最終話 嘘つけ
泥と雨に濡れた足音が、コンクリートの地面にぴしゃり、ぴしゃりと淡く響いていた。セラはただ、無我夢中で走っていた。脚が痛くても、喉が焼けても、止まる理由がなかった。空はすでに灰色の帳に包まれ、雨粒は冷たい針のように肌を打つ。頬を、髪を、指先を。身体の隅々にまで痛みを刻み込むように、雨は降り続いていた。
誰にも見つからない場所。誰にも追いつかれないところへ──
そして辿り着いたのは、川沿いにある、高架下の薄暗い空間だった。鉄の橋脚が幾本も並ぶその場所は、雨音と電車の唸り声が混ざり合って、まるで遠い異国の国境のように孤独だった。鉄骨の柱が林立する、川沿いの無人地帯。コンクリートに染みる油と泥の匂い、湿った空気。車の音も、人の声も届かない。どこかでカラスが一羽、軋むように鳴いて飛び去っていった。
セラはふらりと崩れるように、地面に腰を下ろした。膝を抱え込む。
ドレスは、もう原型をとどめていなかった。淡いブルーだった布地は、雨と泥と、そして自分の血とで汚され、かつての色を失っていた。舞台のために自分で縫い直したフリルや、スパンコールの装飾も、走る途中でどこかへ散ってしまっていた。
皮膚は擦り剥け、右の頬には紫がかった痣が浮かんでいる。唇も割れ、膝には転んだ痕。足首にはドレスの裾が絡まり、泥がこびりついた。まるでのガラスの靴を履き損ねたまま、物語から放り出されたシンデレラ。
冷たい雨が、セラの肩を叩くように降り続いていた。視界が滲む。涙か、雨か、もう判別もつかない。
誰のために綺麗になろうとして、誰のために台詞を覚えて、誰のために衣装を作ったのか。今はもう何もかも、どうでもよかった。ただ、痛みと絶望だけが、セラの中に静かに澱んでいた。雨音が、鉄橋に当たって反響している。金属的な、ざらついたノイズ。セラは耳を塞いだ。
しかし、しばらくして塞いだ世界の向こうから不意に暖かな声が聞こえた。
「……熱、あるんじゃねぇの?」
その声に、セラはびくりと肩を跳ねさせた。顔を上げる。
そこには、びしょ濡れの桂ちゃんが立っていた。髪は濡れ、額に貼りついている。水滴が首筋をつたって落ち、シャツの襟元に染みていた。顔は蒼白で、でも息は荒く、きっとここまで全力で走ってきたに違いない。
「……へ?」
唖然としたまま見つめるセラに、桂ちゃんはしゃがみ込んで、その額に手を当てる。セラの体はひどく熱く、それでいて芯から冷えていた。
「やっぱりな。にしても、足早えな……」
「……体力、なくなったんじゃない? サッカー部、辞めたから」
皮肉を返すセラに、桂ちゃんは照れたように笑った。その笑い声は、雨音の向こう側で、わずかに震えていた。
「はは、そうだな」
しばしの沈黙。
鉄橋の奥で列車が通り過ぎていく音が聞こえる。二人は並んで座っていた。湿った風が、どこか甘く錆びた匂いを運んでくる。鉄橋の上を、ゴウン、ゴウンと唸りながら通り過ぎていく。
セラの濡れた睫毛が震え、かすかに首を傾けると、桂ちゃんの顔が近くにあった。雨に濡れた睫毛の間から、真っ直ぐな瞳が覗いていた。
「その衣装、セラが作ったのか?」
「まぁ……母さんにも少し手伝ってもらったけど」
「すごいじゃん。やっぱ器用だな、セラって」
セラは、ううん、と小さく首を振った。
「……やりたかっただけ。綺麗になって、見てもらいたかっただけ……桂ちゃんに」
その言葉に、桂ちゃんは少しだけ目を見開いた。そして、静かに問い返す。
「セラは、俺に見られたかったの?」
「……うん」
視線を逸らさずに、答える。その瞳には、ひとつも嘘がなかった。泥にまみれ、破れたドレスをまとい、傷ついた唇を震わせながらも、セラは真正面から彼を見ていた。
桂ちゃんの喉が、ごくりと鳴る。そして、ゆっくりと手を伸ばした。
「──ねぇ、今の僕、可愛い?」
セラは、食い気味にそう言った。睫毛は濡れ、瞳は揺れていた。
「今のセラ、めちゃくちゃ……ボロボロだよ。泥だらけで、血だらけで、アザだらけ。正直、どう見てもプリンセスって感じじゃない」
「わかってるよ、そんなの……」
「でも、可愛い。すっごく可愛いよ、セラ」
その声はセラにとって開放の音色だった。セラは、堪えきれず、声をあげて泣いた。小さな子供のように。泣いて、泣いて、泣いた。
桂ちゃんは黙って、その細い身体を抱きしめた。壊れ物を包み込むように、優しく。肩が濡れたシャツに触れて、震えが伝わる。
「あの脚本、やっぱセラが書いただろ?」
「うん、結局ね……」
「やっぱりな。あのシンデレラ、セラにそっくりや」
その瞬間、セラの表情がふわりと和らいだ。まるで、ぴったりのガラスの靴を渡された時の、物語のヒロインのように。セラは小さく頷いた。
そして──
「桂ちゃん、大好き。……僕と、キスして」
「いいよ。おれは王子役だからね」
静かに唇が重なる。泥の匂い、血の味。けれど、それら全てを溶かしてくれるような温もりが、唇から伝わってきた。
ふたりの周囲だけ、時間が止まったようだった。鉄橋の隙間から光が差し込む。灰色の雲の間から、夏の光が、斜めに射していた。舞台のスポットライトみたいに、セラの横顔を照らしていた。
彼がそっと手を伸ばす。セラもまた、体を傾けた。抱き合って、唇を重ねる。泥と雨の匂い。痛みの残る肌。それでも、今だけは確かだった。
「大好き……」
セラは知っていた。
本当は桂ちゃんが、浮気を繰り返していることも。紫乃との距離ができたのも、桂ちゃんのせいだってことも。色々な女の子に取っ替え引っ替え、部活でも問題を起こしてキャプテンだったのに退部になったことも。
そして今、こうして優しくしてくれているのも、自分が女の子みたいに可愛いから──それだけだってことも、全部知っていた。
でも、それでもよかった。未来なんて、見えなくてもよかった。今この瞬間、ただ幸せだったから。今この場所に、桂ちゃんがいて、自分のことを「可愛い」と言ってくれる。それだけで、心がほどけていくようだった。
「おし、晴れた」
「うん……帰ろっか」
桂ちゃんは立ち上がって、先を歩く。そして、少し振り返り、セラに微笑みかけた。気づけば二人は初夏の光に照らされていた。眩いほどの青春の色……
「何があっても、セラは一生、おれが守るから」
──そんなの、嘘に決まってる。
持って数ヶ月の誓い。新しい可愛いを見つければきっと忘れられる。でも……それでも、いい。
だって、もうすぐ毛は濃くなるし、体つきだって変わっていく。「女の子みたいな僕」は、今だけしかいないんだから。
セラは笑った。泣きながら、でも確かに笑っていた。セラは桂ちゃんに抱きついて言った。
「……はいっ! 一生守ってね! 桂ちゃん!」
天使セラ 小早川葉介/五面楚歌 @xxxxxxxxxx
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