灰の書簡 ――君を魔女にしないために
五平
第1話:灰色の世界で
「また、この話か」
ユズキは、目の前のスマホ画面を眺めながら、思わずため息をこぼした。文芸部のグループチャットは、今日も恋愛小説の話題で持ちきりだ。最近流行りの、SNSでバズるような短編恋愛SSの話題で、部室はいつも熱気に包まれていた。中でも、人気のエース部員、ナナミが書いた「イケメン転校生と私の秘密の放課後」という作品は、毎週のように「キュンとするシーン」が更新され、部員たちの間で大盛り上がりだった。放課後、部室で集まっても、皆の関心は「あの描写、最高だったよね!」とか「次は何が起こるんだろう?」といった話ばかり。ユズキは、皆の話にうなずきながらも、頭のどこかでは“まるで他人の夢”を聞いているようだった。そんな中、ユズキだけはいつも蚊帳の外だった。
別に恋愛に全く興味がないわけじゃない。クラスメイトの恋バナを聞いて、漠然とした憧れを感じることはある。だが、皆が熱狂するようなキラキラした感情が、どうにも遠い世界の話に思えるのだ。彼女にとっての日常は、まるでセピア色の写真のように、輪郭がぼやけて、どこか「灰色」だった。鮮やかな色彩を欠き、感情の起伏も乏しい。喜怒哀楽を表現するのは苦手ではないはずなのに、なぜか自分自身の心だけは、いつも曖昧模糊としていた。SNSで「映える」写真を投稿してみても、どこか心に引っかかる違和感と虚しさだけが残る。本当に伝えたい言葉も、見つけたい真実も、この世界にはないのかもしれない――漠然とした不安が、いつも心の奥底に沈んでいた。自分は、この世界の「外側」にいるような気がしてならなかった。
「ユズキ、何してるの?部長が呼んでるよ」
隣の席のミホが、明るい声でユズキの思考を遮った。ミホは、ナナミの作品の大ファンで、いつも目を輝かせている。ユズキの様子に気づくこともなく、部長の言葉に意識を向ける。部活の時間が終わり、顧問の先生がやってくる。
「みんな、ちょっといいかな。急な話で悪いんだけど、今度の土曜日、図書館の書庫の整理、手伝ってくれる人いる?」
先生の声に、部員たちは一斉に顔を見合わせた。途端に、部室の空気が重くなった。書庫は、古くて埃っぽい、いわゆる「開かずの間」だ。普段からあまり使われておらず、薄暗くて、どこかカビ臭い。誰もが嫌そうな顔をする中、ナナミが「すみません、その日は別の用事があって……」と申し訳なさそうに言ったのを皮切りに、次々と「私も」「僕も」と手が下がっていく。
そんな中で、ユズキはなぜか心惹かれた。皆が避ける場所に、何かがあるような気がしたのだ。もしかしたら、この「灰色」の日常から抜け出す鍵が、そこにあるのかもしれない。キラキラした世界とは違う、もっと深い、本物の何か。そんな根拠のない予感に導かれるように、ユズキはゆっくりと、しかし確かな意思を持って手を挙げた。先生が驚いたようにユズキを見て、「おお、ユズキ!助かるよ!」と満面の笑みを浮かべた。他の部員たちも、まさかユズキが手を挙げるとは思わなかったようで、一瞬、静まり返った。
土曜日。ユズキは指定された時間に図書館を訪れた。書庫の鍵を開け、一歩足を踏み入れると、想像以上に薄暗く、カビと紙の匂いが入り混じった独特の空気が漂っていた。普段利用されている図書館の清潔感とはかけ離れた、忘れ去られたような空間。照明をつけても、奥までは光が届かない。背の高い書架には、年季の入った本がぎっしりと並んでいる。どれも埃を被り、長い間、人の手に取られていないことが伺える。
ユズキは、先生に言われた通り、まず手前の棚から本の整理を始めた。埃を払い、古い本を順番に並べ替えていく。指先がざらざらするほど埃っぽく、くしゃみが出そうになる。時間が経つにつれて、彼女は書庫の奥へと進んでいった。誰も手をつけようとしない最奥の棚に目をやると、その一角だけが、ひときわ古びた雰囲気を放っていた。他の棚の本よりも、さらに色が褪せ、表面が黒ずんでいるように見える。まるで、そこだけ時間が止まっているかのように。この棚に並べられた本には、特別な歴史が刻まれているような、不思議な重厚感があった。
ユズキは、脚立を運び、一番上の棚に置かれた、一冊の古びた手記に手を伸ばした。表面は煤けていて、触れると指先にざらりとした灰のような粒子が落ちる。表紙には、見慣れない崩れた文字で何か書かれていたが、薄暗くて読み取れない。
「これ……」
何かに導かれるように、ユズキはその手記を手に取った。ずしりと重い。まるで、そこに込められた誰かの想いの重さそのままのように感じられた。彼女の「灰色」の日常に、ふと、かすかな熱が宿った気がした。それは、歴史が沈黙させた声が、彼女を呼んだ最初の瞬間だった。
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