八龍戯球演義(はちりゅうぎしゅえんぎ) ー異世界に落ちた娘、珠に導かれ龍神となるー
清原因香
本編
第一話 たまさかに美玉を得て、その夜雲より不可思議の至る
「このお店、閉まっちゃうんですか」
と、
「いくら今、古いものが見直されていると言っても、こんな古道具屋今さら流行らないし、宗旨替えしてリサイクルショップにでもしたほうがいいと嫁に押し切られてしまったよ」
店の主人はつぶやきつつ、段ボール箱を積んだ横にある古いレジの脇の金庫の中から一個水晶玉を取り出した。藍色だの青だののマーブルのはいった物で、よく珠々はせがんで見せてもらったものだ。古道具屋の老店主でも、これがこの店にある理由というものはわからないようだ。
「これ、うちの秘蔵っ子だったけど、珠々ちゃんにあげよう。誰よりも気に入ってくれたお前さんなら、大事にしてくれるだろう」
その言葉に、珠々の顔がぱっと華やぐ。
「もらってもいいの?」
「お餞別だよ」
老店主は淋しそうに笑いながら、それを桐箱におさめて、珠々に渡した。
この日まで、珠々はただのアルバイターだった。
この水晶玉をはじまりとしてこれから大冒険をしようとは、誰も、もちろん本人さえも、思ってはいなかった。
珠々は、夜半まで、満月の白い光に例の水晶を照らしていた。店の電球の光に照らすのも綺麗だったが、この光の下は玉の中の青が一層映えた。そうして、玉を窓際の机に置いて眠った……はずだった。
寝入りばなだろうか、彼女の頭の上、窓の向こうから少年の甲高い声がして、無理やり珠々は眼を覚まさせられる。
「どこだろう、ここは……もしかしてはぐれちゃったかなあ」
「誰だろう、こんな夜中に…… 非常識だなあ」
うっとうしく身をもたげながら、声の主に何か言ってやろうと虚ろな眼を開くと、相変わらず晴れた夜空の青白い月光が部屋の中に差し込んでいる。
少年の声は気のせいだったのか、誰かいるような気配もなく、時計の音だけが妙に大きい。
「気のせいか」
「どうしよう……兄様にしかられる」
また眠りに落ちようと布団に潜ったところで、同じ声がした。
「!」
珠々は布団の中で眼を見開いた。自分に霊感なんてこれっぽっちもないのは自分がよく知っている。そのテの存在は半分信じてはいるが、進んで会いに来てくれるのにはちょっと心の準備が間に合わない。
だが、現実のようだ。何かの気配が、開け放した窓のほうから漂ってくる。
珠々は身を乗り出した。だが、ここは二階なのだ。
「それにしても、みたことない景色だ」
向こうも気味悪がっているようだ。
「誰かいないかなあ。これはなんだろう。家みたいだけど……」
次の瞬間、珠々の視界には、今まで見たことないものが飛び込んできた。
一口でそれを言い表すのは簡単である。
龍だ。ドラゴンだ。ラーメンの丼の底にいるアレだ。
正直な所、それに珠々は腰を抜かさんばかりに驚いていた。珠々の口はぱくぱく震えるだけで、本当に驚いたときには金切声なんて出ないものだと、頭のどこかで変に冷静になりもした。
とにかくその非日常的さについては、珠々をその場で失神させるに十分だった。
珠々は、以上までの観察をしおおせた後、眼の前を真っ暗にして窓からずり落ちようとしているのも知らなかった。
しかし気がついたときには、珠々はふわふわしたものの上に乗っていた。確かに何かには載っているが、手触りはただ柔らかいとしか言いようがない。まるで何もないかのようだ。
「あーよかった、気がついて」
あの声がする。頬に当たる風は粟立つほどに涼しい。
「下は見ないでね」
という声に釣られて下を見やると、バイト先までの行き来に使う電車の線路が地面の手術跡といった風情で伸びていた。珠々は、風の寒さも手伝ってそわ、と鳥肌をたてた。落ちるのは嫌だ。
「ねえ」
と、後ろの気配に振りかえってみる。教科書で見た漢詩の詩人のような風体の少年が一人、やはりもの珍しそうに珠々を眺めていた。彼は珠々に声をかけられて、
「なに?」
と愛想のいい返事で帰してきた。
「あの龍はどこにいったの?」
「え?」
「あなたが連れていたんでしょう、あの龍」
全てをわかったような口ぶりだが、珠々は今ぶちあたっている状況全てを信じていない。わかったような顔をしていなければ自分の調子を見失いそうだった。ところで、少年は珠々の質問の意味を暫くははかりかねていたようだ。が、その姿は瞬間もやもやと歪み、解けたかと思うと、珠々の失神の原因になったあの龍になった。
「……」
また失神しようとする珠々の体を龍はぐるりと巻き止める。鱗の触感がごまかしようのない現実のなかに珠々を引きとどめる。少年はまたもやもやと人の形に戻り
「失神するのが好きなんだね」
と面白いものを見るような声を出した。
「好きでしてるんじゃないのよ。だいたい、私どうなってるの? どうなるの?」
珠々はつとめて上を見ながら聞いた。怒鳴りつけたいのだが精神ダメージが重くて腹の底から声がでない。そして少年の答えはつれない。
「ボクにもわからないよ」
「なんでえ?」
「だってボクは、兄様のお供についてきただけだし」
「え」
「久しぶりの遠出で嬉しくていたら、兄様とはぐれちゃった」
「で、気がついたらうちの屋根だった」
「そう。誰かいるみたいだったから、開いてるところから覗いたら、おねえちゃんの顔があって、」
「私は失神した」
「おねえちゃん、あともう少しで落ちるところだったよ」
「受け止めてくれたのね? で、降ろしてくれないの? 私、明日もバイトなんだけど」
珠々にだんだん人心地が戻ってきた。少年と差し向かいに胡座をかいて、少年の答えを待つ。
「うん、そうしたいのは山々なんだけど、今兄様と連絡がついちゃって、急いでるんだ」
「どうして!!」
「お姉ちゃんのこと話したら、つれて来いって」
珠々は声をあげ、やおら立ち上がった。少年の胸ぐらをつかむ。すぐには帰れないことがわかり始めたこのやる方のない混乱は、目の前の少年にぶつけるよりなかった。
「そうだからって、猫の子拾ったみたいに通りすがりにさらわれてたまるもんか!
戻しなさいよ、帰しなさいよ! 降ろさないんだったら降りてやるからね!」
「立たないでよおねえちゃん、風にあおられるよ」
「なんだかよくわからないけど、おもちゃみたいに扱われるのなんかまっぴらごめんなんだから!」
平然と挙動をたしなめる少年。だが、いや、だからこそ、珠々のはらわたは収まらない。
立ったまま、すう、と息を吸い、次を言おうとした瞬間、珠々は案の定、前から吹いて来た一陣のジェット気流にあおられた。
「あ」
珠々と少年は同時に声をあげた。少年が助ける間もあらばこそ、珠々は何百メートル下かもわからない、いつの間にか雲海の下になった地面へと背中から落ちていった。
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