第四幕:鉄球の重さを知る夜
夜の魔王城は、静かだった。
窓の外には月。ベランダのレースカーテンが、風に揺れている。
その部屋の中央、リリアは机に向かっていた。
椅子に座っているはずなのに、なぜか正座。
手元には分厚い本が数冊。紙のにおいと、魔王の香水が混じって鼻に残る。
「…………なんで、私、勉強してるんだろ……」
ぶつぶつと呟きながらも、手は止めない。
目の前にいる魔王が、ゆったりと紅茶を淹れているのを気にしつつも。
「ふふ。真面目なのね、リリア」
「真面目っていうか……これ、内容おかしいですよ。私の知ってる歴史と全然ちが……」
「教会が教える“人間に都合のいい歴史”と、
実際にこの世界で起きていたことは、必ずしも一致しないものよ」
魔王の言葉に、リリアは黙り込む。
何度か本を読み返して、ページの端に書かれた年号と事件名を確認する。
「……百年前の“魔族大戦”。
人間側が“魔王を打倒した”って書かれてるけど……」
リリアは、そっと目を上げた。
「この本だと、“講和の直後に人間側が裏切って、魔王の娘を殺した”って……書いてあります」
「そう。あの子は……十歳にもならない、穏やかな子だったのよ」
魔王の言葉は、ゆっくりだった。
口調は変わらないのに、どこかに微かな震えがあった。
「でも、その事件は記録から消され、代わりに“正義の勝利”が語られた。
あなたの聖典に書かれている通りね」
「……知らなかった……そんなの、聞いたことなかった……」
リリアは本を閉じた。
思わず力が入って、ページの角がくしゃりと折れてしまう。
膝の上で、拳を握る。
「じゃあ……じゃあ、私がずっと口にしてた“聖女の祈り”って……」
魔族を滅せよ、と唱えていた。
悪を焼き尽くせ、と祈っていた。
その言葉の先に、本当は子どもたちがいたのかもしれない。
胸の奥が、痛くてたまらなかった。
「……私……ほんとに、なにも知らなかったんだ……」
肩が震える。
頬を伝うのは、知らなかったことに対する涙だった。
誰かに嘘をつかれたことじゃない。
“知らなかった”という自分の小ささが、情けなくて、悔しかった。
そのとき。
大きな何かが、やさしくリリアの背中に触れた。
――魔王だった。
ソファから腰を上げ、彼女はリリアの後ろにそっと立ち、
両腕でリリアの肩を包み込むように抱きしめた。
「……ねえ、リリア。あなたが悪いわけじゃない」
「でも……私……」
「それでも、あなたは今、知ろうとしてくれてる。
それだけで、私は嬉しいのよ」
魔王の胸に、頭が沈む。
大きい。柔らかい。ぬくもりが、全身に染み渡っていく。
リリアは両手で顔を覆った。
「やだ……泣き顔、見られたくない……」
「見てないわ。感じてるだけ」
「……それ、もっと恥ずかしいっ!」
それでも、抱きしめられたまま、リリアは泣いた。
嗚咽がこぼれて、体が小さく震える。
魔王は何も言わず、ただ背中をやさしく撫で続けていた。
「……魔王様」
「なに?」
「ひとつ……お願い、してもいいですか」
魔王は少しだけ目を細め、微笑んだ。
「もちろん」
「……私の鉄球、返してほしいです」
「いいけれど……どうして?」
「……重いから。私、まだその“重さ”に耐えられるかわからないけど……。
でも、逃げたくない。だから、ちゃんと……抱きしめたい」
魔王は何も言わず、リリアの頬に手を添えた。
「……強い子ね」
「ちっちゃいけど、ね」
「ちっちゃいからこそ、強くなれるのよ」
そう言って、魔王は部屋の奥から、鉄球を抱えて戻ってきた。
リリアの身体よりも大きな鉄球。
ボロボロに傷ついたそれを、リリアは静かに受け取った。
その手は、震えていたけれど――確かに、しっかりと握っていた。
「ようこそ、リリア。
これからが、本当の“あなた”の始まりよ」
そして夜は、静かに更けていった。
――第1章:完。
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