星の魔法

黒宮ミカ

ほんの少し、あなたの光を

二年の春が過ぎて、

あっという間に、空気は夏の気配をまといはじめた。


魔法学校での暮らしは、静かで、少しだけせわしない。


朝の寮の廊下はいつも賑やかで、楽しそうな声が響いている。

五つの寮がそれぞれの属性に分かれていて、互いに良きライバルでもある。

廊下では今日の練習の成果を競う声が飛び交っていた。

けれど、その輪の外側で足を止めてしまうことが多かった。


日中の授業中、クラスメイトたちは新しい呪文を試し合い、笑顔で会話を交わす。

今週は五属性の基礎詠唱の単元。雷、炎、水、風、土――この世界で基本とされる五系統の魔法だ。

覚えるだけでなく、自分の魔力との相性を見極めなければならないのが難しい。

その隣では、魔法がなかなか思うように使えず、

呪文がうまく発動しない自分に、どうして自分だけ違うのだろうと、いつも肩を落としていた。


夕方になると、友達との距離が少しずつ開いていくのを感じながら、

魔力の弱さや失敗を胸の奥で繰り返し思い返し、言葉にできない劣等感が重くのしかかっていた。


夜、寮から見える湖の水面には、よく月が映る。

その下を駆けていく誰かの足音、笑い声、風の音が届く。


歩く速度は、いつも遅い。

気づけば、みんなの背中ばかりを見ていた。



「すごいね」

「ほんと、すごいよ……」


リアナは、いつだって迷いがなかった。

炎を自在に操る魔法、瞬時の判断力、そして仲間を守ろうとする行動力。

そのすべてがまるで絵に描いたように完璧で、見ているだけで、自分とはまるで違う世界にいるように思えた。


同じように授業を受けて、同じように練習しているはずなのに、どうしてここまで差がつくのだろう。

発表のたび、拍手を浴びるリアナの姿を見るたびに――

焦りと悔しさだけが、静かに心に積もっていった。


雷の剣。岩の嵐。風の刃。

水をまとうスライムは、友達の得意技。

透明な膜のような魔法が敵を包み、動きを封じる。

その中心で、ミリスは笑っていた。かっこよくて、まぶしくて、ちょっと怖いくらいだった。


――わたしの掌は、小さな火しか揺らせない。

それも、すぐに風に消されてしまうくらいの火。


「……また落ち込んでる」

ふわりと耳元で、ミリスの声がする。




わたしはぎゅっと肩をすくめて、視線を床に落とす。

胸の奥が重く、呼吸が少し乱れているのが自分でもわかった。

涙がじんわりと滲むけれど、顔は見せたくなくて必死に堪えていた。


「ううん」――小さな声で答えたけれど、心はまだ揺れていた。


ミリスはそっと背中に手を置き、微かに笑う。

沈黙が二人の間にふわりと流れて、言葉にしなくてもわかり合える気がした。


少しだけ、肩の力が抜けていく。


「……嘘つき。わかってるよ」

「みんな、キラキラしてて」

「うん。でもね――」

「……わたし、何ができるのかな」

声にしたその言葉が、まるで小さな石のように胸に沈んでいった。

できない自分を認めたくなくて、ただ、目をそらしてきた。

涙がじんわりと溢れてくるのを感じながら、わたしはその場から動けなかった。

誰にも見せたくなかった、この弱さを。


「きっと、まだ見つかってないだけだよ」

「……」

「大丈夫。ね?」

ミリスの手が、そっとわたしの手を包む。

そのあたたかさに触れたとき、心の奥にある不安が波紋のように広がった。

甘えたい。けど、甘えたら負けた気がして。

そのぬくもりを受け入れたら、何か大事なものを失いそうで、怖かった。


「攻撃魔法だけが魔法じゃないのですよ」

土属性の先生は、そんなふうに言ってくれた。

でもそのときのわたしには、それがただの慰めにしか聞こえなかった。



その週の終わり、担任の先生から進路希望調査の紙が配られた。


「将来、どんな分野に進みたいか、考えておいてくださいね」


机に置かれた白紙の紙が、やけにまぶしく感じられた。


まわりの子たちは、「魔法局希望かな」「自衛部って倍率高いよね」なんて話している。


わたしはただ、紙を見つめるだけだった。


小さいころは、なんでも褒めてくれた気がする。

「それでいいよ」「大丈夫、あなたらしくて」って。

でも、いつからだろう。

言葉が減って、沈黙が増えて、家の中が少しだけ冷たくなった。


母は時々、「このままで大丈夫なのかな」と呟く。

父は新聞の向こうで、小さく息をつくだけ。

私はただ、その空気に耐えるしかなかった。


その日も、食卓に静かな空気が流れていた。

テーブルの上には、母の作った煮込み料理が冷めかけていて、誰も箸を動かそうとしなかった。


「……あのさ、また授業で失敗しちゃって……」

思い切って話しかけた。けれど、母は顔を上げないまま、「そう」とだけ答えた。

父は新聞をめくる手を止めず、ページの音だけがパリパリと響いた。


「でも、ちゃんと練習してるし……がんばってるんだよ?」

言い訳のように続けると、母がようやく顔を上げて、ふっと笑った。


「……あなたって、昔からそうよね。がんばってる“つもり”はあるけど、結果が出ないのよね」


言葉が、胸の奥に刺さった。

笑っていたけれど、目は笑っていなかった。


「リクみたいに、一度で呪文を成功させるようになれればいいのに」

そう呟いた母の声を、わたしは忘れられなかった。


その瞬間、スプーンを握っていた指先がわずかに震えた。

何かが、胸の奥で“パキン”と音を立てて割れた気がした。


熱かったはずの煮込み料理は、いつの間にか冷たくなっていた。

喉が焼けつくように乾いて、水を飲みたいのに、体は動かなかった。


母の言葉は静かだったのに、心の奥に突き刺さって、抜けないまま残っていた。

怒鳴られるよりも、笑って呟かれるその言葉のほうが、ずっと痛かった。


視界の端で、父が新聞のページをめくる音がした。

その音すら、遠くて、冷たくて――わたしの居場所なんて、どこにもないように感じた。


兄のリクは、小さい頃から“完璧”だった。

属性のバランスも良くて、どんな魔法もすぐに覚えてしまう。

家族は彼のことを「期待の星」だと言って、何をしても褒めていた。


その影で、わたしはいつも“比べられる側”だった。

親戚が集まる食事会では、「あら、リクくんはもう中等魔法までできるのね」と褒められ、

その隣で、「まだちょっとだめみたいね」と笑われた。


みんなは冗談のつもりだったのかもしれないけど、

わたしには、それが世界のすべてのように思えた。


“比べられること”が、いつしか“見られないこと”に変わっていった。


失敗するたびに思い出すのは、呆れたような顔。

「あの子は魔法が苦手だから……」と親戚に言っていた声。

笑っていたけど、冗談じゃないって、ちゃんとわかっていた。


だから、聞かれるのが怖いのだ。

「将来、どうするの?」って。

答えられない自分を、また誰かががっかりするのが、怖いのだ。


家では将来の話はしないけれど、時々感じる重い空気が胸を締めつけた。


“何ができるのかわからない”わたしにとって、

“将来”なんて、まだ遠すぎて。



空欄に書き込む勇気もなくて、ただ紙をノートの間に挟んだ。



夜、寮の部屋の灯りを消して、窓の外を見た。

いくつもの流れ星が、音もなく夜空を走っていた。


わたしはバルコニーに出て、空を見上げる。


「……どうか、わたしだけの魔法をください」


小さな声が、夜の闇に溶けていく。


そのときだった。

黒い猫が、するりと現れた。

……またあの子だ。

入学してから何度も見かけている。いつも一人のとき、不思議とそばに現れる気がした。


……そういえば、昔読んだ魔法絵本に、星の魔法使いが出てきたっけ。

黒猫と旅をして、願いを叶える人に力を貸す、不思議な紳士。

燕尾服を着ていて、いつも笑っていた――ような気がする。


いくつもの流れ星が、音もなく夜空を走っていた。


わたしはバルコニーに出て、空を見上げる。

「……どうか、わたしだけの魔法をください」


細い足で手すりを歩き、わたしの指先に顔をこすりつける。

しっぽがわたしの腕に絡まり、くるりと揺れて――誘うように、空を見た。


気づけば、ほうきにまたがっていた。

猫に導かれて飛んだ夜空は、ため息が出るほど美しくて、

街の灯りが、まるで星座みたいに瞬いていた。



広場の噴水前。

サーカス小屋から音楽が聞こえてくる。


火を吹く人。

風に乗って宙を舞う人。

魔法で光を操る人たち。


みんなが自由に、自分の“できること”を輝かせていた。


拍手をしながら、涙が出そうになった。

感動じゃない――これは、悔しさだった。


「隣、いいかな」


不意に声がして、顔を上げた。

燕尾服の紳士が、隣に立っていた。目元に静かな笑みを浮かべて。


「君の魔法は、まだこれからだよ」

「……」

「得意な魔法がないのが、怖いんだね」

「……はい」

「なら、星の魔法を教えてあげよう」


「星の……?」


「夜空の星に向かって、こうお願いするんだ。

『ほんの少し、あなたの光をわけてください』――と」


彼の指先から、ふわりと小さな光が生まれる。

赤、青、金。瞬いて、消えていく。


「これはね、見る人の心をあたためて、

願いに、ほんの少しだけ力を貸してくれる魔法さ。

人によっては、それが『勇気』になったり、『一歩』になったりするんだ」


「ほんとに……そんなこと、できるの?」

「信じるところから、すべては始まる」



広場に戻ると、猫がまた擦り寄ってきた。


「……気持ちが、落ち着いたわ」


そう言って、ほうきに乗る。

夜空へ浮かびながら、そっと祈った。


『ほんの少し、あなたの光をわけてください』


星々が瞬き、わたしの手の中に光が溢れ出す。

それはまるで、静かな光の雨のように――夜をなでながら消えていった。


「……明日の発表会、これにしよう」



午前、教室。

みんながそわそわと準備をしている。


夏の魔法発表会は、生徒たちの習熟度を示す一大イベントだ。

成績や推薦、進路にも関わるとあって、誰もが全力を尽くす。



「大丈夫?」

背後から、ミリスの声。

「うん、ちょっと……ね」

「なんか、いい顔してる」

「そう、見える?」


笑ってくれて、それだけで強くなれる気がした。



夕暮れ。発表会が始まる。

一人、また一人と魔法を披露し、拍手と歓声が響いていた。


心臓が、早鐘のように鳴る。

名前が呼ばれる。


手のひらが汗ばみ、制服の袖の内側がじっとりと湿っていくのがわかる。

深く息を吸おうとしても、肺の奥まで空気が届かない。


まわりのざわめきが妙に大きく聞こえて、誰かが囁いた声すら、自分に向けられたもののように感じた。

視線が集まっている気がして、思わず足を引いたけれど、逃げ道はどこにもない。


――足が震えてる。バレてないかな。

そう思うたび、胸がぎゅっと縮こまる。


でも、そのすぐ下で、何かがふつふつと熱を帯びはじめていた。

期待か、願いか、自分でもよくわからないものが、小さな灯のように灯っている。


――わたしの魔法を、見てほしい。

ほんの少しでも、誰かの心に届いたら。


わたしは深く息を吸い、ほうきでゆっくりと空へ舞い上がる。


『ほんの少し、あなたの光をわけてください』


祈りとともに、星の魔法があふれ出す。

天井いっぱいに広がる夜空。

やさしく降る光が、生徒たちの肩や胸にそっと灯っていく。




指先がふわりと熱を帯びる。

それは痛みではなく、どこか懐かしいような、優しいぬくもりだった。


胸の奥から何かが解き放たれるように、魔力が静かに、でも確かにあふれ出す。

押し込めていた感情――不安や悔しさ、さみしさまでもが、光に溶けていくようだった。


ひとつ、またひとつと光が空に舞い、ゆっくりと降り注ぐ。

きらめきが空間を満たし、あたたかい風が頬をなでた。


自分の魔法なのに、どこか夢の中にいるような気がして、でも確かに「わたしの中から生まれた」ものだと感じられた。

――これが、わたしの魔法なんだ。

心の奥で、静かにそう確信する声が聞こえた。


周りの生徒たちが見上げているのがわかる。

誰かの目に涙が光っていた。

誰かが、そっと手を胸に当てていた。


そのすべてが、自分の魔法の一部になって、夜空とともに呼吸している気がした。


この魔法は、「見る人が一番ほしいもの」をそっと照らす。

勇気。希望。自信。再出発。


自分でも驚くほど、魔力があふれていた。

あたたかくて、静かで、でも確かに、強い。



終わったあと、みんながわたしのほうを見ていた。


一瞬、時間が止まったように感じた。

でもすぐに、ぽつぽつと拍手が起きて、

それが次第に大きな音に変わっていく。


誰かが息をのんだ。

そして、ミリスがまっすぐにかけ寄ってきて、わたしをぎゅっと抱きしめた。


「すごかったよ……ほんとに」


「……ありがとう」

涙が、自然にこぼれていた。

あたたかさに触れたとき、自分でも気づかなかったほど、張りつめていたものがほどけていった。


「ねえ、あの魔法……どうやって使ったの?」

「ちょっと泣きそうになっちゃった」

「すごく、あたたかくなったんだ。心が」

いくつもの声が、私に向かって飛んできた。

いつもは視線を避けていたリアナが、

無言でうなずいてくれた。


それだけで、胸の奥に灯りがともった気がした。

はじめて、自分の魔法が「誰かに届いた」と、思えた。



その夜、寮のポストに、小さな封筒が届いていた。

見慣れた字――母のものだった。

封を切るのが少しだけ怖くて、手紙を開くまでに時間がかかった。


『発表会の話、先生から聞きました。あなたがみんなを照らす魔法を使ったって。

最初は信じられなかったけれど、……本当に、あなただったのね。』


そこで一度、ペンが止まっていた。


『うまく言えないけれど、少し泣きました。

魔法がうまくいかないことで、たくさん悩ませてごめんなさい。

でも、あなたにしか使えない魔法を見つけてくれて、ありがとう。』


読み終えたあと、指先が少し震えた。

窓の外では、星が静かに瞬いていた。




しばらくして、扉が静かにノックされる。

リアナが顔をのぞかせた。


「……びっくりしたよ。あんな魔法、見たことない」

そう言って笑う顔が、少しだけ誇らしそうで、少しだけ悔しそうで――

でも、ちゃんとまっすぐ私を見ていた。


「ありがとう。……わたし、ちょっとだけ自信が持てた」

「そっか。やっと……追いつかれた気がした」

「え?」

「……たぶん、またすぐ追い越すけどね」


笑い合うその瞬間、はじめて対等な場所に立てた気がした。



そして今も、星は静かに瞬いている。

わたしの中にも、

誰かの中にも。


言葉にできなかった想いが、

光になって、誰かの夜を照らしていく。


もう、怖くない。

わたしだけの魔法。

やっと、見つけた。


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