第16話 静かなる誓い
夕暮れのオフィスは、明日のヘルスケア・イノベーション・アワードの準備に向け、まだ人の気配が絶えなかった。
飲食スペースには差し入れのサンドイッチや冷めかけのコーヒーが並び、空の紙コップがいくつも積まれている。
疲労と緊張が混ざった空気の中、俺は氷室と隅のテーブルに向かい合って座っていた。
「明日か……勝てるかな」
「やるだけのことはした。勝てるわ。それに……」
「それに?」
「例え負けたとしても、それで終わりじゃないわ」
氷室が、胸元のペンダントを無意識に指でなぞりながら、微笑む。
柔らかな雰囲気。
前から気になっていたこと、今なら聞けそうな気がした。
「それさ、癖だよな。ペンダント」
氷室が少し驚いた顔をして、それからふっと遠くを見る目をする。
「そうね、元は姉のものだったの」
俺は静かに頷く。
氷室の部屋の壁際の棚に置かれた若い女性の写真。
面影が似ていた。
もしかしたら姉か妹かもしれないと思っていた。
「今、何を?」
氷室は小さく息を吐き、グラスを指先でなぞる。
「……姉は僻地の診療所で自殺したわ。自分の誤診を悔いて」
淡々と語る声の奥に、微かな震えがあった。
「当時は人手不足で、毎日が極限状態だったの。夜勤明けで48時間眠れず、医薬品も足りない。転送先の大病院も受け入れ拒否で……判断を誤ったの」
氷室は視線を落としたまま続ける。
「患者さんは助からなかった。SNSで責められて、上司からも突き放されて……最後は、もう居場所を失っていた」
その横顔に、強さと同じくらい深い悲しみがあった。俺は何も言えず、ただその影を見つめていた。
――周囲のざわめきがすっと引いていくように感じた。
耳の奥に残るのは、自分と彼女の呼吸音だけ。
俺はそっと片腕を伸ばし、彼女の肩に手を置いた。
細い肩がわずかに揺れたが、彼女は視線を逸らさない。
その瞳の奥に、深く閉じ込められた痛みと強さが同時に宿っているのを感じた。
だからか、と合点がいく。
加賀見を倒したい。
それ以外に、彼女にはどこか俺の技術に思い入れがあるように感じていた。
彼女は一度、言葉を切り、深く息を吐く。
「あのとき、この技術があれば姉を救えたかもしれない。だから、私はあなたの技術に賭けている」
俺はしばらく黙って氷室を見つめた。
いつもと同じ、冷静で落ち着いた顔。
その強さの中に、深い悲しみと傷があった。
それが、ずっとまぶしく、愛おしかった。
だからだろうか。自然と、口が動いていた。
「……もし明日、アワードで勝ったら、俺と結婚してくれる?」
氷室は驚き、すぐに苦笑を浮かべる。
「条件付きプロポーズ? ずいぶん合理的ね」
「じゃあ、勝っても負けても」
「しかもこんなところで」
「……もしかして、断られてる?」
氷室の口元がわずかに緩む。
「どうかしら。それは明日のお楽しみに」
ふと視線を落とした氷室のペンダントが、蛍光灯の光を反射して揺れた。
俺はその輝きを目に焼き付けるように見つめる。
飲食スペースのざわめきが遠くに感じられた。
紙コップ越しの温もりと、静かに交わる視線。
外は藍色の夜に染まり、窓の外の街灯がゆっくり瞬いていた。
二人の間に流れるのは、戦いの前夜にふさわしくない、穏やかで温かな時間だった。
***
その数時間後のオフィス。
誰もいなくなったフロアで、セリスはひとりデスクに残っていた。
片づけられた会議資料と、飲みかけの冷たい水。
ふと視線を上げると、窓の外にはビル群の灯りが滲んでいた。
つい先ほどまで、向かいの席には久遠と氷室がいた。
肩を並べ、時に笑い、時に沈黙しながら、明日に向けて言葉を交わしていた二人の姿が、脳裏に焼き付いている。
「……いいチームになりました」
思わず漏れた独り言に、自分でも少し驚く。
かつての自分なら、感情を挟むような真似はしなかった。
『失敗は負けじゃない。勝つための道だ。やめるのが負けだ』
叔父の言葉が、また思い出される。
リビアトを逃げたあの夜。
自らCEOを退き、すべてを手放して逃げた自分に、どこかでずっと捕らわれていた。
でも今は違う。
もう一度、賭けてみようと思える。
久遠に、氷室に、そして自分自身に。
「……勝てるか。いや、たとえ勝てなくても」
セリスは背もたれに身を預け、天井を見上げる。
その瞳に宿るのは、かつてのような焦りではなく、静かな火だった。
戦いの前夜、誰にも見られない場所で、 もう一人の闘う者が静かに立ち上がろうとしていた。
──だがその頃、別の闘志は、愛と憎しみの狭間で静かに歪みはじめていた。
***
加賀見が自宅に帰ると、久しぶりに妻が帰宅していた。
柔らかな笑みを浮かべながらも、どこか距離を保つその姿は、昔、久遠が密かに想いを寄せていた“マドンナ”そのものだった。
かつて彼女は久遠を好きだった――その事実を、加賀見は結婚後に知った。
以来、心の奥底に沈殿した黒い影が消えない。
彼女の父は医療系VCの大物であり、結婚した理由のひとつは、その強力な人脈と資金の後ろ盾だった。
しかし、それだけではない。
加賀見にとって彼女は、志を理解してくれる稀有な存在でもあった。
「……ずいぶん帰ってなかったわね」
「仕事が詰まっていたんだ」
短い返事。
食卓に豪華な皿は並ぶが、箸はほとんど動かない。
「お父様が心配してたわ。あなた、最近あの技術に――久遠くんの技術に、こだわりすぎじゃないかって」
「その名前を呼ぶな」
低く押し殺した声とともに、フォークが皿を打ち、甲高い音が響いた。
「こだわりじゃない。必要なんだ」
「……あなたが本当は志のある人なのは知ってる。誰よりも医療を良くしたいと願ってることも」
「ならわかるだろう。これは必要なんだ」
「でもね、あなたは……患者じゃなくて、久遠くんばかり気にしてる」
グラスを握る手に力が入り、氷が小さく音を立てた。
「違う」
「違う? 本当に? だったら、あの人のことを口にするときのその顔は何」
低く荒い声が返る。
「黙れっ」
妻は小さく笑った。
柔らかく、しかし刃を含んだ笑みで。
「……ここに帰らなきゃよかったわ」
「何だと」
「もしあなたがアワードを取れなかったら――一緒にいる意味がないわね」
沈黙。
氷が解ける音だけが響く。
彼女は視線を逸らさず、静かに夫を見据えた。
もう理解しようという気持ちはとうに失っている。
ただ惰性で続く関係の中で、久遠の名ひとつで理性を揺らすこの男を見ていた。
野望と志、その両方を抱えていることはわかっている。
それでも、久遠に向けた狂気じみた執着だけは、理解できない。
その発端は自分なのかもしれないとしても。
彼女は椅子を引き、何も言わずに寝室へと姿を消した。
残されたリビングには、冷めた料理と氷の溶ける音だけが漂っている。
ひとりきりの静けさが、かえって加賀見の胸を締めつけた。
もしアワードを逃せば、妻も、地位も、人脈も、すべて失う。
残るのは、久遠に後れを取ったという屈辱だけだ。
「……いいだろう」
加賀見はワイングラスを置き、スマホを手に取った。
画面に浮かぶのは、裏で繋がるチャットアプリ。
すでに仕込んである“反撃”の駒が、次の指示を待っている。
失えば失うほど、勝利への執念は鋭さを増す。
家族を繋ぎ止めるためでも、久遠を踏み潰すためでも構わない。
「勝つ。それ以外に選択肢はない」
闇に沈むリビングで、彼の目だけが爛々と光っていた。
***
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