星の魔法
黒宮ミカ
ほんの少し、あなたの光を
二年の春が過ぎて、
あっという間に、空気は夏の気配をまといはじめた。
魔法学校での暮らしは、静かで、少しだけせわしない。
朝の寮の廊下はいつも賑やかで、楽しそうな声が響いている。
五つの寮がそれぞれの属性に分かれていて、互いに良きライバルでもある。
廊下では今日の練習の成果を競う声が飛び交っていた。
けれど、その輪の外側で足を止めてしまうことが多かった。
日中の授業中、クラスメイトたちは新しい呪文を試し合い、笑顔で会話を交わす。
今週は五属性の基礎詠唱の単元。雷、炎、水、風、土――この世界で基本とされる五系統の魔法だ。
覚えるだけでなく、自分の魔力との相性を見極めなければならないのが難しい。
その隣では、魔法がなかなか思うように使えず、
呪文がうまく発動しない自分に、どうして自分だけ違うのだろうと、いつも肩を落としていた。
夕方になると、友達との距離が少しずつ開いていくのを感じながら、
魔力の弱さや失敗を胸の奥で繰り返し思い返し、言葉にできない劣等感が重くのしかかっていた。
夜、寮から見える湖の水面には、よく月が映る。
その下を駆けていく誰かの足音、笑い声、風の音が届く。
歩く速度は、いつも遅い。
気づけば、みんなの背中ばかりを見ていた。
*
「すごいね」
「ほんと、すごいよ……」
リアナは、いつだって迷いがなかった。
炎を自在に操る魔法、瞬時の判断力、そして仲間を守ろうとする行動力。
そのすべてがまるで絵に描いたように完璧で、見ているだけで、自分とはまるで違う世界にいるように思えた。
同じように授業を受けて、同じように練習しているはずなのに、どうしてここまで差がつくのだろう。
発表のたび、拍手を浴びるリアナの姿を見るたびに――
焦りと悔しさだけが、静かに心に積もっていった。
雷の剣。岩の嵐。風の刃。
水をまとうスライムは、友達の得意技。
透明な膜のような魔法が敵を包み、動きを封じる。
その中心で、ミリスは笑っていた。かっこよくて、まぶしくて、ちょっと怖いくらいだった。
――わたしの掌は、小さな火しか揺らせない。
それも、すぐに風に消されてしまうくらいの火。
「……また落ち込んでる」
ふわりと耳元で、ミリスの声がする。
わたしはぎゅっと肩をすくめて、視線を床に落とす。
胸の奥が重く、呼吸が少し乱れているのが自分でもわかった。
涙がじんわりと滲むけれど、顔は見せたくなくて必死に堪えていた。
「ううん」――小さな声で答えたけれど、心はまだ揺れていた。
ミリスはそっと背中に手を置き、微かに笑う。
沈黙が二人の間にふわりと流れて、言葉にしなくてもわかり合える気がした。
少しだけ、肩の力が抜けていく。
「……嘘つき。わかってるよ」
「みんな、キラキラしてて」
「うん。でもね――」
「……わたし、何ができるのかな」
声にしたその言葉が、まるで小さな石のように胸に沈んでいった。
できない自分を認めたくなくて、ただ、目をそらしてきた。
涙がじんわりと溢れてくるのを感じながら、わたしはその場から動けなかった。
誰にも見せたくなかった、この弱さを。
「きっと、まだ見つかってないだけだよ」
「……」
「大丈夫。ね?」
ミリスの手が、そっとわたしの手を包む。
そのあたたかさに触れたとき、心の奥にある不安が波紋のように広がった。
甘えたい。けど、甘えたら負けた気がして。
そのぬくもりを受け入れたら、何か大事なものを失いそうで、怖かった。
「攻撃魔法だけが魔法じゃないのですよ」
土属性の先生は、そんなふうに言ってくれた。
でもそのときのわたしには、それがただの慰めにしか聞こえなかった。
*
その週の終わり、担任の先生から進路希望調査の紙が配られた。
「将来、どんな分野に進みたいか、考えておいてくださいね」
机に置かれた白紙の紙が、やけにまぶしく感じられた。
まわりの子たちは、「魔法局希望かな」「自衛部って倍率高いよね」なんて話している。
わたしはただ、紙を見つめるだけだった。
小さいころは、なんでも褒めてくれた気がする。
「それでいいよ」「大丈夫、あなたらしくて」って。
でも、いつからだろう。
言葉が減って、沈黙が増えて、家の中が少しだけ冷たくなった。
母は時々、「このままで大丈夫なのかな」と呟く。
父は新聞の向こうで、小さく息をつくだけ。
私はただ、その空気に耐えるしかなかった。
その日も、食卓に静かな空気が流れていた。
テーブルの上には、母の作った煮込み料理が冷めかけていて、誰も箸を動かそうとしなかった。
「……あのさ、また授業で失敗しちゃって……」
思い切って話しかけた。けれど、母は顔を上げないまま、「そう」とだけ答えた。
父は新聞をめくる手を止めず、ページの音だけがパリパリと響いた。
「でも、ちゃんと練習してるし……がんばってるんだよ?」
言い訳のように続けると、母がようやく顔を上げて、ふっと笑った。
「……あなたって、昔からそうよね。がんばってる“つもり”はあるけど、結果が出ないのよね」
言葉が、胸の奥に刺さった。
笑っていたけれど、目は笑っていなかった。
「リクみたいに、一度で呪文を成功させるようになれればいいのに」
そう呟いた母の声を、わたしは忘れられなかった。
その瞬間、スプーンを握っていた指先がわずかに震えた。
何かが、胸の奥で“パキン”と音を立てて割れた気がした。
熱かったはずの煮込み料理は、いつの間にか冷たくなっていた。
喉が焼けつくように乾いて、水を飲みたいのに、体は動かなかった。
母の言葉は静かだったのに、心の奥に突き刺さって、抜けないまま残っていた。
怒鳴られるよりも、笑って呟かれるその言葉のほうが、ずっと痛かった。
視界の端で、父が新聞のページをめくる音がした。
その音すら、遠くて、冷たくて――わたしの居場所なんて、どこにもないように感じた。
兄のリクは、小さい頃から“完璧”だった。
属性のバランスも良くて、どんな魔法もすぐに覚えてしまう。
家族は彼のことを「期待の星」だと言って、何をしても褒めていた。
その影で、わたしはいつも“比べられる側”だった。
親戚が集まる食事会では、「あら、リクくんはもう中等魔法までできるのね」と褒められ、
その隣で、「まだちょっとだめみたいね」と笑われた。
みんなは冗談のつもりだったのかもしれないけど、
わたしには、それが世界のすべてのように思えた。
“比べられること”が、いつしか“見られないこと”に変わっていった。
失敗するたびに思い出すのは、呆れたような顔。
「あの子は魔法が苦手だから……」と親戚に言っていた声。
笑っていたけど、冗談じゃないって、ちゃんとわかっていた。
だから、聞かれるのが怖いのだ。
「将来、どうするの?」って。
答えられない自分を、また誰かががっかりするのが、怖いのだ。
家では将来の話はしないけれど、時々感じる重い空気が胸を締めつけた。
“何ができるのかわからない”わたしにとって、
“将来”なんて、まだ遠すぎて。
空欄に書き込む勇気もなくて、ただ紙をノートの間に挟んだ。
*
夜、寮の部屋の灯りを消して、窓の外を見た。
いくつもの流れ星が、音もなく夜空を走っていた。
わたしはバルコニーに出て、空を見上げる。
「……どうか、わたしだけの魔法をください」
小さな声が、夜の闇に溶けていく。
そのときだった。
黒い猫が、するりと現れた。
……またあの子だ。
入学してから何度も見かけている。いつも一人のとき、不思議とそばに現れる気がした。
……そういえば、昔読んだ魔法絵本に、星の魔法使いが出てきたっけ。
黒猫と旅をして、願いを叶える人に力を貸す、不思議な紳士。
燕尾服を着ていて、いつも笑っていた――ような気がする。
いくつもの流れ星が、音もなく夜空を走っていた。
わたしはバルコニーに出て、空を見上げる。
「……どうか、わたしだけの魔法をください」
細い足で手すりを歩き、わたしの指先に顔をこすりつける。
しっぽがわたしの腕に絡まり、くるりと揺れて――誘うように、空を見た。
気づけば、ほうきにまたがっていた。
猫に導かれて飛んだ夜空は、ため息が出るほど美しくて、
街の灯りが、まるで星座みたいに瞬いていた。
*
広場の噴水前。
サーカス小屋から音楽が聞こえてくる。
火を吹く人。
風に乗って宙を舞う人。
魔法で光を操る人たち。
みんなが自由に、自分の“できること”を輝かせていた。
拍手をしながら、涙が出そうになった。
感動じゃない――これは、悔しさだった。
「隣、いいかな」
不意に声がして、顔を上げた。
燕尾服の紳士が、隣に立っていた。目元に静かな笑みを浮かべて。
「君の魔法は、まだこれからだよ」
「……」
「得意な魔法がないのが、怖いんだね」
「……はい」
「なら、星の魔法を教えてあげよう」
「星の……?」
「夜空の星に向かって、こうお願いするんだ。
『ほんの少し、あなたの光をわけてください』――と」
彼の指先から、ふわりと小さな光が生まれる。
赤、青、金。瞬いて、消えていく。
「これはね、見る人の心をあたためて、
願いに、ほんの少しだけ力を貸してくれる魔法さ。
人によっては、それが『勇気』になったり、『一歩』になったりするんだ」
「ほんとに……そんなこと、できるの?」
「信じるところから、すべては始まる」
*
広場に戻ると、猫がまた擦り寄ってきた。
「……気持ちが、落ち着いたわ」
そう言って、ほうきに乗る。
夜空へ浮かびながら、そっと祈った。
『ほんの少し、あなたの光をわけてください』
星々が瞬き、わたしの手の中に光が溢れ出す。
それはまるで、静かな光の雨のように――夜をなでながら消えていった。
「……明日の発表会、これにしよう」
*
午前、教室。
みんながそわそわと準備をしている。
夏の魔法発表会は、生徒たちの習熟度を示す一大イベントだ。
成績や推薦、進路にも関わるとあって、誰もが全力を尽くす。
「大丈夫?」
背後から、ミリスの声。
「うん、ちょっと……ね」
「なんか、いい顔してる」
「そう、見える?」
笑ってくれて、それだけで強くなれる気がした。
*
夕暮れ。発表会が始まる。
一人、また一人と魔法を披露し、拍手と歓声が響いていた。
心臓が、早鐘のように鳴る。
名前が呼ばれる。
手のひらが汗ばみ、制服の袖の内側がじっとりと湿っていくのがわかる。
深く息を吸おうとしても、肺の奥まで空気が届かない。
まわりのざわめきが妙に大きく聞こえて、誰かが囁いた声すら、自分に向けられたもののように感じた。
視線が集まっている気がして、思わず足を引いたけれど、逃げ道はどこにもない。
――足が震えてる。バレてないかな。
そう思うたび、胸がぎゅっと縮こまる。
でも、そのすぐ下で、何かがふつふつと熱を帯びはじめていた。
期待か、願いか、自分でもよくわからないものが、小さな灯のように灯っている。
――わたしの魔法を、見てほしい。
ほんの少しでも、誰かの心に届いたら。
わたしは深く息を吸い、ほうきでゆっくりと空へ舞い上がる。
『ほんの少し、あなたの光をわけてください』
祈りとともに、星の魔法があふれ出す。
天井いっぱいに広がる夜空。
やさしく降る光が、生徒たちの肩や胸にそっと灯っていく。
指先がふわりと熱を帯びる。
それは痛みではなく、どこか懐かしいような、優しいぬくもりだった。
胸の奥から何かが解き放たれるように、魔力が静かに、でも確かにあふれ出す。
押し込めていた感情――不安や悔しさ、さみしさまでもが、光に溶けていくようだった。
ひとつ、またひとつと光が空に舞い、ゆっくりと降り注ぐ。
きらめきが空間を満たし、あたたかい風が頬をなでた。
自分の魔法なのに、どこか夢の中にいるような気がして、でも確かに「わたしの中から生まれた」ものだと感じられた。
――これが、わたしの魔法なんだ。
心の奥で、静かにそう確信する声が聞こえた。
周りの生徒たちが見上げているのがわかる。
誰かの目に涙が光っていた。
誰かが、そっと手を胸に当てていた。
そのすべてが、自分の魔法の一部になって、夜空とともに呼吸している気がした。
この魔法は、「見る人が一番ほしいもの」をそっと照らす。
勇気。希望。自信。再出発。
自分でも驚くほど、魔力があふれていた。
あたたかくて、静かで、でも確かに、強い。
*
終わったあと、みんながわたしのほうを見ていた。
一瞬、時間が止まったように感じた。
でもすぐに、ぽつぽつと拍手が起きて、
それが次第に大きな音に変わっていく。
誰かが息をのんだ。
そして、ミリスがまっすぐにかけ寄ってきて、わたしをぎゅっと抱きしめた。
「すごかったよ……ほんとに」
「……ありがとう」
涙が、自然にこぼれていた。
あたたかさに触れたとき、自分でも気づかなかったほど、張りつめていたものがほどけていった。
「ねえ、あの魔法……どうやって使ったの?」
「ちょっと泣きそうになっちゃった」
「すごく、あたたかくなったんだ。心が」
いくつもの声が、私に向かって飛んできた。
いつもは視線を避けていたリアナが、
無言でうなずいてくれた。
それだけで、胸の奥に灯りがともった気がした。
はじめて、自分の魔法が「誰かに届いた」と、思えた。
*
その夜、寮のポストに、小さな封筒が届いていた。
見慣れた字――母のものだった。
封を切るのが少しだけ怖くて、手紙を開くまでに時間がかかった。
『発表会の話、先生から聞きました。あなたがみんなを照らす魔法を使ったって。
最初は信じられなかったけれど、……本当に、あなただったのね。』
そこで一度、ペンが止まっていた。
『うまく言えないけれど、少し泣きました。
魔法がうまくいかないことで、たくさん悩ませてごめんなさい。
でも、あなたにしか使えない魔法を見つけてくれて、ありがとう。』
読み終えたあと、指先が少し震えた。
窓の外では、星が静かに瞬いていた。
*
しばらくして、扉が静かにノックされる。
リアナが顔をのぞかせた。
「……びっくりしたよ。あんな魔法、見たことない」
そう言って笑う顔が、少しだけ誇らしそうで、少しだけ悔しそうで――
でも、ちゃんとまっすぐ私を見ていた。
「ありがとう。……わたし、ちょっとだけ自信が持てた」
「そっか。やっと……追いつかれた気がした」
「え?」
「……たぶん、またすぐ追い越すけどね」
笑い合うその瞬間、はじめて対等な場所に立てた気がした。
*
そして今も、星は静かに瞬いている。
わたしの中にも、
誰かの中にも。
言葉にできなかった想いが、
光になって、誰かの夜を照らしていく。
もう、怖くない。
わたしだけの魔法。
やっと、見つけた。
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