『箱の中の災厄』
2008年9月5日:東都大学 分子生物学研究所
三上義之は、自らが執筆した報告書のコピーを前に、苛立ちと焦燥で唇を噛み締めていた。あれから一週間、考えうる全ての手段を尽くしたが、事態は一ミリも動いていない。
磐座大学の事務室は「桜庭燈子氏は現在、長期休学中で連絡先は教えられないの一点張り」。警察の生活安全課に匿名で情報提供しても「悪質な悪戯はやめてください」と、まともに取り合ってもらえなかった。学会の重鎮である恩師に相談しても、「三上君、少し疲れているんじゃないかね。素晴らしい研究だが、少し飛躍しすぎだ」と、穏やかに諭される始末。
誰も信じない。
ヒトの生殖システムを乗っ取る、ウイルスを内包した蛾の鱗粉。それは現代科学の常識からあまりに逸脱しており、三上のレポートは狂人の妄想として扱われた。机上の空論、解析エラー、あるいは捏造。それが、学会の出した結論だった。
「彼らは、箱を開けようとしない…!」
三上はデスクを拳で叩いた。目の前には、バイオハザードの警告シールが貼られたジュラルミンケース。中には、あの忌まわしい鱗粉のサンプルが、厳重に封印されている。この小さな箱の中に、人類の存続を揺るがしかねない災厄が眠っているというのに、世界はあまりに平穏だった。
その夜、三上は忘れかけていた一つの事実を思い出した。
磐座大学の学生、桜庭燈子。彼女の調査には、もう一人、同行者がいたはずだ。確か、高柳健司という名の大学院生。彼の安否はどうなっている?
翌日、三上が磐座大学に問い合わせると、返ってきた答えに彼は絶句した。
「高柳健司さんですか? ええ、彼も桜庭さんと同じ時期に退学されています。理由は…一身上の都合、としか…」
二人、同時に。
これは偶然ではない。確信が、冷たい刃となって三上の背筋を貫いた。
彼らは、羽角村で「何か」に遭遇し、二人とも社会的に抹殺されたのだ。
2008年9月12日:山梨県
いてもたってもいられなくなった三上は、大学に休暇届を出すと、自らの車で山梨県へと向かった。目的は、羽角村。この目で、真実を確かめるためだ。
麓の町で聞き込みをすると、村はやはり、数年前に完全封鎖されたという。役所の職員は「もう誰も住んでいませんよ。危険ですから、絶対に近づかないでください」と、マニュアル通りの言葉を繰り返すだけだった。
封鎖されているはずの林道には、しかし、真新しい轍の跡が残っていた。まるで、誰かが定期的に出入りしているかのように。三上はバリケードの脇の甘い部分から車を乗り入れ、警告を無視して山の奥へと進んだ。
道は荒れ、深い霧が立ち込めていた。カーナビの画面は、とうの昔に現在地を見失っている。
数時間、彷徨うように車を走らせた後、彼はそれを見つけた。
道の真ん中に、一台の乗用車が乗り捨てられていた。ナンバーは多摩。ここ数日のうちに放置されたものだろう。運転席のドアは開けっ放しで、助手席には若い女性もののショルダーバッグが残されている。
三上は、バッグの中にあった学生証を見て、息を呑んだ。
『中央経済大学 2年 冬子(とうこ)』
インターネットの掲示板で交わされていた、あの不気味な会話が脳裏をよぎる。
スレ主の青年と、彼の恋人。彼らは、本当にここへ来てしまったのだ。
三上は、言い知れぬ恐怖に駆られながらも、車の外に出た。
霧の向こう、廃村があるはずの方向から、微かに歌が聞こえる気がした。
「ひとりぼっちは、さみしいな」
「はやくこっちに、おいでよな」
それは、複数の少女の声が重なり合った、奇妙に反響する合唱だった。
最終章:招かれざる者
廃村のはずの羽角村は、異様な静けさの中に、人の気配だけが色濃く漂っていた。朽ちかけた家々の窓には、内側からおびただしい数の御札が貼られている。だが、どの家も人の住む暖かさはなく、まるで巨大な墓標のように立ち並んでいた。
村の中心部、古びた公民館のような建物の前に、二人の少女が立っていた。
一人は、十代半ばだろうか。巫女のような白い着物を着て、全てを諦めたような虚ろな目をしている。
もう一人は、それより少し幼い。快活そうな顔立ちをしているが、その瞳には人間的な感情が感じられない。
「…どちら様、ですか」
巫女のような少女が、か細い声で尋ねた。
「私は、東京の大学から来た三上という。君たちは、この村の…?」
三上の言葉に、幼い方の少女が、無邪気に首を傾げた。
「わたしは、とおこ。こっちは、ふゆこちゃん。きのう、新しいお友達になったの」
彼女が指差した巫女の少女。その背中、着物の合わせ目から、青黒い蛾の翅のような痣が、僅かに覗いていた。
三上の全身が、警鐘を鳴らす。
目の前にいるのは、ヒトではない。
桜庭燈子のレポートにあった、あの忌まわしい儀式が生み出した、次世代の「苗床」と、そして…
「あなたも、お友達になりにきたの?」
「とおこ」と名乗る少女が、一歩、三上の方へ近づく。
彼女の背後、公民館の暗い窓の奥で、無数の青白い光が、まるで待ちわびていたかのように、ゆっくりと明滅を始めた。
三上は、自分が致命的な過ちを犯したことを悟った。
箱は、開けるべきではなかった。
そして、決して、自ら箱の中へ入ってきてはならなかったのだ。
彼の耳元で、甘い香りと共に、微かな羽音が聞こえた。
それは、終わりを告げる、優しい子守唄のようだった。
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