波の下へと

濡れ鼠

波の下へと

「消えてほしいの、全部」

彼女の言葉を、波がさらっていった。水平線に触れて溶け出した太陽が、雲の縁を菖蒲あやめ色に染め上げる。僕をじっと見つめる彼女の瞳に、何度も押し寄せる波が映し出される。テトラポットにぶつかって溢れた泡沫が、彼女の瞳を曇らせる。時折高く飛び散ったしぶきが、僕らの手足を濡らす。

砲声が途絶える。山の稜線が、スカーレットに色付いていく。生ぬるい風に乗って、焦げ付くような臭いが、僕の鼻腔に流れ込む。

「どうしてこうなっちゃったんだろうね」

砲声が再び轟く。幾度となく空気が震えて、大地が悲鳴を上げる。彼女は背中を丸め、指先を水に浸す。彼女の手の中に掬い上げられた海が、青から黒へと沈んでいく、空のグラデーションを映していた。

「綺麗でしょう」

彼女が僕の前に手を差し出すと、指の間から水がこぼれ落ちた。彼女が何度も何度も水を掬って、僕に見せてくれる。沖からの風が、焼け付いた山風を押し戻す。彼女の髪が風の中で踊る。

僕らは夢中になって、黒ずんでいく海から、青や紫を引き出そうとする。海がだいぶ盛り上がって、彼女のワンピースの裾が水面で揺れる。砲声は止んでいて、波の音の合間に、姿の見えない水鳥が声を枯らして鳴いていた。山の輪郭は空と混じって、山肌のスカーレットが、少しずつこちらに手を伸ばしてくる。

「どこに行くのかな」

彼女の視線の先を、軍用トラックが列をなして走り去っていく。やけに黄色いヘッドライトが、車体の軋む音に合わせて揺らめいた。カタピラが砂ぼこりを巻き上げて後を追う。

海面が僕らの身体を抱き上げて、潮の香りが僕の鼻先をかすめる。僕がゆっくりと腕で水を掻くと、彼女は追ってきた。わずかに顔をのぞかせた月が、彼女の白い腕から滴る雫をきらめかせる。

「波の下には、お城があるって本当?」

彼女が歌うように囁く。

「ねえ、連れてって」

彼女の指先が僕の背に触れる。波間に揺蕩たゆたう僕らの身体を、大きなうねりが包みこんでいく。月が隠れ、色を失った水面に、彼女の髪が広がって消えた。

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波の下へと 濡れ鼠 @brownrat

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