隙間の侵食

「先生、また会いましたね」



翌朝、出勤途中。

シオンがふと立ち寄ったコーヒーショップのレジ前に、彼女はいた。



『…ルナ、さん?』



白いブラウスに黒のワンピース姿で、紙コップを手に微笑んでいる。

まるで偶然を装うような自然な仕草。

だがシオンの心は静かにざわついた。



『奇遇ですね』



医師としての仮面を貼り付け、短く返す。

しかしその声色に、無意識に力が入るのを止められなかった。



「私、ここのラテが好きなんです。先生は?」



『…ブラックしか飲みません』



「ふふ、らしいですね。苦いの、似合います」



無害な言葉のはずなのに、胸の奥で何かがじわりと広がった。

懐かしさにも似た、でもそれ以上に

警戒心を煽る奇妙な感覚。



まただ。

この女は、何かを知っている。



だが自分は、何も覚えていない。



彼女はそれ以上は何も言わず、軽く手を振って出て行った。

その背中を見送った後、シオンの持つ紙コップは静かに震えていた。


 


× × ×




それから数日。

彼女は“自然と”日常に現れるようになった。



病院の前。

帰宅途中の路地裏。

休日に立ち寄った古本屋。

まるでGPSでも埋め込まれているかのような、偶然の連続。



「また会いましたね」



『……本当に』



「ええ。もう、偶然とは言えないくらいに」



含みのある笑み。

その目はシオンを試すようにじっとこちらを見つめ、逸らさなかった。



一線を越えている。それはわかっていた。

けれど、何故か拒めない。



彼女の声、匂い、言葉、仕草。

どれもが“何か”に似ていた。

忘れてはいけない何かに。


 


× × ×




「先生、これ、好きですか?」


病院の屋上。

夕焼けに照らされる中庭で、ルナは持参したサンドイッチをシオンに差し出した。



『何故、あなたはそこまで僕に…』



「だって、私たちは…」



ルナはその一瞬、言葉を止めて、目を伏せる。

長い睫毛が震えていた。




「特別だったから」




その言葉が、頭の中で何度も反響した。

記憶が、形を持たずに軋む。

まるで焦点の合わない写真のように、断片的な情景が一瞬だけ脳裏をよぎる。



___紅い傘。


___濡れた指先。


___「やっと会えたね」


___笑っていた。血を流しながら。





『…あなたは、僕を知ってるの?』



「知ってる」



『なら教えてください。僕は、あなたに何を?』



その問いに、ルナは微笑んで言った。



「“先生自身”に思い出して欲しいんです」



『…僕に?』



「そう。あなたの記憶、すごく美しいから」




ルナはそう言って、サンドイッチの包みをそっと開いた。

また一切れを差し出して、彼女は笑っていた。


シオンは黙ってそれを受け取り、齧る。

柔らかいパンの甘さと共に、胸に刺さるような鋭い痛みが走る。


何かがおかしい。

けれど、それが“何”なのかがわからない。


 



× × ×





その夜、初めて彼女の夢を見た。


黒髪の女が、暗い部屋で歌を口ずさんでいる。

その声はどこか子守唄のようで、とても不気味だった。



「わたしは、だれでしょう?」



背後で囁く声。

振り返った先に目も口もない、ただ笑っている女の顔があった。


目が覚めたとき、シオンの両手は枕を強く握り締めていた。

ただの夢。

そのはずなのに、手のひらが濡れていた。

汗か、涙か、それとも。



わからない。

自分が何に泣いているのかも。

何を恐れているのかも。


 



× × ×





ルナは今日も言う。



「ねえ、先生、思い出してください」



『いや、思い出せない』



「……忘れるなんて、本当にひどい人」



言葉の奥に、柔らかな棘。

それでも彼女は、優しく笑う。



その笑顔は凍てつくほどに冷たく、怖い。



彼女は一体、誰なのか。

なぜ自分は、何も思い出せないのか。



本当に、忘れているのは彼女の方なのか。

それとも、自分なのか。


 


少しずつ。

静かに、世界に“違和感”が染み込んでいく。


何も変わってなどないはずなのに、

すべてが最初から狂っていたような気がしてならなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ルナの罪業 鳴沢 梓 @Azusa_N

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ