口咲女
飯田太朗
前編
「ほう、口裂け女とは、またレトロな」
東京都町田市。行きつけのバー、「Polaris」にて。
高校時代から親しくしていた
「わたし、きれい?」
夕暮れ、ないしは夜。放課後とのパターンもある。
赤い服を着た女性にそう訊かれるのだそうだ。口元はマスクで覆われている(時代背景的におそらく不織布ではない)。なので綺麗もへったくれもないのだが、そこは日本人。「お綺麗ですね」とおべっかを使おうものなら、次の災難が待っている。
「これでもぉ?」
女は口を覆っていたマスクを外す。と、そこには、耳元までパックリと裂けた口が覗いていて……。
その後の展開は色々ある。
・食べられる
・鎌や鋏などで切り付けられる
・上記のバリエーションとして、得物で切り付けられ口裂け女と同じ口にさせられる
・口を針と糸で縫い付けられる
・追いかけ回される
最後のが一番マシだ、と思われるかもしれないが、口裂け女は健脚で、百メートル六秒を切るらしい。そんなのに追い回される……なんて展開より先に、すぐに捕まえられて、上記のいずれかの目に遭うのだろう。
さて、園山先輩が僕に持ちかけた話というのがその口裂け女の話だった。先輩は、酒が回って赤くなった顔を幸せそうに綻ばせながらこう続けた。
「俺が名古屋で働いていた時のことなんだけどさ」
バーテンが僕たちの会話を静かに聞いていた。
「職場の先輩の実家が農家だとかで、収穫を手伝ってくれたら野菜を配ってくれるって言うから手伝いに行ったんだよ。で、その日は先輩の実家でアホほど飲んだんだけどさ。その実家っていうのが岐阜県で」
「ほお」
岐阜県は意外にも怪異が多い。
理由の一つに、その「中心性」が挙げられるだろう。京都や奈良に都があった時代にしても、鎌倉や江戸に幕府があった時代にしても、岐阜県含め美濃や飛騨の辺りはちょうど「国の影響力が弱まり始める」「国政の中心地から近過ぎず遠過ぎない距離の」土地になる。国の中心に程よく近いが故に力を持ちやすく、また国の中心から程よく遠いために国の影響力を受けにくいこの地には、反政府的な勢力がよく育つ。昔の人たちは、そうした「国に祀ろわぬ」人たちを怪異に例えた。土蜘蛛、鬼、両面宿儺。そうした伝承上の存在の根源には様々なものが挙げられるが、その筆頭が「反政府組織」である。山賊、海賊、盗賊、そうした賊の例えが怪異なのである。
すなわち、賊が発生しやすく武力的勢力の生まれやすいこの「日本の地理的中心地」には必然怪異も発生しやすく……といった理屈である。
一方で、この一帯は安土桃山時代には国力の中心となっている。戦乱の世、たくさんの人が死に、血の流れたこの時代には幽霊や妖怪の類も生まれやすい。さらに交易の盛んだった時代だ、各地の伝承も集まってくる。
総じて、国政から程よく離れ、そして一時期は栄華を極めた土地だからこそ、特異な怪異が生まれたり、全国から伝承が集まったりと、特有の怪談奇談文化が目覚めた土地、それが美濃や飛騨の地、岐阜県、というわけである。
さて、園山先輩が語り出した「口裂け女」もそんな岐阜県発祥の怪異である。
「独身時代だったしさぁ、食糧もらえるの嬉しいじゃん? ウキウキで遊びに行ったら昼過ぎに大雨でさ。この際だからってことで先輩の実家に一晩泊まることになったんだよ。あの辺の人たち木曽川に対する畏怖がやばくてさー。雨=木曽川危ないなんだよな。何でも昔大災害があったとかで。そういうわけもあって先輩の実家に泊まっていけって強く言われて、雨でやることもなくなったから昼の三時から馬鹿みたいに酒飲んでたんだけどさ」
酒に酔った先輩は一度話し始めると止まらないタイプだ。だからこそ、この貴重な一呼吸の間に僕は愛飲のブルックラディを一口飲んだ。グラスの中で、ロックアイスが興味深げにカラリと鳴った。
「夜中の十時くらいかなー。もう七、八時間ぶっ通しで飲んでるからフラフラで。楽しくなってるからもう馬鹿騒ぎ、まぁ、先輩んちのお母さんには相当迷惑かけたんだけどさ、お父さんの方はノリノリで、家の奥から『秘伝の酒やで、ぎょうさん飲みんさい』なんてやばそうな酒持ち出してよ。お猪口で飲めばいいのに湯呑みでガブガブ飲んで、ベロベロで、で、先輩が思い出したように『煙草吸ってくるわ』なんて。もうニコチンなんてとっくのとうに抜けてるだろうに、ちょっとばっか煙草吸いに、家の玄関先で吸い始めたんだよ」
カラリ。僕はまだ一口。
「何でだったか忘れたけど、俺も一緒になって外に出てさ。煙草吸うわけじゃなかったんだけど、何となく先輩んちの玄関から門の方の、その先の道路見てたわけ。あ、先輩んち大垣市なんだけどさ、大垣って飛地になってんのよ。陸続きじゃねーの。片方は都会なんだけどもう片方は山ん中でさ。先輩んちは山の方にある家だったんだけど、もう夜になると暗くて暗くて。家の明かりの範囲しか見えない、本当に『一寸先は闇』くらいだったんだけど」
先輩が再び間を作った。僕は知っている。おしゃべり好きな先輩がこういう風にクッションを置く時は、決まって話の山場が来る時だと。
「真っ暗な中に赤いものが見えてさ」
この時僕の腹のうちをなぞったものを……
「女が立っていたんだよ。赤い傘さした、赤い服のさ。背が高くて……百八十くらいありそうだった。だから最初は男か? なんて思ったんだけど、体の線が女なんだよ。出るところ出てるし、髪長いし。いや、女装の線は捨てきれないけど、でも……」
「でも?」
僕は聞きたかった。
先輩がその赤い存在……推定身長百八十はある、長髪の、赤い服に赤い傘をさした人間の正体を女だと断定したその根拠を。
先輩は続けた。
「マスクしてたんだよ」
*
さて、園山先輩が口裂け女を思い出した理由については察しがついたと思う。
赤い服装の女。大柄な、マスクをした女性。僕たちが子供の頃に親しんだ(親しんだ?)あの口裂け女を彷彿とさせるではないか。
……自己紹介を忘れていたな。
僕の名前は飯田太朗。推理小説『
「興味持った顔だな」
園山先輩はPolarisで笑った。
「行くか」
その言葉に、僕の中の「男の子」が疼く。
いつでもそうだ。園山先輩は「乗せる」のが上手い。男の探検心を、少年の冒険心を、男の子の好奇心を、刺激するのが、本当に上手い。
「岐阜県、行こうぜ」
「本気ですか?」
「後輩の気持ちを無碍にはしない先輩なんだ俺は」
「奥さんとお子さんはいいんですか?」
僕がそう訊くと先輩は笑った。
「連れていく」
「え?」
「連れていく。ちょうど夏休みだしな。自由研究に民俗学。面白そうじゃねぇか」
そして、そう。
感性も、考えることも、変わっている。
*
そういうわけで、岐阜県大垣市にやってきた。先輩が「赤い女」に遭遇したという大垣市の山の方。上石津町の一角だった。
大きな公園の傍にある、ちょっとした宿泊所のようなところに宿をとった。何でも園山先輩の奥さんはこのやや古めかしい施設に泊まることに反対したらしいが、子供たちが食いついたそうだ。まぁ、確かに至るところにボロが出ていて、どちらかと言うと合宿所のような、綺麗なホテルには及ばない施設だったが、これはこれで味があっていいのではなかろうか。少なくとも町内会の子供キャンプにはおあつらえ向きの建物だ。
なんて思っていると、都会の方から来たらしい子供の軍団も泊まっていた。やいややいやと騒がしいが、みんな楽しそうだ。非日常を満喫しているのに違いない。
宿泊所はどうやらその子供たちの団体と僕たち家族(僕は家族ではないが)だけのようだった。元々部屋数もそこまで多くないらしい。
さて、僕が探している口裂け女の伝承だが、まぁこういう時はとにもかくにも自治体の図書館に当たるかその共同体の最長老に訊くのが一番だ。しかし後者の方は伝手がない。なので図書館を目指した。車に乗ってしばらく北上したところ、小さな公民館のような、小学校の一校舎のような建物があり、どうやらそこが図書館らしかった。
郷土資料や、民俗学のコーナーに当たったがそれらしい情報は見つからず。仕方なく司書さんに訊ねた。すると白髪混じりの女性職員が、図書館入口の方を指さしながら話してくれた。
「
とのことだった。
小原さん。調べてみると、かつての大垣藩主の
何でも小原家の家長である
上石津町の中でもダントツに大きいおうちですよ。
司書さんの言うとおり、Googleマップの案内に従った僕の車はめちゃくちゃに大きい日本屋敷の前に着いた。門前のインターホンに「飯田太朗です」と告げると、しばらくしてステテコ姿の老人が姿を現した。
「あなたが飯田太朗さんですか」
「はい」僕は素直に頷いた。
「お待ちしておりましたよ。旦那様は奥です」
老人に導かれるまま、屋敷の奥へと向かう。多分この人は家令か、あるいはそれなりの立場にある召使の一人なのだろう。家屋への入り方に、妙に堂々とした風格があった。
屋敷の中を歩く。途中、様々なものを見た。
廊下の一角が床の間のようになっていた。そこに黒髭の面を被った人形が、仰々しい甲冑を身に纏って鎮座していた。かと思えば、壁に鹿の首の剥製が並んでいたり……巨大な魚の魚拓が飾られたりしていた。中でも一番驚いたのは猿の剥製だ。ほぼ人間の身長くらい……推定百六十くらいの身の丈の猿が、流木のような無骨な木から身を乗り出して歯を剥いている。目玉は爛々と輝いており、木の枝を握る指は爪が立てられていて……。
「なかなかでしょう」
老人が笑った。
「昔この辺の山を支配していた猿の親分を、当時の小原家の当主が仕留めて剥製にしたものです。口の辺りがね、すごいでしょ」
ガラスの箱に入った猿。老人はそれを指でぐるぐると示す。
「小原家はこの辺り一の名士ですからな。その力を示すものです」
「すごいですね」
まぁ、実際すごい。すごいというか凄まじい。
「旦那様はこの奥です」
老人はそう、廊下の曲がり角、その先を示した。
「七間ほど続く畳の間の、最奥にある書斎が旦那様の仕事部屋でして」
老人はペコリと頭を下げる。
「この先はわたくしども入れませんで。どうかお一人でお向かいください」
「ありがとうございます」
僕はここまで連れてきてくれた礼を言った。にしても不思議だ、家の者でも不可侵な領域があるとは。由緒正しさ故、なのだろうか。
老人の言った通り、行く先には畳の間が七間あった。いずれも十〜十二畳くらいはありそうな広さだ。それが七間。僕はあまりの広大さに舌を巻きながら歩いた。
やがて、長い廊下の先にそれはあった。襖。どうやらこれが書斎らしい。
軽く、ノックする。ボンボン、と弛んだ音がした。
「どうぞ」
低くて、腹の底に響くような声。
僕は襖を開けた。その先、まず目に入ったのは書架だった。
両側の壁に詰め込むようにして大きな本棚が嵌っている。広さは十畳くらい……だろうか。本棚に誤魔化されて小さく見えるだろうから、実際はもっとあるのかもしれない。部屋の向こう側、窓際に文机。そこに座り、こちらに背を向けている男性がいた。その背後、僕の目の前には紫色の座布団があった。
「飯田太朗さん」
男は振り向き様にそうつぶやいた。男の、鋭く切り込まれたような目が僕の方を向いた。
「読んでいますよ。『幸田一路は認めない』」
と、彼の手にあったのは。
紛れもなく、『幸田一路は認めない』の第一巻だった。
「この度は口裂け女について聞きたいと伺っておりますが」
「そうなのです」
僕は鞄からノートを取り出した。愛用の、モレスキン。
「いきなり本題というのもあれですが……」
「そうですね、まずは腰を落ち着けてください」
紳士は、僕の目の前にあった座布団を示した。よく見るとこの男、爬虫類のような冷たい顔をしていた。
「失礼」
僕は腰を下ろした。
「口裂け女についてですね」
小原真陣氏は言葉短く告げた。
「確かに、この大垣市が発端という説はあります。曰く」
小原氏は続けた。
「『とある家に気違い女が生まれた。幼い頃から座敷牢に匿われたその女は化粧に異常なまでの関心を見せた。ある日、女が脱走した。女は道ゆく女のうちの一人を捕まえて殺した。大騒ぎの末捕まえられた女は、口紅をべったり口の周り、果ては耳元まで塗りたくり、町外れの寂れた小屋の中、ケタケタと笑っていた』……要約ですが、だいたいこのようなことが伝わっています」
「なるほど」
耳まで裂けた口。その実態は、耳元まで真っ赤に塗った精神疾患者の女。そういうことらしい。
「ところがですね」
しかし、小原真陣氏は続けた。
「その伝承は一九七〇年頃から伝わる話なのですが、それより古く、平安時代から、伝わる話がございまして」
……平安時代? そのあまりの古さに僕は仰天した。近代になってから広まった都市伝説に、そんな古くからの謂れが? 僕はペンを握る手に力を入れた。
「『
口咲女。口裂け女とは一字違いだ。
「この地方には、女の気違いを殺す風習がございまして」
歪んだ性文化。これは日本各地どこにでもある。
例えば生理の時期に女の存在を避ける風習が挙げられる。古く、生理は「不浄」とされており、この期間の女は特別な部屋に監禁されたり、土間で生活させられたり、特定のものを食べさせなかったり、田畑や海山への侵入を禁じたりする文化が各地にあった。小原氏が今口にした「精神疾患の女を殺す」という風習も、あるいはそうした文化の発展系なのかもしれない。
「殺し方に特徴がございます。何ヶ月も飲ませず食わせず飢えさせた後に、彼岸花を咥えさせるのです」
彼岸花。花、茎、根、全てに毒がある毒草だ。こんなものを咥えようものなら、必然……。
「赤い花……細い花びらのすっと大きく伸びた花を咥えさせられたその口は、まるで耳元まで口が裂けたように見えるのでございます。口に花が咲くから口咲女、と、いつからか呼ばれるようになったそうです」
なるほど。僕は頷く。
「口裂け女、の元の姿は、もしかしたらこうしたものかと」
面白い。これだから。
僕は丁寧にメモをとった。それからも小原氏との対話は続いた。
*
「おじちゃーん!」
園山先輩のお子さん、
「何だ何だ」
僕は奨真くんを抱き上げた。そのまま脇の下をくすぐると、子供は「ひゃはは」と身悶えた。
「おじちゃん今日はどこ行ってたの?」
「んー? 口裂け女を調べてたのさ」
「口裂け女ー?」
まぁ、今の子は知らないよな。もうはるか昔の怪異だ。
僕は昔から伝わる口裂け女の話を奨真くんに話して聞かせた。最初、興味深そうに聞いていた彼はやがて恐怖に顔を歪めると、それから「わーっ」と叫んで畳に敷かれた布団に飛び込んだ。
「コラコラ奨真」
園山先輩が嗜める。
「暴れるな」
「すみません」
園山さんの奥さんが頭を下げる。
「暴れん坊で」
「奨真に比べたら
園山さんは浴衣の懐から手を伸ばすと顎に触れた。
「あいつどこに行った」
「お父さーん」
と、弦真くんの声がした。彼の声は窓際の、あのどこの旅館にもある不思議な座敷のような場所から聞こえており、どうも彼はカーテンに身を
ここは二階だった。窓の外には、宿泊所が背にする小さな山が見える。二階から見て目線の高さだから、地面からするとやや高い場所にちょっとした池があり、蛙の鳴き声がメケメケと聞こえてきて……。
「あれなぁにぃ?」
弦真くんが示す先。
池の畔に。
赤い花があった。ちょうど昼間にその話をしていたからだろうか。僕はその花が彼岸花だとすぐに分かった。そして同時に、胸の中を嫌な予感が……針だらけの小さな玉を飲んだようなビリビリとした嫌な予感が、駆け抜けていくのを感じた。僕は目を凝らした。
「ひっ」
園山さんの奥さんが、まず悲鳴を上げた。
続いて園山さんも「うおっ」と声を上げた。異常はその視線の先にあった。弦真くんは状況を理解していないのか、あるいはしているからこそなのか、お母さんの足元に抱きつくようにしてつかまっていた。
僕は注視していた。宿泊所の裏山、その麓の池に咲いた、彼岸花の根元を。
茎を咥える、女の赤い唇を。
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