くつずれしたい
望月おと
くつずれしたい
「えいちえすぴー?」
私は唐揚げをつまむ箸を止めた。彼女は妙に深刻そうな顔をしている。口の中の衣は舌の上で居心地悪そうにしていた。噛むたびに「それどころじゃない」と主張してくる。どこかのプログラミング言語のような、はたまた新種のSNS用語のような、聞き慣れない単語。なんとか咀嚼して、甘ったるいカシスオレンジで流し込む。
「え、何それ」
「私。なんか、繊細すぎる病気、的な。」
向かいに座った彼女は、言い終えるや否や枝豆に手を伸ばした。感情的な話の途中とは思えないほどスムーズにさやを開き、無言でひとつ頬張る。私は一瞬黙った。返し方がわからない。なんと返せば彼女は満足するだろうか。脳内を思考が駆け巡る。
「そうなんだ」興味ないのか。薄情者。
「辛いね」お前に何がわかる?
「可哀想」他人事?上から目線で鼻につく。
「大丈夫?」大丈夫じゃないから言うのだ。
「私もわかるかも」出しゃばるな。
「なんで?」……いや、なんで?
いくつものセリフが頭をよぎったのに、最終的に出たのは、時間にして二秒、内容としてはゼロ点の、「はぇ〜」という、日本語とも疑わしい音だった。まぬけな鳴き声。最悪である。唐揚げもきっとびっくりしている。私という人間は、常に最悪のタイミングで最悪の選択をすることに定評がある。彼女はそれを気にとめず、続ける。
「HSPって、いろんなこと感じすぎて、人の感情とか空気とか、考えすぎちゃうんだ。生きづらいの、私」
なんだか少し誇らしげに聞こえた。「私は選ばれし者」といった風情である。ああ、なるほど。ここで私は思うのだ。この話のどこまでが弱音で、どこまでが自慢なのか。彼女の話には、つねにこの境界線のなさがある。彼女の言葉には、弱音と誇りとアピールが、まるで見分けがつかないくらい、なめらかに混ざっていた。
「アンタはいいなあ。悩みなさそうで」
彼女はそう言って、ファジーネーブルをちびりと啜った。こちとら、さっきの返答を引きずって胃が重くなってるというのに、彼女の顔には、店内BGMくらいの関心しかなかった。悩みなさそう、とはまた。人の気持ちを考えすぎて疲れる、といった張本人が、他人の内面をこんなにも雑に決めつけていいものだろうか。
私はまた、ヘラヘラと笑った。口角だけが勝手に動く、あの「無難な顔」だ。こいつが厄介なのだ。怒りも悲しみも笑顔で包んでしまうこの顔のせいで、私は日々誤解されて生きている。
たいてい、彼女の話は自慢か愚痴か弱音で構成されている。ときどき、全部ミックスされた「愚痴風自慢の弱音」も登場する。なかなかの技巧派である。私はそれを聞いている。というより、ただ音として浴びている。私が彼女と同じように誰かに話し続けようにも、たぶん途中で不安になって沈黙してしまうだろう。なぜなら私は、自分の話が相手にとって面白いかどうかを、始める前から心配する人間だからだ。
彼女は精神的に不安定らしい。連絡が来るのはそういうときだけ。つまり、私という存在は「タイミングのいい絆創膏」なのである。都合がいいときにペタリ。都合が悪くなると、無言で剥がされる。でも、「好き」とか「信頼できるのはアンタだけ」とか、そういう甘い餌を時折くれるので、喜んで飛びつく。単純な犬である。尻尾の代わりに自己肯定感が跳ねる。調子に乗った自分に、三歩後ろで嫌気がさす。
ちなみに私にも悩みは山ほどある。今この瞬間も、さっきの「はぇ〜」の反省会を頭の中で三巡している。おそらく夜には再演が行われる。演出・脚本・主演すべて私。ギャラはない。人の顔色を窺うことにかけて、私はなかなかの芸達者である。人類みんなのご機嫌取り。世界の空気清浄機とでも呼んでもらって構わない。
一通り彼女の機嫌をよくした頃、終電の時刻が近づいてきた。私たちは会計を済ませて、夜風のなかに出た。必死に頭を稼働させていたので、まったく酔えてない感覚だったけれど、立ち上がるとふわりと世界が傾いて、ちゃんと酔いは回っていることに気がつく。「楽しかった、また誘うね!」と笑いながら、小さく手を振る彼女の顔を見て、少しほっとする。今回も私は、ちゃんと、彼女にとって"ちょうどいい私"という役を全うできたらしい。よかった。拍手もカーテンコールもなかったけれど、たしかに今日の舞台は成功だった。
帰宅途中、電車の中で検索をかける。HSP。Highly Sensitive Person。生まれつき感受性が高く、人の気持ちに敏感。物音や光に過敏で、脳の処理が深く、何事にも疲れやすい人。どうやら“気質”らしく、“病気”とは違うらしい。診断などはされず、あくまで自己判断。気質。実に便利な言葉である。使い勝手がよさそうだ。
彼女がHSPを名乗るなら、私だって……そんなふうに思いかけた自分に、思わず苦笑する。いやいや、私はそこまで繊細じゃない。むしろ鈍い。たしかに、大きな音も、眩しい光も苦手だ。でも、それらは大抵の人間が苦手だろう。そして、どちらかというと、耳は悪い方である。今日のようなざわめく居酒屋では、相手の声が全然聞き取れない。「え?」とか「ん?」を重ねているうちに、自分でもうるさく思えてくる。でも聞こえないものは聞こえない。申し訳なくなって、二回目からは聞こえたふりをする。察しの演技力だけで日常会話が成立している。そろそろ読唇術が身についてもいい頃だと思う。
感受性も、たいしてない。映画も本も音楽も、感想はたいてい「よかった」か「よくなかった」の二択で終わる。本当は、もう少し何かは思っているのだろう。けれど、それを言葉にする技術が私にはない。いや、違う、技術ではない、勇気である。もし、私の感想が“正解”でなかったら。相手の顔に走ったかすかな陰りに、私は、まるごと沈んでしまう。自分の「好き」が、間違っていたのだと思い知らされる。そのとき漂う、あの妙にしんとした空気が、どうしても怖い。息ができなくなる。
たしか、高校生の頃。よく聴いていたバンドがあった。名前は言わない。というより、もう忘れかけている。ある日、母とふたりきりの車内で、そのバンドの曲を流してみた。私は、母のすすめる音楽はたいてい好きだったから、今度は私の「好き」を聴かせたかったのだ。そして、できれば、微笑んでほしかった。「いい曲ね」と言ってほしかった。その一言があれば、「でしょ」と胸を張って返せた。母と「好き」が重なる、そのひとときのために私は、ひそかに心を差し出した。
結果は、あっけなかった。母は眉をひそめて、無言で停止ボタンを押した。それだけだった。あの沈黙の手つきが、今でも胸の奥でじわりと痛む。以来、私はそのバンドを聴かなくなった。好きだった気もするし、そうでもなかったような気もする。あまりに見事に拒否されて、私は自分の「好き」ごと処分してしまったらしい。誰かに否定されると、自分の気持ちまで信用ならなくなるのだ。つくづく、いやになる。
だから先に相手の言葉を待つ。「わかる〜」が言えるまでは黙っている。正解がわかったら、そこに自分の気持ちを乗せる。不正解だったら、感情ごとポケットにしまう。そうやって、外に出す前に、何度も何度も心の中で検閲する。私は自分専属の、ちょっと厳しめの校閲係だ。SNSの投稿ボタンの前で指が止まる、あの感じ。それを、ずっと頭の中でやっている。
そう考えると、私は“聞いてばかり”などという被害者ヅラの甘やかされた表現では到底足りない。単に“話さないだけ”で、身動きひとつできぬまま、怯え続ける臆病な女である。嫌われるのが怖くて、ぶつかることを避けて避けて、蛇行するように逃げているうちに、もはや、自分がどこにいるのかさえ、わからなくなってしまった。
繊細。なんて美しい言葉だろう。だが私には似合わない。私が抱えているのはただの自己愛。いや、ただのというには、あまりにも重たくて、分厚い。自分が好きで好きでたまらない。傷つけたくない。大切に大切に、可愛がっている。だからこそ、自分をさらけ出すことには、得体の知れない恐怖がつきまとう。もし、その大好きな自分を否定されたらと思うだけで、身体の奥が冷え、震えが止まらなくなる。だからこそ、外から投げられる薄っぺらい「いいね」に、命を預けるしかない。
ナルシシズムは、傍から見れば滑稽でも、内側からすれば地獄だ。哀れで、惨めで、それでも手放せない。こんなにめんどくさい思考を、こんなにぐるぐる巡らせている時点で、もう既に繊細の枠を超え、迷惑の領域に足を踏み入れている気がしてならない。
それにしても、彼女の「HSPだから」というその宣言が、少しだけ眩しかった。これは私の気質です、なんて、なんと立派な言い分だろう。私はまだ、自分の脆さを「性格」と呼び、疲労を「甘え」として隠し、そして、まだ疑っている。自己否定と自己愛が、私の中で椅子を争っている。けれど、どちらが勝っても私は立ったまま。最初から座れるような人間じゃないのだ。
本物とか自称とか、正直、どうでもいい。皆、自分の痛みに名前をつけたがっている。名前さえあれば、その痛みは「持っていてもいいもの」に変わり、堂々と胸を張ってうずくまることができる。それがたとえ、ひどくいびつで、ちっとも誇れない形だったとしても。
でも私は、まだ何ひとつ名乗れずにいる。自分の痛みを信じられない。名前をつけるには、それなりの自信がいるのだ。私は、それすら持っていない。たとえば、靴ずれが「靴ずれ」と名づけられているように。しかも、靴擦れ、なんてちょっと可愛い語感じゃないか。言えば誰かが心配してくれるし、絆創膏だって、もらえる。私の痛みは違う。名前もなく、響きも悪く、説明すれば相手の首をかしげさせるだけ。人の絆創膏にはなれても、貼ってもらえはしないらしい。
だから私は、名もなく、黙ったまま、日々に削られていく。少しずつ、すり減って、破れて、誰にも見つけられずに消えていく。なんのラベルも貼られず、どこにも仕分けられずに。たちの悪いのは、それがちゃんと「痛い」ということだ。
名もなく、見えもしないくせに、確かに私を蝕んでいく。ああ、痛い。
だから——
ねえ、私にも名前をください。
できれば、ちょっとかわいいやつで。
そしたら、Googleで検索くらいはできるのに。
くつずれしたい 望月おと @m_oto_o0
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