ヘアアイロンでカニバリズム
@miri-li
第1話 『気のおけない人』
二十三時の繁華街。
ネオンが喧しく、暗黒を彷徨うはずの人々を照らす。酒と煙草と生ゴミと――とにかくこの世のイヤな想いが集まるこの場所を、雨の匂いが包み込んでいく。
水しぶきを立てながら疾走するケンは、何だかボーっとしているようで、慌てているようであった。しかし、時折脇腹が刺されたかのように痛み、現実に引き戻される。
とにかく、逃げなくては――いっそのこと――
ケンの視界は狭まるばかりなのに、脳裏の悲鳴は止むのを知らないどころか、大きくなっていく。母親の耳裏の切り込みからどくどくと流れた鮮血が、やがて自身の腕まで伝ってくる。血まみれの右手をグーパーしても、消えるどころか広がっていく。そんな強烈な幻覚に支配される。
振り払おうと、頭を振っても離れない。母親の化物を見たような目が、ずっと頭上から見物してくるような錯覚に陥る。
ふと、額に何かがぶつかった。
ケンは水たまりに尻もちをついた。
電柱にでもぶつかったか?煩わしい頭をストップするのに相応しい衝撃だ。
見上げると、そこには死にゆくような顔をした女が立っていた。鼻に来るほどの甘い香りを保ちながらも、死臭を連想させるような、黒塗りの表情。厚塗りの化粧と、傷んでいるが華やかな金髪。そして死神のような真っ黒な傘をさしている。
死神が迎えに来てくれたんだ。ケンは全身から力を抜き、女が鎌を振りかざしてくれるのを待つ。もう何もかも懲り懲りなケンにとって運命のような出会いだった。
「―――あんた……」
女は言葉を続けずに焼けた喉でそう言った。女はケンの瞳に冷たく標準を合わせた。
一瞬で背筋が凍った。防衛反応が加速しようとするも、体に力が入らない。彼女は死神なんて優しいものじゃない。死神に狩られる側だ。
怖くて逃げようとした。しかし足に力が入らないほどに、女に影踏みされていた。
女はケンを一瞥する。
ペラッペラのTシャツにズタボロのジーパンとクロックス。顔はひどい表情をしながらも目鼻立ちがはっきりしている。
何を思ったことか、女はしゃがみ込み傘を差し出した。もう既にビチョ濡れの人間に傘なんかさして何になるのか。
しゃがんだ女は、一気にこじんまりとした。目が三日月形になって、女の表情が緩んで、まるで我が子を見つけたかのようになった。地面から跳ね返った雨粒が無慈悲にスカートを濡らす。
ケンの凍った背筋がみるみる溶け出した。冷たい女と温かい女。切り替えが凄まじかった。どちらが本物か分からないはずなのに、ケンは眼の前の温かい方が本物だと思った。
「あんた、大丈夫――じゃないよね?」
女は濡れて額に張り付いたケンの前髪をかきあげてやった。ケンは避けようとしなかったどころか、目を瞑って体を任せた。額なんて、誰にも見せたくなかったのに。額にはやけどとあざが混在していた。
女は自身の額も撫でた。ファンデーションやらコンシーラーで隠しても、ボコボコしてる。
「そう、かも――」
自然と、口から出た心からの言葉。ケンは慌てて口を塞いだ。
女はケンの手を王子様のように優しく持った。女の手は意外にも豆があって、乾燥していて、今まで握ってきた誰の手よりも冷たい。
「付いて、来る?」
女はケンとまっすぐ向き合った。ケンは瞳をそらさず、手をしっかりと握りしめた。どうせ行くあてなんてないんだ。この女にかけてみるのも悪くはない。
◇◇◇
そのまま二人が到着したのは、薄汚れたいかにもなアパート。
「入って――」
これが出会って三回目の女の呼びかけ。
繁華街からここに来るまで、女もケンも一切口を開かなかった。その代わりに、手をずっと握っていた。まるで兄弟のように。とても心地よい時間だった。女の手は、ケンのお陰で少し熱を帯びた。
入ってすぐ感じたのは、古臭さ。カビやら生ゴミやら――建物の古さと住人の掃除を忌み嫌う姿勢がうかがえる。玄関の左右には、テレビでよく見るようなThe汚部屋のゴミ袋が敷き詰められている。まあケンの実家と大して変わらないので気にすることもないが。
しかし足元を黒い物体が横切ると、そうも言っていられない。ケンはこれだけは無理なんだ。ケンが後戻りしようとするも、背後には女がいた。女は少しため息を付くとゴキブリをヒールで踏んづけて絶命させ、そのままゴミ箱の中に突っ込んだ。ケンはあまりの手際の良さと躊躇のなさに、呆然とするしかない。なんと強い女なんだ。
「何してるの?はやく靴脱いで。ついでに靴下も。洗ってあげるから」
女が姉のように、優しく語りかけるものだからケンは仕方なく靴下まで脱いだ。
ついでに言い忘れていた挨拶もしておく。
「お邪魔します…」
女は満足そうに鼻で笑った。
「びちゃびちゃだから、お風呂入りなよ。右側の扉開けるとお風呂あるから。――なに遠慮してるわけ?もう知らないやつ家に転がり込んじゃったんだから、甘えなさいよ」
ケンは女に背中を押され、風呂に入った。古臭く、あっつい湯だったけど、自宅の風呂の何十倍も、くつろげた気がする。ケンはその間、母でも自分でもなく、女のことを考えていた。どこか危うい雰囲気を醸し出す女。しかし悪い気はしない。そして根拠のない親近感が枠。血の繋がりはないはずなのに、姉のようなのだ。ケンに姉なんてものはいないのに。彼女もケンのことを弟のようだと思っててくれているとありがたいなと思う。そのまま熱湯に思考を奪われていると、ケンはのぼせてしまっていた。
ふやけた手のひらを見つめながら浴室を出ると、ご丁寧にタオルが二枚も用意されていた。なんだか申し訳なくて、薄っぺらいほう一枚で体を拭ききる。なんでか用意されていた男物の新品パンツと、女物のパジャマに着替える。わざわざパンツを買ってきてくれたと考えると申し訳なくなる。
着替え終わると、生まれ変わったような気分になった。まるで姉の家に転がり込んだ弟みたいに。
そして、唯一もってきていたものを身につけるか迷う。凝視していると、今にも鮮血がフラッシュバックしそう。だが、ここに置いておくわけには行かない。ケンはそれをパンツにしまった。重くてパンツがずれ落ちそうだ。
やがて、ノックもなしにすっぴんの女が入ってきた。メイクを落とすと、隠れていた童顔がはっきりした。おでこが広く、鼻が低い。そして額には火傷の跡がチラホラ。ロングヘアで隠れていたうなじは、ヘアクリップで解放されていた。そこには、深い火傷跡と膿がたくさんあった。これは治らないまま何度も火傷を繰り返したやつだ。ケンは悲しそうに自分の額をなぞる。
女はケンの視線を感じると、不器用に微笑んだ。
「くつろげたみたいでよかった。なかなか出てこないから、溺れてるのかと思った」
「お風呂、ありがとうございます」
ケンは深々と頭を下げた。
「ん」
女はバツの悪そうに頭を掻いた。
「ご飯あるから、来なよ」
リビングに上がると、香ばしい肉の香りが食欲をそそる。久しぶりの食事にケンは頭の中が肉でいっぱいになった。しかしその美味しそうな肉は片方の皿にしか乗っていない。もう片方はなんと生肉が乗っていた。彼女は生肉がお好きなのか?それとも、焼くのはセルフサービスとか?
ケンはどちらの皿がある方に座っていいか分からず、立ち尽くしていた。すると女は迷うことなく生肉の方に座った。
そしてテレビをつけると、二人とは対象的に明るいピン芸人が芸を披露していた。女はそのまま番組を変えることなく、食事に向き合った。
その瞬間――女はまた死神のようになっていしまった。
女は手始めに白ご飯に手をつけた。そして二口食べると、後ろからゴソゴソとヘアアイロンを取り出した。ケンは食欲を忘れて女の行動に釘付けになっていた。
「何見てんの?あんたも食べなさいよ」
ケンは慌てて白米をかきこむ。ほっぺたが落ちるほど美味しいのに、味がしない。女に意識を引っ張られすぎているせいだ。女はあろうことか、アイロンを肉に押し付けた。じわじわと肉が焼き上がっていく。でも食欲は沸かなかった。どこからか不快感と違和感が押し寄せる。ケンの肉と香りが違うのだ。ケンの肉は芳醇な香りがする。しかし女の肉は薄っぺらい。炭と豚の香り。
ケンは自分の肉をほおばった。とっても美味しい。貧乏舌なケンはそれくらいしか美味しさを形容する言葉を持ち合わせていない。ケンは不可解に思いつつも、女に話しかけるのはためらった。女はどこか心ここにあらずといった様子で、うんともすんともいわない。お笑いを見ているはずなのに、遠くを見つめたまま。テレビの中では結果発表が行われていて、先程のピン芸人が優勝したらしい。
女はケンの鬱陶しい視線にも食事にも目もくれず、淡々と食事をする。
「…ごちそうさま」
女はそう言い残すと、ベランダへ行ってしまった。ケンは急いで食事を流し込み、食器たちを虫の湧いた洗い場に持ち込んだ。
そしてベランダでタバコを吸う女のもとへ。
「ご飯、ありがとうございました。美味しかったです」
「――そう」
女は数秒開けて返事をした。吐息からタバコの煙が吹き出る。女は似つかわしくなく、少し咳き込んだ。
「タバコ、いる?――未成年だから、ダメか」
「―――いいえ、いただきます」
ケンは女を知ってみたくて、吸うことにした。いつも副流煙を摂取しているためどこか自信があった。見様見真似で火をつけ、吸ってみた。そうすると味わう以前に咳き込んだ。The煙って感じ。
「はは…やっぱりタバコって美味しくないよね」
女は一服したあとは、それ以上吸っていなかった。
「確かに。なんで母さんはこんな美味しくないものを……」
思わず母親のことを回想してしまって、ケンは苦しくなった。ケンは毎晩ベランダでタバコを吸う母親を見てきた。決まってしんどそうな顔をしていて、そこに話しかけに行って、まして励ますなんて出来やしなかった。
女はそんなケンの肩を抱き寄せた。
「だよね。ママの気持ちが知りたくて吸ってみたんだけど…やっぱり無理だ。美味しくないを通り越して、不味い。ただの煙じゃん。どこがいいんだろ」
女は空を見上げた。満月が顔を出したり、引っ込めたりしている。
「そういえば今更だけど、あんたって何ていう名前なの?あんただと可愛そうだしね
」
「ケンっていいます」
女は一瞬目を見開いたが、その原因は分からない。ケンは、何の変哲もないただのケンだ。
「そうなんだ。私はマキ」
マキは驚きを飲み込んでそう言った。こっちだって何の変哲もないただのマキなんだ。
「―――マキさんは、なんでオレなんかに優しくしてくれるんですか?」
「なんとなくって言ったら納得してくれないよね…。うーん。なんかビビッと来てさ。そうだ、自分と似てるなって思ったから。それだけ。ケンも、思ってるんじゃない?似たもの同士だって」
「――そうかもしれません」
ケンは額の傷をなぞった。マキになら見せられる。ケンは前髪を分けた。夜風が額を撫でて涼しい。
「ケンは、自分のママのこと――好き?」
マキは天にタバコをかざして呟いた。
「――どうでしょうか」
動悸が激しくなる。本当のことを言うと、好きではない。でも、いざ口に出すとなると、ためらいが生じる。あんなやつでも、一応は母親なんだ。
「私は――だいっきらい…だった」
マキはタバコに火をつけた。しかし咥えずにただ煙を見守る。そして鼻水をすすった。ケンはマキの肩にコツンと頭をぶつけた。
満月は雲に隠れ、北風が頬を撫でる。
「――ケンは、家に帰りな。待っててくれる人が、ママが、いるんでしょ?」
「………」
確かに母親が鬼のような形相で待っているかもしれない。ケンは一瞬母親の顔を思い浮かべてかき消した。今は思い出したくない。
マキが時刻を確認すると、十二時を回っていた。
「一晩泊まってっていいよ。――でも、明日には帰りな」
マキは寂しそうにブランケットを羽織ると、そそくさと中に入ってしまった。
そして布団を用意し始める。
「マキさん、手伝いますよ」
「…別にいいから」
「そうとは言わずに…」
ケンはマキからシーツを取ろうとする。
「そんなになにかしたいならお皿洗ってくれる?」
ケンは微妙な顔をした。いつのかわからない食器と食べかすのせいで、虫がウジウジ湧いているあそこに行くのは嫌だろう。しかし、しょうがないのでケンは顔を離しながら皿を洗ってやった。
戻ると、マキは座布団を枕に床に寝転んでいた。対象的に比較的きれいな布団が部屋の隅に用意されていた。
「マキさん、オレが床で寝ますから、マキさんは布団で寝てください」
「えー。せっかく用意したのに」
「ありがとうございます。でも床で寝ると、体痛くなりますよね?」
「別に慣れてるからいいよ」
マキは一切合切動かないようだったので、ケンはマキの隣で床で寝ることにした。
「馬鹿みたい…そういう頑固なところも似ているのかもね」
「…そうかもしれないですね」
ケンは、久しぶりの気が置けない人ができたことに安心し、眠気が来た。
「明日、ちゃんと家に帰んなさいよ」
ぶっきらぼうに言うマキの耳は、ほんのり赤かった。
「………」
「まさか…もう寝たの?ありえない」
マキは申し訳ばかりのズタボロの掛け布団をケンに掛けた。
「―――ケイが生きてたら…こんな感じだったのかな…なんて」
マキはケンの指を握って、眠りについた。
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