ルナの罪業
鳴沢 梓
彼女の名
雨が降っていた。
それは静かで、凍るように冷たく、すべてを洗い流すような音だった。
街の雑踏は夜更けとともに消え去り、ただ機械的な信号音と、時折響く車のエンジンだけが、現実の残り香のように存在していた。
都心にある大学附属病院。
真夜中の白い廊下は、異様なほど静まり返っていた。
その一角、モニターが静かに点滅する部屋で
研ぎ澄まされた白衣の襟。
キュッと締められたネクタイ。
整然としたデスク。
彼はいつも通りだった。
誰が見ても冷静で、感情の起伏を感じさせない
完璧な医師の姿。
だが、その目の奥だけは少しだけ空虚だった。
満たされない何か。空っぽの心の奥底で、何かが蠢いている。
それが何なのかはわからないまま。
「先生」
不意に、耳に微かな声が届いた。
「シオン先生、ですよね?」
小さな声。けれど、確かに名前を呼ばれた。
反射的に顔を上げ、振り返る。
部屋の前のガラス扉越しに
そこに、ひとりの女が立っていた。
白いシャツにカーディガンを羽織り、
艶やかな黒髪が肩に落ちている。
美しい、とすら言える容姿だったが、
妙に不安定な気配があった。
どこかで見たことがあるような、けれど思い出せない。
『どちら様ですか?』
静かに立ち上がりながらシオンが問うと、女は少しだけ微笑んだ。
「やっぱり覚えてないんですね。私のこと」
『…』
「ルナ。私の名前、ルナです」
名前を名乗ったその瞬間。
シオンの心の中に、薄く鋭い亀裂が走った。
名前は、知らないはずなのに。
その響きに、胸が強くざわめいた。
『診察のご希望ですか?時間、とっくに過ぎてますが』
彼はそれ以上踏み込まず、医者としての顔で応じた。
「ううん、そうじゃない。
ただ、先生に会いたかったの」
ルナは、意味深な笑みを浮かべてそう言った。
不自然な距離感。
だが、それはただの違和感ではなかった。
もっと本質的な、何かが欠けたような、奇妙な空白。
『なぜ、僕のことを?』
「前に会ったことがあるの。
でも、先生は……全部忘れてしまったみたい」
どこか哀しげにそう言う彼女の瞳を見つめながら、シオンは無意識に指先を握り締めていた。
忘れてしまった記憶。
知らないはずの名前。
でも、この女の佇まいだけが、
なぜか「懐かしい」と脳が告げていた。
「… お話を、聞かせていただけますか」
その一言が、始まりだった。
終わったはずの物語を、もう一度なぞるように。
狂気の檻の鍵を、ふたたび開けてしまった瞬間だった。
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