トイレでの出来事

不悪院

ある男の話

 俺には潔癖症の気がある。特に大便の後はそうだ。

 拭き取った紙に寸分の汚れもなくなるまで、何度も確認しなければ気が済まない。それは、もはや一種の儀式だった。


 その日も、会社の清潔な個室でいつもの儀式を執り行っていた。

 腹のものを全て出し切り、入念に拭き取る。仕上げに真っ白なトイレットペーパーを折り畳み、最後の一拭き。

 よし、完璧だ。確認のため、その紙片を目の前にかざす。汚れはない。合格だ。


 安堵のため息をつこうとした、その瞬間。紙の表面を走る、一本の黒い筋が目に入った。


 なんだ?


 糸くずかと思ったそれは照明の光を鈍く反射している。まるで濡れたような艶を帯びた、長い一本の髪の毛だった。

 俺は短髪だ。こんな長い髪は俺のものであるはずがない。清掃の際に残っていたものか?


 じっと見つめていると、ある違和感に気づく。

 髪は、紙の表面に乗っているだけではなかった。折り畳まれた紙の、その内側から伸びているように見える。


 まさか。


 指先が微かに震えるのを自覚しながら、恐る恐る紙を開いた。


 その瞬間、俺は息を呑んだ。


 一本では、なかった。


 開かれた紙の内側には、おびただしい数の黒髪が、まるで生き物の巣のようにぐちゃぐちゃに絡みついていたのだ。

 ぬめりを帯びたそれは、俺の手の湿気のせいか蠢いているようにさえ見える。


 ぞわり、と全身の皮膚が粟立った。ここは鍵のかかった個室だ。一体、誰の髪だというのか。

 俺が尻を拭いた、まさにその瞬間に便器の暗い水底から何者かの手が伸び、その髪をなすりつけたとでもいうのか?


 いや、違う。

 脳裏に、それよりも遥かに冒涜的で、おぞましい可能性が浮かび上がる。


 もし、これが。


 俺の身体の中から出てきたものだとしたら?


「あ……」


 声にならない呻きが漏れる。俺は紙片を便器に叩きつけ、洗浄レバーを蹴るように押した。

 渦を巻く水に飲み込まれ、黒い塊が水底へと消えていく。


 だが、恐怖は消えない。


 俺は立ち尽くしたまま、自らの腹に手を当てた。

 この奥深く、暗く淀んだ腸の中で、今も「誰か」が黒く艶やかな髪を伸ばし続けているのではないか。そんな想像が、腹の底から這い上がってくる。


 その日を境に、俺の儀式は変わった。

 汚れを確認するのではない。


 そこに「髪の毛がないか」を確認するために、俺は今日もトイレの個室に篭っている。

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