1.未来と過去のすれ違い

 パタリとドアが閉じられて、男がツカツカと歩み寄ってくる。

 跪いていた俺は咄嗟に立ち上がると、主祭壇を背にするように身構えた。

 ――少なくとも、この男が顔馴染みの信徒ではないのは確かだし、神の家といえど警戒したとしても無理はないだろう。

 少しずり落ちた眼鏡を指先で押し上げて、俺は努めて落ち着いた声で問いかけた。

「礼拝に来られたのですか?」

 声が震えているのは自分でも分かっていた。それでも、ここの責任者としてこの闖入者に問いかけなくてはいけない。

 男は俺の声を黙殺して目の前まで真っ直ぐに歩いてくる。

 確実に、確信をもって、俺の目の前に。

 そして、知らない顔の男は俺に手を伸ばすとそっと頬に触れてきた。

「!」

 ギクリ、と硬直する。

 他人の体温に極度の緊張を覚えた。

 理由は……分からない。

 男はそんな俺の様子を眺めて薄く笑うと、酷く嬉しそうに俺の頬を撫でた。

「――ちゃんと生きてる。やっと辿り着いた」

「何、言って……」

「白夜。三冬白夜。俺の双子の弟。俺の名前を憶えているだろう?」

 男の言葉が理解できない。

 それよりも、あぁ、この、顔……思わず苦痛の呻きを零して視線を逸らした。

 知らないしらないシラナイ。

 憶えてない、名前なんて、いや、違う、この顔、は……。

 混乱の極みの中にいる俺ははっきりとわかるほどに震えながら、必死で目を逸らし続ける。

「どなたか……存じ上げませんが……手、を離し……」

「なぜ目を背けるんだ、白夜? 忘れているはずがないだろう?」

 忘れた、忘れてしまったんだ。

 心で叫んだ。

 口は動かない。言葉にしてしまったら全てが解けてしまう気がした。

 男は困ったようにため息を吐いて、もう一方の手まで動員して両側から俺の頬を挟み、無理矢理に視線を誘導した。

「白夜」

 名前を呼ばれる。

「俺は三冬極夜。お前の双子の兄、あの日、お前を置いて姿を消した極夜だ」

 知らない……知らない!

「し、知らな……」

「助けに来た。悪かったな、お前が俺から離れられないのを知っていたのに」

 何を言っているのか理解不能のまま、男の顔が近付いてくる。

 ――やめろ、その顔を、俺に見せるな……!

 拒絶の言葉が出る前に男の唇が俺の唇と重なった。


 思考停止。


 ――俺は何をしている?

 ここは教会、神の家。いや、神なんていない。それはどうでもいい。どうでもいい事ではないけど。とにかく教会で、俺は、謎の、双子の兄を自称する男に。

 ザッと血の気が引いた。

 瞬間、ドンと男の胸を突いて振り払う。

「っ、何をするんだ、白夜」

「こちらの、台詞、だ……! 神の御前でなんということを……!」

 俺が慌てて拳で唇をこすると、男……三冬極夜を名乗った男は鼻で笑った。

「誰が見てるって? あぁ、お前、神父だからか? タブーなんだっけ?」

 男は懲りずに俺に再度、近付いてくる。

 ――逃げないと。

 聖堂から出るために視線を揺らした瞬間に、男の手が動いた。

「だから、逃げるなって。俺はお前を助けるために未来から来たんだから」

「離せ! 意味が分からない!」

「話してやるから落ち着け、白夜。良い子だから、一旦そこに座って、俺の話を……」

「け、警察を呼ぶぞ!?」

「…………白夜」

「わた……俺に、その顔を……近付けるな……!」

 俺の悲鳴に、ピクリと男の肩が揺れた。

 マジマジと俺を見つめる黒い瞳。

 やめろ……無い記憶が、よみがえ……。

「何言ってるんだ、白夜。お前と同じ顔だろう?」

 ――やめてくれ!!

 飲み込んだ悲鳴に、不自然に呼吸が乱れる。

 ぐらつく視界で、男が俺の眼鏡を奪い取った。

 男はニタリ、と笑う。

「ほら、同じ顔だ。目が悪くなったのか、白夜? 眼鏡なんてかけて?」

 その言葉を最後まで聞いたか、分からない。

 プツンと糸が切れるように俺の意識が闇に落ちた。


     ***


 倒れ込んできた体を抱きとめる。

 自分の表情が強張るのが分かる。

「俺を忘れている……どころか、これは……」

 呟いて、嫌な予想を振り払った。

「二十五年……いや、二十年か。俺がいない間に何があったんだ?」

 問いかける言葉は虚しく聖堂に溶け落ちる。

 よっ、と声を出して力を入れ、体を抱き上げる。

 さすがに自分とさして変わらない体格の男は重い。

 いや、自分よりは軽いようだが。

 先ほど視線が向けられた方を見る。

 逃げようとしてそちらを見たのなら、おそらくはそちらが居住エリアなんだろう。

 ゆっくりと、ふらついたりしないように慎重に歩き、目的の場所を探し始めた。


     ***


 夢を見ていた。

 赤く蕩ける世界の夢。

 いつもの、恐ろしい夢。

 どろどろと赤が世界を飲み込んでいき、誰かの背中を……小さな背中を飲み込んでいく。

 なす術もなくそれを見ている俺は、理解できない恐怖に襲われ、喪失することに悲鳴を上げて泣き崩れる。

「迎えに来るから」

 ポツリと耳に届く声は、何の慰めにもならない。

 だって、もう失われてしまったのだから。


 ――ふと、目が開いた。

 意識が定まるまで少しの時間がかかる。

 ぼやけた視界。

 あぁ、寝ていたのか……。

 そこまで考えてハッとした。

 息を呑んだ俺に、傍らから声がかけられる。

「あぁ、起きたか、白夜?」

「っ――おま……」

 ベッドに腰かけて俺を眺めているのは、どうやら先ほどの男の様だった。今一つ自信がないのは、眼鏡をかけていないせいだ。

 もっとも、現状では裸眼のままなのはありがたかった。

 ――この男の顔を、見たくないからだ。

 俺は顔を背けるために男がいる方とは逆に頭を傾けた。

 ところが、俺の双子の兄を名乗った不審者は俺に手を伸ばしてきたのだ。

 視界の端ににゅっと手が現れて驚いた俺に、その手は俺の頭をサラサラと撫ではじめた。

「なっ……」

「落ち着け。話してやるって言っただろう?」

 声にはこちらを気遣う様な響きが含まれていた。

 この状況では逃げることも通報することも叶わない。されるがままに頭を撫でられながら、体を強張らせて男の言葉を黙って聞いていた。

「さっきも言ったが、俺はお前の双子の兄、三冬極夜だ。二十五……いや、お前からすれば二十年前に失踪したという認識だろう」

 ――何を言っているんだ?

 俺は自然と眉を寄せていた。

「どういうつもりなのか分かりませんが、私には双子の兄などいません。名前にも聞き覚えはありません。これ以上、ここに留まられるならば私はこの教会を預かるものとして通報せざるを得ません」

 毅然と言ったつもりだったが、声はわずかに震えていた。

 男のため息が聞こえ、勝手に体が揺れた。

「なぁ、白夜。どうした? なんでそんな態度なんだ? 俺がいない間に何があったんだ?」

 相変わらず質問の意味が分からない。

 なぜ、この男と俺が知り合いだという前提で話が進むんだ。

「ですから、私は貴方のことなど知らな」

「知らないわけないだろ」

 低く、強い言葉。

 何か……鋭い痛みを秘めている様に聞こえた。

 俺は背けていた顔を少しだけ、男のいる方へ向けた。

 視界はぼやけているので見えない。

 だが、雰囲気で分かった。

 男は苦痛に顔を歪めている様だった。

「俺はお前を助けるために未来から来たんだよ……お前の運命を変えるために。なのに、当のお前は俺の事を憶えてもいないと言う。白夜、何があった? なんで俺のことを」

 知らない。

 意味が分からない。

 俺を助ける?

 俺の運命を変える?

 そのために未来から来た?

 妄想の世界にでも生きているんだろうか?

 何か、そこから救われるために教会の門を叩いたのだとしたら無下には出来ないが……。

 俺は細く息を吐いて、男に尋ねた。

「では、仮に貴方の言葉が真実であるとして、私を待つ運命とは何ですか? なぜ、わざわざ未来からやってきた貴方が、私を助けるなどと言い出すのです?」

 男は俺の頭を撫でていた手を止め、ぎゅっと拳を固めた。

 次に男の唇から紡がれたのは、神の教えに反するものだった。

「今から五年後。お前は……一度は信じた神を信じられなくなり、俺を失った過去から逃れられずに心が壊れた。俺が見つけた時には、お前は、自ら命を絶っていた」

「は……?」

「ようやく元の世界に戻ってこれたと思ったら、最愛の弟が俺の目の前で死んでいたんだ。助けたいと願って何が悪い?」

 男の手が再び俺の頭を一撫でした。

「だから、ここまで来た。俺はお前を助けるためにここにいる。お前が俺から離れられなくなれば、お前が命を絶つことはなくなるだろう?」

 ぼやけた視界で、男の口端が悪魔の様に吊り上がった。

「覚悟しろ、二十五年分だ。お前をとことんまで甘やかしてやる」

 男の宣言を聞いて、俺は話の通じない狂人だと判断した。

 そして、この二人きりという状況でこの狂人に対して逆らうことの危険性を考慮し、一つの結論を出した。

 俺の知らない過去と知らない未来。

 そのどちらをも知っているらしい、この「極夜」と名乗った男の気が済んで出ていくまで、放置する、と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る