第六話 故郷遠くして月光涙を彩る
ほんの何ヶ月か前は傷だらけで森をさまよっていた自分がこんなことになろうとは、全く今の自分が自分でないような気がした。
「……痛い」
つねり続けた頬もそろそろ感覚が麻痺してきた。
窓の外が白いので、中庭に出て見ると、月光があふれていた。青白いというより、緑白い光は中庭の草花と夜露を白く浮きたたせ、ガラス細工のように透き通らせる。
「……きれい」
この国の月は、珠々の町の月の倍の速さで満ち欠けするようだ。華やかに降り注ぐ輝きに、月は一回りも二回りも大きく見え、中庭の珠々を圧倒した。
この光を家族に見せたい。そう思った瞬間、双方の距離を痛感し、どうしようもなく泣けてきた。涙が家に返してくれる魔法ならと、少し本気で考えた。
しかし、そんな涙の熱さは、今が夢でもおとぎ話でもないこといやが上にも見せつけるだけだった。珠々は今は、ここで日々を重ねるよりない。あのまま山の中で、あるいは賎民街で虐げられて終わるより、はるかにいい。
そんなホームシックもすぐ抜けた。珠々は建物を場所を覚えるのに忙殺されている。
「えーと……陛下のお住まいが
数日の間に、
そして雲蒸殿には色々な人間が出入りする。出入りするこの国の住民は龍だけであったが、いわゆる「外国人」は、いかにもな貴族名士は言うに及ばず、商人や学者もひっきりなしに訪れ、青龍はそれにいそいそと接している。「外国人」に限れば、角の有無は気にしないようだ。目の前で人間の顔が龍に変化してゆくのを目の当たりにしていると、多少顔や体の作りが人間離れしていることなどにはおもうほどの驚きにはならないものだと、珠々は思っている。
思うにここは青龍の「世界の窓」なのだろう。周りの国の状況は何もわからないが、「偉い人」として他国に興味があることはいいことだと、珠々は珠々なりにそれを見ている。
「オーガスタはいよいよ住みにくくなりました。新しい王は目の上のコブにしていた家臣を牢に閉じ込めたそうで」
「ナテレアサでは冤罪によって夭折した騎士様が残したお嬢様が見つかったとかで、宮廷は大騒ぎですぞ」
珠々はそんな話を聞いては、小貴龍をつかまえて世界地図を広げたりしていた。半分はそういう噂から自分が帰れそうな手がかりを掴めるだろうかという努力で、しかし半分ぐらいはあたらしい世界に関する好奇心だろう。結果として、彼女は雲蒸殿の中で自分の居場所をしっかり作れていた。その一方で、奇妙なことも起き始めていた。
時々、誰かが後ろから自分を見つめているような気がする。しかし、振り返っても誰がいるわけではない。
小貴龍が見取り図で教えてくれた北隣の
「なるほど、そのテのものが出るから立ち入り禁止にしてあるんだわ」
珠々は一人で納得した。とにかく一日で歩き回れる広さでは到底できない場所だ、幽霊屋敷の一つや二つあるだろう。なるべくその辺りに近付かないように心がければ、そんな現象も極端に減り生活は快適になった。
しかしそんなあるとき、彼女は、廊を隔てる扉が開いたところに、人影が入っていくのを見てしまった。
後ろ姿だけだったが、長身で、角が二対見えた。龍帝とその一族のみの特徴であるという。青龍のものとよく似ていたが、彼ではない。青龍は髪を整えて被り物の中にしまっているし、髪の長さだけでいえば伸ばしたままの大貴龍よりも一層長かった。
止められてはいるが、その正体を突き止められればそれに越したことはない。この場所は雲蒸殿の、青龍の妻と侍女の居場所に近い。侍女目当てに部外者が入り込んで事件になったら後味も悪い。不心得者が勝手に根城にしていた、なんてことがわかりでもすれば、あるいは事件を未然に防いだとしてお褒めの言葉の一つなどいただけるのではないかという虚栄心もある。
何より、見てはいけないものは見たくなるものである。
扉は屈めば通り抜けられるような、下の空いている簡単なものだった。潜り抜けて、建物の前に立つ。
建物の入り口は、開けられることも余りないようで、敷居の辺りには泥がこびりついていた。庭の手入れはしていないようで、珠々の腰ほどもある雑草がわさわさとしていて、足元はぬかるんで珠々の衣装にはねて、布張りの靴を汚す。
捨て置かれる建物にしては、黒みがかった紫の扉にあしらわれた龍の彫り物はとても豪勢だ。その扉を押したり引いたりしたが、開く気配がない。それでも何度目か押したとき、突如扉が紙のように手応えを失い、珠々は
「ふわあぁっ!」
惰性で開いた扉から部屋の中と、頭からつんのめる形で転げ入ってしまった 。
「真っ暗?」
身を起こすと、扉から入った光が、珠々の影を床に作ってはいるが、その光すらも吸い込んでしまうように、奥は意外に深く、この部屋の大きさはわからない。光から闇の空間に放り込まれた直後ならまだしも、目が慣れても、それは変わらなかった。
そして大きな音がして、背後の扉が閉まった。
「!」
珠々が慌てて出ようと、取っ手に手をかける。開けようとしたときのように、びくともしない。
「……」
助けを呼ぼうと吸い込んだ息は、そのまま抜けていった。背後に何かがいる。刺すような視線。
例えるなら、飢えた蛇が獲物を見つけて、油断の一瞬を狙う視線。
背後から伸びてくる手を払って、立ちあがろうともがくが、完全に慣れたとはいえない衣装の裾に足をとられる。
横倒れた自分の周りに、さわりと何かが垂れ落ちる気配がした。ここに入っていったあの人物の髪だとすぐに悟った。
再び手が差し伸べられてきたが、恐ろしく静かに、珠々の衣装のあわせの中に滑り込み、襟を分けてきた。触れる指の感触に、ぶわっと肌が怖気立つ。
「や、」
指を払いたいが動けない。動いたら、珠々の口を押さえるのも、首を締めるのもすぐにできるところに相手の手はあった。帯も解かれ、裳裾が左右に分けられ、脚の間にどしっ、と、膝の置かれる重みのある音。
「やめ、」
珠々の襟足に、柔らかいものが当たって、軽く触れながら、生暖かい空気が胸元にまで伝ってゆく。呼気の芳香にうっとりなどできるはずもなく、珠々を見る目と視線が合った。
「やめてええええっ!」
やっと出た声は、弾かれたバネのように飛んだ。珠々を取り込み閉まった戸が、文字どおり蹴破られた。
「珠々!」
大貴龍の声のようだった。光が再び差し込んできた。光に遂われるように、珠々にのしかかっていたものは奥に退くようだ。
「大事はありませんか珠々 千歳がご用というのに部屋にもいず、探したらこれです。
……全く」
小貴龍がうなだれた珠々を建物の外に引っ張り出す。乱れた服も整えられず、ただカチカチカチカチ、と珠々の歯が鳴っている。大貴龍は奥の果てもわからない暗闇の中に、
「このこと、千歳にご報告いたしますよ」
それだけ言った。返事はない。
にわかに足腰の立たなくなった珠々は自分の部屋にかつぎ込まれて、
「大貴龍も小貴龍も、紫虚閣に近づくなと言ったはずだろう」
「千歳、珠々は怖い目に遭ったのですよ、そうお声を大きくなさらないで」
開口一番、青龍は言いとがめて、姚妙がそれをたしなめた。
「大変だったわね」
珠々はまだくらくらする頭を抱え、礼だけを返した。
「たしかに、隠していた我々にも落度はあったかもしれん、だが自分から探るなど……」
青龍は呆れた声で言う。
「あんなことのあった後で聞きたくはなかろうが教えてやろう。
あの紫虚閣には、私の弟である
……それだけだ。珠々、満足したか」
「千歳」
姚妙は青龍の背をなでる。
「そんな投げやりにおっしゃらなくても」
「私はもう彼女に教えることはないぞ」
驪龍め、今日という今日は…… 姚妙が見かねて、己が居室に青龍を導く間も、彼の声高なつぶやきは長いこと聞こえていた。大貴龍が、布団の中で伸びている珠々にいう。
「貴種にみそめられて、婚姻することでこの国に根を下ろす……確かに、それも方法といえば方法」
「そんなわけ」
言い返そうと首をもたげた珠々の前に、大貴龍は薬酒の盃をつきつける。
「珠々、あなたも今は落ち着くべきです。この薬はよく効くはずですから、暫く眠っておきなさい」
躊躇させる間もなく大貴龍は盃をすすめる。
「さあ」
「……」
珠々はえいっとばかりに空にするしかなかった。
薬酒の通った喉が中で火でもおこってるように熱い。口の中は辛いままだし、体は相当疲れている。しかし、眠ろうと目を閉じてもおいそれと眠れるわけでなく、瞼の閉じた闇や、部屋の暗がりに、ふるえるほどの恐怖を感じる。
珠々にも彼氏がいなかったわけではないが、これはそういう経験とは別というものだろう。
青龍の弟だかなんだか知らないが、盛大に怒られればいい。ついでに大貴龍も、珠々が自分を売るようにしてこの国にとどまってしまおうと考えたと勘違いしたのは反省してくれ、ここに働き口を求めてくれたのはただのハッタリか……
そのうち薬が回ってきたのか、すべてがぼやんとしてきて、珠々はやっと眠りにおちる。
様子を見に行かせた小貴龍が珠々の寝入ったことを知らせてくると、青龍と大貴龍は胸を撫で下ろしていたのだと、これはだいぶ後になって姚妙が教えてくれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます