第2話 若き宮司と龍の祝詞
天倉神社第38代宮司──
佐野嗣実(さの・つぐみ)は、二千年のあいだ、山の神を祀り続けてきた家系に生まれた。
帝東大学を卒業後、都会での研修期間を経て、再びこの神域へと戻ってきた。
彼は、幼い頃から「山の気配」や「龍の声」を感じてきた。
龍神の気の乱れをよく感じるようになったのは、嗣実が社務を継いでまもなくのことだった。
天倉神社は、古くから「整えの神」として知られ、
山と水の境に位置することで、“気が交差する場”として信仰を集めていた。
主祭神は高龗神(たかおかみ)──龍神の姿で現れる水の神。
相殿には大山祇神(おおやまづみ)が祀られ、山そのものへの感謝と畏れが捧げられてきた。
原生林に守られた山の麓には、静かに湧き出す清流が神域を流れ、やがて大河へと注いでゆく─。
2000年も続く神社やその地域には数多くの伝説や言い伝えが残っている。
龍神を祀る天倉神社にも、龍にまつわる伝承がいくつもあった。神域を流れる龍須川には大きな龍が現れるというのもその一つだ。
龍が通った後には、その鱗が落とされる事がある。
佐野家には代々の宮司が見つけたという鱗が4枚、その長い歴史の中で保管されている。二枚が対になり、600年以上昔の、二つの時代に見つかったと言われているものだ。
鱗が見つかる時は、気の乱れる時。
龍神の知らせ。
龍に祈りを捧げる者は、選ばれた者。
何百年も昔に、その時の宮司が配偶者と見つけ、乱れた気が整い、以降は豊作の年が続いたとだけ書かれた文献がある。しかし、もう長い間、ここで鱗を見つけた者は居なかった。
嗣実が龍の鱗を見つけたのは、東京から戻り、数ヶ月経った頃だった。
早朝、広い神社の境内を巡回中、手水に使われている川、龍須川に溢れるばかりの木漏れ日が降り注いでいた。
幻想的な風景、あまりの美しさにただ立ち尽くしていた嗣実は、光が上流へ動いた後、川底に光るものを見つける。拾い上げたそれは、鱗だった。手のひらの大きさの、大きな鱗は、滑らかで、薄く銀色に光っていた。
「……龍の鱗?」
かつて曽祖父から聞いたことがある言い伝えの鱗。
「まさかこれが……?」
嗣実は、指先でその輪郭をなぞった。
銀白の光を帯びたその鱗は、静かに脈を打つように輝き、手のひらの中で息づいていた。
間違いないと確信した嗣実は、
それを懐に仕舞うと、社殿の奥へと進み、
神前に三方を据え、そっと鱗を捧げる。
………………………
かしこみ かしこみ もうす
天倉の社に坐(ま)します 高龗大神(たかおかみのおおかみ)
み水の音にみ霊の息吹き
この地に氣を鎮めたまひて 二千年の御守り給う
今ここに 龍の落し鱗を 捧げまつらく・・・
・・・・・・・・
・・・・・・・・
・・・・・・・・
……………………
祝詞を唱える声が、静かに社の中を満たしていく。
やがて風がやみ、空気が張りつめるように変わった。
──その時、鱗が淡く光を放ち、嗣実の胸奥に声が届いた。
(これは………‼︎)
「今よりのち、その鱗を拾いし者、そなたと共に歩む縁にあるものなり。
いにしえの誓(うけひ)に応え、
水と山の氣、ふたたび調ひて満つる時──
この地、整いの座として甦らん。
我が氣の柱たる神樹に、鱗を戻せよ。
なれば、幾代の流れを其方らに見せん──
この者を、迎えよ。
交わりを急ぐことなかれ。
名を結ばずともよい。
ただ、ともにあれ。
龍の氣は、共に在るとき、最も静まる」
厳かな龍の響きは、御神託として嗣実の肚に収まった。
嗣実は静かに目を閉じ、膝をついた。
(これが──神の選びか)
初めて受けた神託だった。
ただ一つの導きのように、すっと降りてきた。
(浄化が難しくなってきている…)
嗣実は、神域の上流にある滝の様子を思い浮かべながら、深く頭を垂れ、心の奥で神託を承諾した旨を応えた。
気を整えるはずの神域の、少しずつ変わっていく様子には気付いていた。
龍神の気配は、年々弱まっていた。
神域の整いが乱れかけていることは、長く社にいる嗣実には、肌でわかっていた。
先代が亡くなってから、宮司の力だけでは、循環を保ちきれない。
本来ならば──“巫”が必要なのだ。
鱗を拾う者、それが“対の者”であること。
神に選ばれし“整えの器”であること。
(かつての鱗も、二枚で一つだった。自分の他に見つける人がいるということなんだ)
______________
天倉神社は辺鄙な場所にあるにもかかわらず、神秘的な趣きから人気のある神社で、全国から参拝に来る。
この神託を受けてからすぐは、一体自分の他に誰が鱗を拾うのか、毎日毎日、どきどきしながら待っていた。
その人と、二人でこの地を守ること。
ところが、全くそんな者は現れず、何年も経つうちに、嗣実は鱗を拾う者が現れるのを諦めかけていた。
嗣実はスラリとした体型で美丈夫だったため、村の者たちからは見合い話、参拝者から告白を受けることも多々あった。
しかし、鱗の神託を受けたからには、対のそれを見つける人は自分の伴侶となるべき人。ゆえに、独身を貫いていた。
鱗の神託から9年。もうじき10年目に入るが、鱗を拾ったという人は全くいなかった。
…それが、今朝。
本当に突然だった。
毎日、それについては何の期待もしていなかった。
あの御神託は夢だったのかもと思い始めていた。
今朝も何の変わりもない朝だった。通常通りの朝の務めをし、通常通りに敷地を巡回した。
掃除の奉仕に来てくれている村の人たちと簡単な会話をしたり、朝食のために畑のトマトを採ったりした。
出仕の猪田君と社務所の掃除をしながら、いつも通りの一日が始まるはずだった……。
________________
夕べ降った雨でしっとりと濡れた砂利道が、陽の光を受けて光っていた。
「あ、あの……」
嗣実に手を掴まれたまま、鱗を拾った女性は困惑していた。
「あっ!すみません!」
嗣実は思わず、まるで逃がさないように彼女を掴んでしまった自分が恥ずかしくなり、パッと手を離した。
「あの!そちらへ回りますので、少しお待ちください!」
嗣実は、外へ出るのに出入り口へ行っている間に、女性が居なくなってしまうかもしれないと懸念しながら、大急ぎで外に出た。
女性は、鱗を手に、そのまますっと立っていた。
肩まで伸ばした黒髪、軽くトレッキングができるような軽装、特に特徴は無いが都会的な雰囲気がするその人は、強張った顔をしていた。
ふたり向き合い、言葉を選んで発しようとした時、彼女の方から口を開いた。
「大切なものを拾ってしまったんですね?」
手に乗せた鱗を見つめ、その手を嗣実に差し出した。
「お返しします。つい、美しくて。拾ってはいけないものだとは存じなくて申し訳なかったです」
女性はややビジネスライクに言い、頭を下げた。
「…い、いえ!違います!」
嗣実は慌てて、訂正した。
「違うんです!これは…これは、あなたのものでいいんです!」
理解できないという表情の彼女に、嗣実はもう一度深呼吸をして言う。
「これは……龍の鱗です」
「龍の鱗?」
「はい。私も同じものを拾いました。そして、…もう一枚、これを見つけてくれる人を待っていました。」
「…はあ」
(これは…かなり怪しいことを言ってると思われてるな)
嗣実は彼女の不審な顔を見ながら、疑われているこの状況をどう払拭しようか必死で考えた。
もし鱗を見つけた人がいたら、こうしようとか、今まで散々考えていたことはすっかりどこかへ飛んでしまっていて、諦めていたこの状況が突然現実になると、何も知らない相手を納得させるのがかなり難しいということを実感した。
「突拍子も無いことを言って申し訳ありません。」
とりあえず、謝った。
「私は、この天倉神社の宮司をしております、佐野嗣実と申します。この鱗について、お話させてもらえませんでしょうか?」
嗣実は、できるだけ下手に回ってみた。
女性は、少し警戒を緩めたようだった。
「田嶋佐知と申します。東京から参りました。仕事は休暇中で今旅の途中です」
彼女はシンプルに挨拶をし、
「鱗のお話、お聞きしたいです」
と、笑顔を見せてくれた。
嗣実はホッとし、ありがとうございますとお辞儀をした。
「私の拾った鱗を持って参りますので、社務所にお上がりください。」
嗣実は佐知を社務所に通し、出仕の猪田君にお茶を頼んだ。
そして、蔵に行き、螺鈿細工の箱に入った鱗を持ち出した。
社務所に戻ると、人懐こい猪田君はお盆を持ったまま佐知と談笑していた。
「お待たせしました」
嗣実の声に、二人は話を止め、猪田君は仕事に戻った。
嗣実は佐知の前に箱を置き、紐を解いて真綿に包まれた鱗を取り出した。
「まあ、ほんとう!同じですね。そちらの方が少し大きいような気がしますが。」
佐知はハンカチの上に乗せた鱗をそれごと彼に差し出す。
嗣実は、二枚の鱗を重ねた。
それは、二枚で一つだったとわかる形状だった。
「ぴったり、重なりますね」
重ねた鱗を感慨深く凝視している嗣実を見て、佐知は拾ってよかったと思い直した。
本当のところ、龍の鱗なんて言われても信じられなかった。
何かわからないけど、たまたま自然の中でこんな形になったものがあったのだろう、たまたま龍の川で見つかったから龍の鱗としてるんだろう、探せばまだあるんじゃないかしら?などと考えていた。
黙ったまま、感慨深くしている嗣実に、佐知は
「よかったですね」と微笑んだ。
嗣実は佐知の手を見つめ、少しだけ迷うように言った。
「…私は、幼い頃から龍の気配を感じるのです。」
嗣実は正座して、左手を膝につき、右手でその肘をしっかり握り、緊張を逃した。
「私がこの鱗を拾った時、御神託が降りました」
徐々に不可解な表情になっていく佐知に焦りながら、
「……信じていただけるかわかりませんが、確かめたいことがあります」
「え?」
「無理には言いません。ただ……お願いがあります。少しだけ、付き合っていただけますか」
佐知は戸惑いながらも、頷いた。
嗣実は軽く頭を下げ、ゆっくりと参道を歩き出す。
佐知もその後をついていった。
二人が辿り着いたのは、木肌がねじれた大きな杉の前だった。
嗣実は、御神託を試そうとしていた。
「この木は、龍神が初めて降り立った“氣の柱”と伝わっています」
「木というより……この場所そのものが、そうなのだと思っています」
嗣実は、懐から二枚の鱗を取り出し、そっと木肌に差し込んだ。
「もし、怖くなったら、すぐにやめましょう」
そう言って、嗣実は佐知に問いかけた。
「……手を添えてもらっても、いいですか?」
佐知は一瞬だけ迷ったが、鱗と木と嗣実の真摯な眼差しを見て、静かに頷いた。
『我が氣の柱たる神樹に、鱗を戻せよ。
なれば、幾代の流れを其方らに見せん──』
嗣実は神託の一説を唱えた。
嗣実が佐知の手をそっと導き、鱗の上に重ねる。
そして、自身の手をそっと添えた。
その瞬間──
杉の幹から何かが流れ出し、佐知の鼓動と、嗣実の呼吸と、鱗の脈がひとつになる感覚が生まれた。
佐知が目を閉じた瞬間、
頭の奥に、ひとつの“音”が落ちた──。
それは木の軋む音か、地中の鳴動か。
それとも、魂の底に届く、遠い鐘のような響きだったかもしれない。
次の瞬間、視界の奥に“流れ”が現れた。
それは時間だった。
けれど時計のようにきちんと刻まれるものではなく、
土に落ちた雨が根を伝い、石を濡らし、川へと流れていくような、止めどない時の連なりだった。
目の前には、無数の季節が、ひとつの枝に咲いては散っていく。
生まれ、育ち、別れ、願い、祈り──
人々がこの杉を見上げ、また去ってゆく。
神楽の音。
祝詞の声。
小さな子が手を合わせ、母親が背を撫で、
旅人が跪き、誰かが泣いている。
全てが、“この木”の中にあった。
佐知は、その流れをただ受け入れ、心を委ねた。
どれだけの時間が過ぎたのかはわからない。
ふいに何かが「途切れる」感覚があり、
足元がゆらりと揺れたかと思うと、ふっと意識が無くなった。
次に気づいたときには──
嗣実の腕の中にいた。
「大丈夫ですか?」
嗣実に支えられて、ゆっくり起き上がった佐知は、
「はい…」と力なく答えた。
そして、嗣実を見てつぶやいた。
「私、ここに居たことがあったようだわ…」
嗣実は木肌に差し込んだ鱗を取り、佐知の手に乗せた。
「これを見つけたのは──十年前の私。
今日の、君。
そして二千年前の……わたしたちの、はじまりです。」
『今よりのち、その鱗を拾いし者、そなたと共に歩む縁にあるものなり。』
嗣実を見つめる佐知の遥か上のほうで、捻れた杉の葉がゆっくりと揺れていた。
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