【第三章】最愛の相手
十、黄泉の国へ
日が昇り、八雲宮に朝がおとずれた。
須佐之男命は、昨夜見た咲夜花の様子が気になって、彼女の部屋へ向かった。
別れ際、口では大丈夫だと言っていたものの、彼女の目は赤かった。
(寝起きで連れ出したのが悪かっただろうか)
夜中もうなされていたようだし、もし体調が悪そうなら、今日はそっと身体を休ませてやろう――――と、そんなことを考えながら赤い柱の前に着いた。
まだ寝ているものだと思っていたら、部屋はもぬけの殻だった。寝具は、ひんやりと冷たく、昨夜、須佐之男命が連れ出した時から変わっていないように見える。
須佐之男命は、表情を強張らせた。
――なんだか嫌な予感がする。
「咲夜花? 咲夜花! どこへ行った?!」
大声をあげて呼び掛けるも、答える声はない。部屋の中には、他に隠れるような場所もないので探すまでもない。部屋を出て探しに行こうとしたところで、ちょうど
椀に入っていた米や汁物、焼き鮭などが床にこぼれる。
須佐之男命は、それに構わず、八雲宮の部屋という部屋を探し回った。
それでも咲夜花は見つからない。いなくなった。
八雲宮の外へ出たのだ。
「咲夜花ーっ! ……おい、咲夜花がどこへ行ったか知らないか?!」
傍を歩いていた人形の胸倉をつかみ、問いただす。
人形には口がない。それでも、自分を作った主の命令には絶対従う。
代わりに人形は、首を横にふった。知らない、という意味だろう。
須佐之男命は、怒りに任せて人形を叩き壊した。床板に、土くれへと戻った人形の欠片が散らばる。
その後も須佐之男命は、片っ端から使えない人形たちを壊して回った。
(咲夜花もまた、俺の元から去っていくのか――――!)
その時、雷鳴が八雲宮を襲った。それまで晴れ間を見せていた空は暗転し、稲妻の光が赤い柱を白く染める。
空が、荒神の心そのものを映し出しているかのようだった。
☯🐍☯🐍☯🐍☯
八雲宮を抜け出した咲夜花は、海岸にいた。まだ日が昇っていない海は墨を溶かしたように真っ黒で、恐ろしかった。
ミツマタが言うには、
黄泉の国は、暗く
咲夜花も、話には聞いたことがあるものの、まるで想像がつかない。一体どのような場所なのだろう。
『こっちだ』
ミツマタの案内に従い、海岸の岩が窪んだ場所へと降りていく。ごつごつとした岩は、八重垣谷の岩とは違い、表面に小さな穴が無数に空いていて黒っぽかった。
足場に気を付けて一番下まで降りると、海水がすぐ足元まで満たされた場所に出た。潮の匂いが鼻につく。その場所は周りを岩壁に囲まれ、海へと続く穴が見えた。まだ暗い海と空が境目を失っている。どうやら間に合ったらしい。
岩窪の奥に、ぽっかりと口を開けた穴があった。まるで地が裂けたような穴だ。覗いただけでは、底が見えない。
人ひとり分が通れるだけの細い道。それを前にして、ミツマタが振り返る。
『本当にいいのか? もしかしたら、もう戻れなくなるかもしれないぞ』
蛇であるミツマタの表情は、相変わらず何を思っているのかわからない。それでも、最後に咲夜花の覚悟を問うということは、彼なりの優しさであると咲夜花は受け取めた。
怖くないと言ったら嘘になるだろう。
咲夜花は、目をつぶった。
(スサノオ様には、クシナダ姫が必要なのよ。わたしじゃない……だから)
咲夜花は、目を開けた。もう、覚悟は決めている。
ミツマタも、咲夜花の目を見て、その覚悟を読み取ったようだった。もう何も言わず、そっと穴の前から身体をどける。
『オレ様が案内できるのは、ここまでだ』
あとは一人で行け、と首をくゆらすミツマタに、咲夜花は「ここまで案内してくれて、ありがとう」と笑みを見せると、穴の中へ足を踏み入れた。
黄泉の国へと続く入口は、真っ暗で狭い。迷うことがなくていい、と咲夜花はよい方へ考えるようにした。
穴は、少しずつ傾斜していき、地下へと続いているようだった。
いつの間にか辺りの潮騒が途絶え、音のない世界に咲夜花はいた。潮の匂いも消えている。この道がどれくらい続くのか、今自分がどのあたりを歩いているのかすら検討がつかない。
(母さんやクシナダ姫も、こんな暗い道を通って行ったのかしら)
死んだ者が行きつく場所――――それが黄泉の国だ、と。そう教えてくれたのも、母だった。
心細くなる気持ちを奮い立たせて、咲夜花は歩を進めた。胸元にぎゅっと手をあてて、その下にあるお守りを確かめる。妹と弟たちからもらった勾玉だ。そこから勇気をもらえるようだった。
一体どれくらい降りただろう。時間の感覚がなくなり、空気も薄れ、咲夜花の意識が
狭い穴の先は、広い空洞になっていた。真ん中に、
まさか出迎えがあるとは思いもよらなかった咲夜花は、驚いた。果たしてここが、黄泉の国なのだろうか。
女は白い着物を着て、顔を伏せている。まるで生きている人間のようだ。
「あなたは……?」
咲夜花の戸惑う声に、女が顔をあげた。その顔は、死人のように白い。
「あなたを待っていました、咲夜花。私は、クシナダ。スサノオの妻です」
咲夜花は、その女を夢で見たような気がした。
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