どっぺるげんがあぁ ―彼女がくれた、もうひとりの自分とその狂気―
陵月夜白(りょうづき やしろ)
プロローグ 夜の底に沈む
プロローグ 夜の底に沈む
その部屋には、いつも湿ったような匂いが漂っていた。
カーテンは閉めきられ、光は隙間から細く伸びるだけ。
壁の時計は止まっている。けれど、音だけは聞こえる。
コツ、コツ、コツ……足音と、開かないドアの向こうの気配。
声は聞こえなかった。
声を出すと、何かが壊れてしまう気がしたから。
動けば叩かれ、黙っていても見られる。
身体のどこが自分のもので、どこからが“あの手”だったのか、もう思い出せない。
まだ制服の袖に腕が入っていた。
ボタンは一つ外れ、スカートの裾は濡れていた。
視線の先には、うっすら開いた窓。
風がそこから吹き込んで、古いカーテンを、幽霊みたいに揺らしている。
「行かなきゃ」
思ったか、口にしたのかもわからない。
ただ、その一歩が、生まれてからいちばん遠い一歩だった。
窓枠に指をかけ、足を持ち上げ、
そのまま体を乗り越えさせようとした——とき。
強く蹴り出した右足が、引っかかる。
バランスを失い、宙が裏返る。
冷たい夜気が肌をなで、星が反対に転がる。
風景がぐにゃりと折れたその瞬間、
頭の奥で「音」がした。割れるような、砕けるような。
そして、世界が止まった。
目を開けているのか、閉じているのかもわからない。
何かが流れている。温かくて、鈍くて、止められないもの。
遠くで、誰かの声がしている。怒鳴るような、泣くような。
ピーポー、ピーポー。
救いの音? それとも、終わりの合図?
小さなその体は、もう動かなかった。
けれど心の奥では、まだ何かが燃えていた。
――壊れた世界に、火をつけたくなるほどの、黒くて熱いものが。
第一章 昼下がりと、女神の横顔
第一話
昼休みの校庭は、いつだって平和だ。
サッカー部が向こうでボールを蹴り、隣のベンチでは女子がスマホを囲んでキャッキャしてる。
購買のパンは売り切れ気味だけど、日差しはあったかくて、風が吹けば制服のシャツがふわっと浮く。
季節は夏。なんの変哲もない、いつも通りの昼休み。
「毎日暑いよなぁ、響、今日もお前、図書室行くつもりか?」
声をかけてきたのはクラスメートの
一ノ瀬 祐真(いちのせ ゆうま)
口癖みたいにそう言いながら、毎回なぜかついてくるくせに。
「行くけど、それが何か?」
「いや、もうちょい青春ってやつをだな。こう、アグレッシブにさあ」
「本を読むのも青春だと思うけど」
「それはお前だけの世界だな」
そんなやり取りをしながら、校舎の渡り廊下を歩く。
窓の外には、桜の花びらがまだ少し舞っていて。
どこかで誰かが笑っていて、眠たそうな先生が廊下を歩いていて。
――これが、僕の“普通”だ。
名前は 真嶋 響(ましま ひびき)、高校二年生。
クラスではそれなりに喋るけど、派手でも地味でもない“中くらい”のポジション。
成績は悪くないけど、スポーツは苦手。
人の顔はよく覚えるのに、名前はなかなか覚えられない。
「そこそこ真面目で、そこそこつまらない」って、たまに言われる。
でもそれが、嫌じゃなかった。
平凡であることは、楽だ。
波風が立たず、痛いことも起きにくい。
“あのとき”からずっと、僕はそうやって生きてきたんだと思う。
……だけど。
そんな“平凡な日常”が、あんな簡単に壊れるなんて――
このときの僕は、まだ想像すらしていなかった。
図書室の窓際の席は、風通しがよくて静かで、午後の眠気と相性がいい。
僕は借りていた小説の続きを開いて、ページをめくる。
こうしていると、時間の流れが少しだけ別の場所に行った気がする。
昼のざわめきが遠ざかって、文字と文字の間に潜り込む。
——そのときだった。
ふと、本棚の向こうから視線を感じた。
ページをめくる指を止めて、そっと顔を上げる。
視線の先には、ひとりの女子生徒が立っていた。
光に透ける黒髪。
端整すぎる顔立ち。
制服の着こなしも整っていて、まるでポスターから抜け出してきたような完璧さ。
……白鷺ユリ(しらさぎゆり)
学校中の誰もが知っている名前。
誰にも近づかず、誰にも汚されないまま、教室という“社交界”を越えて存在する、“特別な人”。
そんな彼女が、なぜかこちらを見ている。
「……あの、これ」
彼女が差し出したのは、僕の足元に落ちていたしおりだった。
どうやら、さっき落としたらしい。
「あ、ありがとう」
「うん」
それだけ。
それだけなのに、僕の胸の奥が少しだけ高鳴った。
彼女は何も言わずに去っていく。
本棚の間をすり抜けて、影のように姿を消す。
残されたのは、指先に触れたしおりの感触と、彼女の瞳の残像だけ。
僕は何ページもめくったまま、文字が頭に入ってこなくなった。
なんだったんだろう、あれは。
ただの偶然? それとも、何かの始まり?
わからない。だけど――
その日から、僕は白鷺ユリという名前を、ただの“有名人”としては見られなくなっていた。
その日も、いつも通りの放課後だった。
授業が終わって、教室を出て、校門に向かう。
空は少し曇っていて、日差しはやわらかく、地面の影が淡く伸びていた。
「響、お前、なんか……最近ぼーっとしてね?」
祐真が隣で言う。
僕は軽く首を傾けて答える。
「そうかな?」
「そうだよ。なんかこう、現実感ないっていうか。……恋でもした?」
「あるわけないだろ、そんなの」
「ふーん?」
祐真はにやにや笑いながら、僕の背中を軽く叩いて先に行った。
僕は少し歩調を緩めて、昇降口を抜ける。
そのときだった。
正門へ向かう曲がり角。
誰かとすれ違った、と思った瞬間。
「……すいません」
静かな声が、僕の耳元で囁かれた。
振り向くと、そこにいたのは——またしても、白鷺ユリだった。
「あ、いや、こっちこそ……?」
自分でも何が「こっちこそ」なのか分からなかった。
でも、ユリは立ち止まって、小さく首を傾げた。
「……ごめんなさい。なんでもないです」
それだけ言って、すぐに背を向ける。
ゆっくりと、静かに歩いて行く彼女の背中。
足音は地面に吸い込まれるように消えていく。
なんだったんだ、今の……?
人違い? でも僕、何もしてないし、声もかけてない。
ただ、その一瞬。
すれ違いざまの視線が、まるで“探していたものを見つけた”ような、
そんな目をしていた気がして、心がざわついた。
……まさか、とは思った。
でもその“まさか”が、脳裏から離れなかった。
週明けの火曜日。放課後。
雨がぱらついていた。
傘を持っていなかった僕は、校舎の軒下で雨宿りしながらスマホを見ていた。
本当は図書室に寄りたかったけど、この天気じゃ寄り道する気も失せる。
「……それ、今日の降水確率?」
不意に、声がした。
顔を上げると、そこにはまた彼女がいた。
白鷺ユリ。
あの“なんでもない”以来、初めて近くで見る顔。
「え? ああ、うん……たしか午後から30%って……外れたみたいだね」
「……そうみたいですね」
彼女は、僕の隣に並ぶようにして立った。
距離にして、肩ひとつぶん。
その程度なのに、なんだか空気が変わったような気がした。
「……待ってるの?」
「うん。雨、止むの待ってる。傘、持ってなくて」
「私も」
彼女はそう言って、小さく笑った。
その笑顔が、驚くほど自然だった。
完璧な美少女——なんて言葉じゃ片づけられない、
ほんの一瞬、素の顔を見たような気がして、僕は何も言えなくなった。
「……あの、前に……図書室で」
「ああ、うん。しおり、ありがとう」
「いえ」
「それと、あのとき……誰かと間違えたの? あれ——」
「……さあ、なんだったんでしょうね」
そう言って、彼女はいたずらっぽく微笑んだ。
カン、という音とともに、雨粒が一つ、僕の靴に落ちた。
ふと見ると、雲の向こうから、うっすらと陽が差し込んできていた。
「止みそう」
「うん、たぶん、そろそろ」
彼女は軽く頭を下げて、校門の方へと歩いていった。
その背中を見送りながら、僕は自分の胸が少しだけ騒がしくなっているのに気づいていた。
——また、会えるだろうか。
そんなことを、考えていた。
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