恋する自販機
志乃原七海
第1話『暗闇にぽつんと光る自販機』
はぁ……と吐く息が、街灯の頼りない光に溶けて白く濁る。
十二月も半ばを過ぎ、都会の夜は芯から凍てつくようだ。マフラーに顔をうずめ、足早にアパートへの道を急ぐ。角を曲がった先に、ぽつんと世界から切り取られたように光る一角があった。
自動販売機だ。
暗闇の中に浮かび上がるその四角い光は、まるで砂漠のオアシスか、吹雪の中の山小屋のようだ。俺は吸い寄せられるように、その光へと歩み寄った。
「いやー……寒い!」
思わず独りごちる。手袋ごしでも指先がかじかんで、感覚が鈍い。ずらりと並んだ商品のサンプル。冷たいジュースには目もくれず、視線は赤い「あったか〜い」の表示に釘付けになる。
「温かいコーヒー、飲みたいな……」
一番端の、見慣れたデザインの缶コーヒー。その下には、冷酷なデジタルの数字が光っている。
「……缶コーヒー、130円?(笑)」
乾いた笑いが漏れた。ついこの間まで120円じゃなかったか。たかが10円、されど10円。この物価高の世の中、自販機のコーヒーすら贅沢品に思えてくる。
でも、飲みたい。この凍える体で、アパートのドアを開ける前に、一口でも熱い液体を流し込みたい。その誘惑には勝てなかった。
「仕方ない……」
ため息と共に、コートのポケットに手を突っ込む。ガサゴソと不器用な音を立てて、ありったけの小銭を手のひらに集めた。
チャリン、チャリン……。冷たい金属の感触。
百円玉が一つ。十円玉が二つ。
「……ある?……って、うわ、10円足りないわ(笑)」
また笑ってしまった。今度は自嘲の笑いだ。情けない。コーヒー一杯買う金すら、今このポケットにはないのか。百円玉と十円玉二枚を握りしめたまま、俺は光るボタンを恨めしそうに見つめた。
あれあれ、どうしたものか。一度「飲みたい」と思ってしまった脳は、もう後戻りできない。家まであと数分。その数分が、やけに遠く感じる。
その時だった。
なんの前触れもなく、俺の脇をすり抜けるように、細く、白く、長い指先が伸びてきた。
ぞくっとするほど綺麗なその指は、ためらいなく自販機の硬貨投入口に近づき――
カシャン!
乾いた金属音が、静かな夜に響いた。
赤銅色の硬貨。……十円玉だ。
投入された金額表示が、きっかり「130」に変わる。
驚いて顔を向けると、すぐ隣に女性が立っていた。
年の頃は俺と同じくらいだろうか。黒いロングコートを着て、月明かりを反射するような艶やかな髪が肩で揺れている。吐く息の白さだけが、彼女がこの寒さの中にいることを示していた。
俺が呆然と彼女を見つめていると、彼女は悪戯っぽく笑って言った。
「わたしも飲みたかったの。あなたが悩んでるから、なかなか買えなくて。待てないから、入れちゃった(笑)」
鈴が鳴るような、澄んだ声だった。
その言葉に、俺は一瞬、思考が停止する。
彼女は俺の分のコーヒーを買うボタンを押すと、取り出し口を指差した。
ガコン!
鈍い音を立てて、待ち望んだ熱い缶が落ちてくる。
俺はまだ何も言えないまま、その缶を取り出した。じんわりと手のひらに広がる熱が、夢じゃないと教えてくれる。
「……あの、」
「はい、どうぞ。その代わり、次はわたしに奢ってくださいね?」
彼女はそう言って、再び自販機に小銭を入れ始めた。どうやら、本当に彼女もコーヒーが飲みたかったらしい。
俺は手の中の熱い缶を握りしめ、彼女の横顔を見ていた。
自販機の無機質な光が、今だけは少し、温かいステージライトのように思えた。
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