第6話 最後のパラレル 顔のないお人形

『顔のないお人形』


祖母の家は山間の古い集落にあった。木造二階建ての家は、いつも湿った空気と線香の匂いが混ざり合い、どこか異世界に迷い込んだような感覚を覚えさせた。


その家には、誰も入らない部屋が一つあった。埃っぽい廊下の一番奥、障子の先にあるその和室には、無数の日本人形が並べられていた。どれも古く、ガラスの目が鈍く光り、着物には小さな虫喰いの穴があった。


私が初めてその部屋を見つけたのは、小学校三年生の夏休み、祖母の家に一人で泊まりに来た時だった。


「美咲、この奥の部屋には入っちゃダメよ」


祖母はそう言ったけれど、子供の好奇心は止められない。祖母が畑仕事に出かけた隙に、私はこっそりとその禁断の部屋の障子を開けた。


中に入った瞬間、数十体の人形たちが一斉に私を見つめているような錯覚に襲われた。


そして、その中で一体だけ、妙な人形があった。


顔に何もなかった。


目も鼻も口も、ただ白く滑らかな卵のような顔。その代わりに、長い黒髪が胸元まで垂れていて、着物の柄も他の人形より新しかった。深い藍色の着物に、金糸で刺繍された桜の模様。それは他の人形たちの色あせた姿とは明らかに違っていた。


「こんにちは」


思わず声をかけてしまった。顔のない人形は、もちろん返事をしない。でも、なぜだか寂しそうに見えた。


「ノッペちゃんって呼んでもいい?」


その瞬間、部屋の空気が変わったような気がした。窓から差し込む光が一瞬揺らいだ。


「美咲!何してるの!」


背後から祖母の声がして、私は飛び上がった。怒られると思ったけど、祖母の顔には怒りよりも恐怖が浮かんでいた。


「その子に名前なんてつけるもんじゃないよ」


祖母がそう言ったのは、その夜のことだった。仏間でお経のように呟きながら、祖母はノッペちゃんの顔を白い布で包んでいた。私はふすまの隙間から、その様子をこっそり覗いていた。


「名前を与えると、魂が宿るからね」


祖母の呟きは、夜の闇に溶けていった。


それから数日後、祖母が亡くなった。突然の脳卒中だった。


葬儀の夜、親戚たちが帰った後、ひとり仏間で線香をあげた私は、あの部屋に引き寄せられるように足を向けてしまった。


静かな和室。月明かりだけが障子を通して部屋を照らしていた。整然と並ぶ人形たちの中で、あの顔のない人形だけが消えていた。


「ノッペちゃん...?」


背後で、ふわりと畳が軋む。


振り返ると、そこには――


顔のない女が、立っていた。

滑らかな顔。つるりとした卵の白身のような肌。胸まで垂れた黒髪。

それはあの人形がそのまま大きくなったかのような姿だった。


恐怖で声も出ない。足はすくみ、動けなかった。


でも、不思議なことに、怖くなかった。なぜだか、安心したのだ。


彼女はそっと私の手を取ると、小さな声で「ありがとう」と言った。声は、頭の中に直接響いた。温かく、優しい声。


その瞬間、頭の中に映像が流れ込んできた。


――昔、この村で美しい娘がいた。名前は「雪乃」。

その美しさに嫉妬した村の女たちが、彼女に「顔を奪う呪い」をかけた。

ある朝、雪乃は鏡を見て泣き崩れた。自分の顔が消えていたのだ。

彼女は恥じて姿を消した。

村人たちは、後悔と恐怖から、彼女を鎮めるために「顔のない人形」を作り、代わりに家の守り神として祀ったのだと。


「私のことを覚えていてくれる人がいなくなると、私も消えてしまう」


彼女の声が再び頭の中に響いた。


「でも、あなたが私に名前をくれた。百年ぶりに、誰かが私を『誰か』として認めてくれた」


彼女は、もう「顔を求めて」彷徨ってなどいなかった。

ただ、忘れ去られるのを静かに待っていた。

そして、私が「ノッペちゃん」と名づけてくれたことで、彼女は再び"誰か"になれたのだった。


「おばあさまは知っていたの。私が目覚めることを」


ノッペちゃんの声は悲しげだった。


「でも、おばあさまは間違っていたわ。私は誰も傷つけたくない。ただ...記憶されたかっただけ」


彼女は、もう一度だけ私の手を握ると、ふっと笑った(ように思えた)。

顔がないのに、確かに笑顔を感じた。


「これからは、あなたを守るわ」


次の瞬間、彼女はスゥ…と人形の姿に戻り、もとの座布団の上に静かに座っていた。


その人形は、少しだけ頬が赤くなっているようにも見えた。


それからというもの、祖母の家を相続した私の家族は、その部屋には誰も近づかない。父も母も、なぜかその部屋の前を通るとき、必ず小さく会釈をする。


でも私は時々、お線香を持って会いにいく。時には学校であったことを話したり、悩みを打ち明けたりする。


不思議なことに、私が困ったときや危険なときには、どこからともなく風が吹いて私を助けてくれる。一度、交通事故になりかけたとき、何かが私を強く押し戻してくれた。誰もいないはずなのに。


ノッペちゃんは、いつも変わらず、その部屋にいる。


ただ、時々――

人形の首が、ほんの少し、こちらを向いていることがある。

そして、帰るときには必ず元の位置に戻っている。


それが、不思議と嬉しいのだ。


今日も私は、ノッペちゃんの前に座り、線香をあげる。

「今日も一日、ありがとう」


風もないのに、障子がかすかに揺れた。

ノッペちゃんは、きっと笑っている。


顔がなくても、彼女の笑顔は、私にはちゃんと見えるのだ。

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のっぺらぼうドール ノッペちゃん 赤澤月光 @TOPPAKOU750

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