蝕む律動

火之元 ノヒト

プロローグ

「……そして、沈黙は欺瞞なり。耳を塞ぐは愚者の所業。深淵は常に囁き、その調べは耳なき者にも響く。ああ、汝、音なき音に囚われし者よ、来るべき終末の鼓動を聞け。それは始まりであり、終わりであり、そしてそのどちらでもない、名状し難き反響なのだから……」


 ——禁断の断片、『不協和音詩篇』より抜粋(イライアス・ヴェンティマーによる翻訳を抄録)



 暗闇は、必ずしも静寂を意味しない。少なくとも、私、アーサー・J・グリムウッドの経験はそう語っている。1929年の晩秋、霧がかったロンドンの下町の一室で、私は震える手で原稿の束をまさぐっていた。故ウィリアム・S・ハドソン教授——私の恩師であり、古来の秘儀に通暁した稀有の学者であった——が遺したこの膨大な研究ノートは、彼の晩年を支配したであろう忌まわしい妄想と、恐るべき発見の断片を克明に記録していた。


 教授は、当初こそ古代文明の音響儀礼に関する研究に没頭していた。メソポタミアの地下神殿から発掘された奇妙な共鳴器、エジプトの隠された墓室に刻まれた不可解な音波記号、そして忘れ去られたるクトゥル族の呪文……それらは全て、教授の知的好奇心を刺激する魅力的な謎であったはずだった。しかし、長年の探求の果てに彼が辿り着いたのは、考古学の範疇を遥かに超えた、宇宙の根源を揺るがすような戦慄すべき領域だったのだ。


 ノートの初期の記述は、まだ学術的な体裁を保っている。「特定の周波数帯における異常な音響的残響」「非ユークリッド幾何学と音波パターンの関連性」「人類の聴覚限界を超える振動の可能性」……しかし、ページを繰るごとに、教授の筆致は明らかに混乱の色を帯びていった。「静寂の中に蠢くもの」「聞こえざる囁き」「宇宙の脈打つ心臓」といった、象徴的でありながらも不吉なフレーズが頻繁に現れるようになる。


 そして、数週間前のことだ。私が教授の研究室を訪れた際、彼は既に常軌を逸していた。目は血走り、やつれた頬は生気を失い、まるで何かに怯えるように周囲を警戒していた。


「グリムウッド、君にも聞こえるか?」


 彼は縋るような声で私に問いかけた。


「この……終わりのない、不協和の律動が……」


 私は何も聞こえなかった。研究室はいつものように静かだった。しかし、教授の目は真実を捉えていた。彼が見ている、あるいは聞いている何かは、間違いなく彼の精神を深く蝕んでいた。それから数日後、教授は自室で息を引き取った。死因は心臓麻痺とされたが、その顔には言いようのない恐怖が刻まれていたという。


 遺されたノートの最終部分は、ほとんど判読不能な走り書きで埋め尽くされている。「ズトゥル=ルガア」「鳴動石」「静寂の聴衆」「宇宙の鼓動 耐えられない」そして最後に、震える筆致でこう記されていた。「音は、常にそこにある。ただ、我々がそれを認識できないだけなのだ。そして、一度認識してしまえば、逃れることはできない」


 私は今、教授が最後に掴みかけたであろう、この宇宙の深淵に潜む恐怖の一端に触れようとしている。彼の残した断片的な記録と、夥しい量の関連書籍、そして何よりも、彼が肌身離さず持っていたという、奇妙な黒い石——「鳴動石」。それらを丹念に調べ解読することで、私は恩師を狂気に突き落とした忌まわしい存在、「ズトゥル=ルガア」の正体に迫ろうとしている。


 それは、知的好奇心などという安易な言葉で片付けられるものではない。これは、禁断の知識への探求であり、狂気と破滅への緩やかな降下かもしれない。しかし、私は知らなければならない。教授の最期の言葉が、私の脳裏から決して離れないのだから。


「音は、常にそこにある……逃れることはできない……」

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