天使セラ

小早川葉介/五面楚歌

第1話 梅雨空の脚本会議



 昨日は雨が降って、僕の目は朝から赤い。だから、机にぺたっと頬をつけて誰もいない窓の方を向く。たくさん、山、山、山……多い……そして地味。ここ凍澄にもトーキョーと同じく冬が来た。


 窓にはたくさんの結露、粒と粒が集まって、時折涙のようにつるっと落ちていく。風が吹くと建付けの悪い窓はカタカタ音を鳴らして大号泣。


 ぬぼーっとしたチャイムと暖房でぽかぽかな空気は、おじいちゃんの腕の中みたいな、柔らかさがある。


 目を閉じると、ぐぅと引っ張られるみたいに固定される。眠気、疲れ、そしてカナシミ……チクタクと教室の時計はずっと回り続けている──





 しとしとと、細い雨が窓に糸を描いている。梅雨の午後、校舎の一番奥にある空き教室。壁際のガラス窓にはうっすらと水滴が滲み、曇ったガラス越しに見える校庭の緑が、どこか滲んで夢の中の景色のようだった。


 教室の中では、古びた机を三つ寄せて、セラと桂一郎と紫乃が座っている。机の上にはコピー用紙に印刷された脚本と、ペン、飲みかけの紙パックの紅茶。室内は扇風機の生ぬるい風が回っているだけで、蒸し暑さに三人とも少しけだるげだった。


「まぁ、良いんじゃない?」


 紫乃が脚本のページをパタンと伏せて、首を傾げた。濡れたような黒髪をかきあげながら、気だるそうに背もたれに体を預ける。


「セラ、こういうの書くの、やっぱ上手いね」


 隣の桂一郎はセラに笑いかけた。サラリと切り揃えられた髪は、汗で濡れていてもどこか涼しげだった。釣り目がちな目元も、笑うと幼気な印象になる。「昔から才能あると思ってたよ、俺」


「ほんと! ありがとう、桂ちゃん」


 セラは嬉しそうに目を細めた。柔らかな黒髪が頬にかかり、その向こうのまつ毛が微かに揺れる。彼の声は少し高くて透明で、硝子細工のような繊細さだった。


「でもさぁ、王子様のセリフ、ちょっとキザ過ぎない? 演じるのこいつなんだよ?」


 紫乃が横目で桂一郎を見ながら口を尖らせる。


「大丈夫だよ、桂ちゃん、カッコイイから」


 セラはくすっと笑いながら、視線を桂ちゃんに送る。冗談めいているけれど、その眼差しには憧れのような光があった。


 紫乃は一瞬、何か言いかけたが、それを飲み込むように視線を逸らした。


「手伝ってくれてありがとね」


「いいってことよ。部活、今ヒマだし」


 桂ちゃんは肩をすくめて笑った。桂一郎、桂ちゃんの声はいつも通り落ち着いていて、セラを安心させる響きがある。


「そういえばサッカー部、いつまで休みなの? 大熊も知らないって言ってたよ」と紫乃が言った。


 桂ちゃんは、嫌なことを思い出したようにうんざりした表情になると、こめかみに手を当てた。


「うーん……伊藤先生の機嫌次第やなぁ……」


「伊藤先生ね……」


 紫乃はあの筋骨隆々とした伊藤先生の激高した姿を想像しているようだった。あれは確かに相当時間がかかるだろうとセラも思った。


「……ま、今月中はムリかなぁ」


 桂ちゃんの言葉には、どこか諦めの色が混じっていた。サッカー部は少し前に問題を起こして、活動停止になっていたのだ。


 そのとき、教室の扉がコンコンと控えめにノックされた。扉の隙間から覗いたのは、演劇部の美奈子だった。


「どしたの、美奈子」


「紫乃、ちょっと小道具のことで相談が……」


 眼鏡でお下げの美奈子と呼ばれた女子生徒は、眼鏡を曇らせ、シワシワになった予算表のコピーを持っていた。


「ああ、ごめん。ちょっと行ってくる」


 紫乃は立ち上がり、椅子をきしませて教室を出て行った。パタパタとサンダルのような靴の音が廊下に消える。桂ちゃんは、「大変やなぁ……」と呟きながら見送った。どうやら、また今回も予算との戦いになるようだ。


 一転して教室には二人きりの空気が残された。しんとした空き教室には、雨のぽつぽつとした音だけが響く。


「演劇部、紫乃とうまくやってる?」


「うん。脚本とか、小道具とか……最近は色々任されてるんだ」


 セラは少し照れたように微笑んだ。前髪を指で梳きながら、脚本に視線を落とす。その瞳はほんのりと光を湛えていた。初めて脚本を担当させて貰えたこと、そして桂ちゃんと一緒にできること、セラにとってそれはとても嬉しいことだった。


「……そっか。セラ、昔から絵とか好きだったもんな。小学校のとき、図工の時間で妙に本気出してたり……」


 桂ちゃんは懐かしそうに目を細めた。セラは少しだけ笑ってうなずいた。


「引き受けてくれて、ありがとね」


「おう。ただ、まさか主役級とはな……」


 桂ちゃんの役は王子様。セラが言い出すまでも無く、自然と決まったことだった。


「うちの演劇部、華がないから……」


 セラは苦笑して、小さく肩をすくめた。窓の外では、少し雨脚が強くなっていた。


 ふと、桂ちゃんの目が脚本に落ちる。そしてぽつりと呟いた。


「このお姫様さ……」


「ん……?」


「なんか、セラみたいだ」


 桂ちゃんはニッと笑いかけてきた。


 その言葉を聞いた瞬間、セラの胸はきゅうっと音を立てて縮まった気がした。セラは顔が熱くなって、慌てて目を逸らした。机の脚がカタンと鳴る。


「………い、いや違うよ……僕は魔法使い役……紫乃に決めてもらった」


「おう、そっか」


 そのとき、がらがらがらと扉が空いて、ちょうど紫乃が戻ってきた。


「……どうしたの、ふたり?」


 紫乃は訝しげな目で両者を見た。気まずげな空気の流れる二人を見て不思議に思ったようだった。


「な、何でもないよ!」


 セラは慌てて立ち上がる。少しうわずった声が教室に響いた。


「……まぁ、いいけど。じゃあ、今日はこれで解散ね。あんたもありがと。私はまだちょっとやることあるから」


「おう、またな。おし、セラ帰るか」



 セラと桂一郎は、二人並んで校門へ向かって歩き出した。傘を持っていなかったから、セラは桂ちゃんと渋々相合傘をした。二人とも、制服の肩にポツポツと雨粒を受けながら歩いた。


「ねぇあそこ、憶えてる? 小学校の帰りに、雨宿りした神社」


「あー、懐かしいな……確かあの時も梅雨だったっけな……今回はセラが傘を持ってて助かったわ」


「桂ちゃんは成長してないね」


「そう言うな」


 どこかぎこちなさはありつつも、二人は思い出話に花を咲かせた。こうして二人で下校するのは中学校に入ってからは多分四回目くらいだ。久しぶりの会話で昔話が捗った。


「まぁ、僕の方が成長してないか……」


 セラは自身のまだまだ小さい体を見渡して自嘲した。


「はは確かに」


 そう笑う桂ちゃんは、セラよりもうんと大きく成長していた。当時はまだ頭一つ分くらいの差だったけれど、今は背丈だけを見ればまるで親子のようだった。


「……」


 静かな山に囲まれる小さな街の見慣れた道を、二人は懐かしみながら帰った。雨で指先が少し冷えながらも、セラの胸は段々と熱くなっていた。


 だが、校門を出てから五、六分の土手のあたりで、どたどたと走ってくる足音が背後から迫った。


「──榊!」


「あ、なんや大熊」


 振り向くと、大熊が息を切らせて立っていた。大熊は、体格のいいサッカー部のキーパーをやっている男だ。制服の胸元が濡れて、髪も濡れて、少し苛立った表情だった。


「……伊藤先生が呼んでる!」


 はぁはぁと息をつくと「早くしないとまずそうや」と付け足した。どうやら、部活停止の原因に発展があったらしい。


「……マジか、わかった。ごめん、セラ。ちょっと戻るわ。また明日な」


 桂ちゃんは苦笑いしながら傘をセラに手渡すと、肩に軽く手を置き、踵を返して走り出した。


 その背中を、セラは黙って見送った。濡れたアスファルトに消えていく足音。雨の匂い。残された空気のなかで、セラはそっと足元を見つめた……まぁ桂ちゃんはキャプテンだからしょうがない……



 紫乃と桂ちゃん、そして自分──幼馴染だった三人の距離が、少しずつ変わっていくのを、セラは肌で感じていた。二人はどんどんと成長してくのに、自分は昔のまま。


 そんな小さな寂しさを、誰にも言葉にできないまま、セラは静かに一人傘を差した。傘の手元には、桂ちゃんの手のひらの熱がまだ残っていた。

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