めることに妥協しない男だった。その純粋さが、時に危険を招くことも知らずに。


(だからこそ、あんなことに……)


 苦い記憶が蘇る。血の匂い、最後の言葉、閉じられた瞳。ジークは首を振り、現実に意識を戻した。


「この城に関わるのは危険だ」


 低い声で警告する。壁の文字が、その言葉に反応するかのように一瞬明るく光った。


「真実を探るには、覚悟がいる」


「それでも」


 アイリスは一歩も引かなかった。小さな体に、鋼のような意志が宿っている。


「私は知りたい。たとえ怖くても」


 その言葉に、ジークの中で何かが動いた。


 職務として、この少女を城から追い出すべきだ。しかし——


(リオの妹を、このまま帰すのか?)


 親友への負い目が、ジークの心を締め付ける。罪悪感が、鉛のように重い。


 リオが死んだあの日、自分はそばにいなかった。もし一緒にいれば、違う結果になっていたかもしれない。


 その後悔が、今も胸の奥で燻っている。煙のように、決して消えることなく。


「……いいだろう」


 ついに、ジークは決断を下した。運命の歯車が、重い音を立てて動き始める。


「命令じゃない。選べ」


 まっすぐにアイリスを見つめる。琥珀色の瞳に、覚悟の炎が宿る。


「君の意志で進むなら……導こう」


 その言葉に、アイリスの瞳が潤んだ。感謝と安堵が、涙となって溢れそうになる。


「……ありがとうございます」


 深々と頭を下げる少女に、ジークは複雑な表情を浮かべた。


「礼を言うのは早い。これから君が知ることは、決して楽しいものではない」


「分かっています」


 アイリスは顔を上げ、小さく微笑んだ。その笑顔に、ジークは一瞬息を飲む。


「でも、兄がいつも言っていました。『私に効かないなら、それでいい』って」


 その言葉に、ジークは目を見開いた。


「効かない……?」


「はい。私、魔法が全く効かない体質なんです」


 あっけらかんと告白するアイリスに、ジークは改めて驚愕した。


(魔法が効かない体質……それで結界も拘束術も)


 パズルのピースが、一つずつはまっていく。頭の中で、様々な可能性が渦を巻く。


「君は、生まれつきその体質なのか?」


「みたいです。小さい頃から、治癒術も強化術も、何も効果がなくて」


 アイリスは苦笑した。その笑みに、長年の諦めと受容が滲む。


「村の人たちには、変わり者だって言われてました」


「……そうか」


 ジークは考え込むように顎に手を当てた。ローブの袖から、魔法インクの匂いが微かに漂う。


(完全な魔法無効体質。リオは、このことを研究していたのか?)


 いや、それだけではないはずだ。リオがこの城で追い求めていたものは、もっと大きな何かだった。世界の理に関わる、途方もない秘密。


「とりあえず、ここは危険だ」


 ジークは立ち上がった。椅子が石の床を擦る音が響く。


「私の研究室へ案内しよう。そこで詳しい話を」


「あの」


 アイリスが遠慮がちに声をかけた。


「お名前を聞いてもいいですか?」


「……ジーク・ヴァルドナインだ」


「ジークさん……」


 アイリスは、その名前を大切そうに呟いた。まるで、新しい希望を手に入れたかのように。


 二人が研究室を出ようとした時、廊下から慌ただしい足音が聞こえてきた。金属の擦れる音、荒い息遣い。緊張が、波のように押し寄せてくる。


「ジーク様! 侵入者が——」


 飛び込んできた警備兵は、アイリスの姿を見て絶句した。


「な、なぜここに!?」


「落ち着け」


 ジークが手を挙げて制止する。


「彼女は侵入者ではない。私の客人だ」


「客人!? しかし、この方は結界を——」


「分かっている」


 有無を言わせない口調で、ジークは続けた。


「上層部には私から報告する。君たちは持ち場に戻れ」


 警備兵たちは困惑しながらも、上級魔導士の命令に従った。彼らの足音が遠ざかっていく。


 その様子を見ていたアイリスは、申し訳なさそうに肩を縮めた。


「みんなを困らせちゃって……」


「気にするな」


 ジークは振り返らずに歩き始めた。


「それより、これから君は特別な存在として扱われることになる」


「特別……ですか?」


「ああ。魔法が効かない人間など、この城では前代未聞だからな」


 その言葉に、アイリスは戸惑いを隠せなかった。


 今まで、自分の体質は厄介なものでしかなかった。それが「特別」だなんて。戸惑いと共に、かすかな希望も芽生える。


 ジークの後ろを歩きながら、アイリスは兄の言葉を思い出していた。


『効かないなら、それでいい』


 もしかしたら兄は、この時のことを予見していたのかもしれない。すべては、運命の糸で繋がっていたのかもしれない。


 廊下の窓から、歪んだ空が見えた。鏡の壁に映る夕日が、無数に分裂し、まるで世界が崩壊していくかのような光景を作り出している。


 鏡の城の迷宮で、藍色の髪の少女と黒髪の魔導士の奇妙な関係が始まった。


 それは、失われた真実への第一歩であり——


 アイリスがまだ知らない、大きな運命の歯車が動き始めた瞬間でもあった。


 歩きながら、アイリスは微かな違和感を覚えた。廊下の影が、実体とわずかにずれて動いているような。時間そのものが、この城では歪んでいるのかもしれない。


「ジークさん」


 不意に、アイリスが口を開いた。


「兄は、ここで何を研究していたんですか?」


 ジークは立ち止まり、振り返った。


 夕日に照らされた琥珀色の瞳に、深い憂いが宿っていた。影が彼の顔を半分覆い、その表情を読み取りにくくしている。


「……古代の、ある秘密についてだ」


「秘密?」


「ああ。この城に隠された、世界の理に関わる秘密を」


 ジークは再び歩き始めた。足音が、不規則な反響を生む。


「君の無反応体質も、もしかしたらそれと関係があるのかもしれない」


 アイリスは、胸の懐中時計を握りしめた。金属の冷たさが、現実を確かめさせてくれる。


 時計の針は止まったままだが、真実への時間は動き始めている。


 兄が残した謎と、自分の存在の意味。


 その答えを探す旅が、今、始まったのだった。


 遠くで、城の鐘が鳴った。その音は歪み、まるで過去と未来が交錯しているかのような、不思議な響きを持っていた。

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