続編:『孵化する闇』
羽角村を去るバスの車窓から、急速に遠ざかっていく山々を眺めながら、高柳健司は隣に座る桜庭燈子に声をかけた。
「昨日の夜、本当に何も覚えてないのか? フラフラで奥ノ宮の方へ入っていったんだぞ。俺、本気で心配したんだからな」
燈子は一瞬きょとんとし、それから悪戯っぽく笑った。
「やだ、先輩。私、疲れて部屋でぐっすりでしたよ。きっと先輩が見たのは、村の幽霊じゃないですか?」
その笑顔はいつも通りのはずなのに、どこか薄い膜が隔てているような、奇妙な空虚さがあった。高柳はそれ以上追及するのをやめた。だが、拭いがたい違和感が胸に澱のように溜まっていく。調査中、燈子から微かに漂っていた、あのむせ返るような甘い香りが、今も風に乗って鼻をかすめる気がした。
ふと見ると、燈子は自分の腹部にそっと手を当て、慈しむように撫でていた。その横顔は、高柳の知らない、聖母のような静けさを湛えていた。
第一章:日常への亀裂
東京に戻ってからの燈子は、人が変わったようにレポート作成に没頭した。食事も睡眠も疎かにし、研究室に籠り続ける彼女を、高柳は甲斐甲斐しく世話した。
しかし、燈子の変化は明らかだった。
まず、食の好みが変わった。以前は好まなかった極端に甘い菓子や果物を、憑かれたように欲しがるようになった。ある日、高柳が差し入れた弁当には目もくれず、道端の桑の木の若葉を摘み、無心に口に運んでいるのを目撃した時は、さすがに声を失った。
夜、彼女は悪夢にうなされるようになった。高柳が研究室で仮眠を取っていると、隣のデスクで突っ伏している燈子の口から、苦しげな寝言が漏れ聞こえてくる。
「……おいで、ませ……あかい、あかいお布団……わたしの、中で……」
それは、羽角村の少女たちが歌っていた、あの不気味な童歌だった。
ある晩、積み上げられた資料の上で眠ってしまった彼女のブラウスの襟元がはだけ、高柳は見てしまった。白いはずのうなじの下、背骨に沿うように、青黒い痣が浮かび上がっているのを。その形は、彼の記憶に焼き付いて離れない、あの灯盗蛾の翅の紋様に酷似していた。
第二章:侵食する異形
季節が秋に移る頃には、燈子の変貌はもはや誰の目にも明らかだった。異常なまでに痩せていく手足とは対照的に、腹部だけが妊婦のように不自然に膨らみ始めていた。
「病院へ行こう、桜庭。どう見たって普通じゃない」
高柳が懇願しても、燈子は虚ろな目で微笑むだけだった。
「平気よ、先輩。この子は、神様からの授かりものだから」
彼女は、自分の腹にいる“何か”を「この子」と呼び始めた。
燈子が住むアパートの一室からは、常にあの甘い香りが漂うようになった。まるで巣に引き寄せられるかのように、季節外れの小さな蛾が、夜ごと彼女の部屋の窓に集まっては明滅した。
恐怖に駆られた高柳は、大学の書庫に再び足を運び、『甲斐国奇譚集』を貪るように読み返した。
『蛾、人の女を宿とし、神の子を孕ませしむるという』
かつては荒唐無稽な伝承と切り捨てた一文が、今や呪いの言葉となって彼に突き刺さる。あれは比喩ではなかった。文字通りの、事実だったのだ。
意を決して燈子のアパートを訪れた高柳は、その光景に絶句した。部屋は電気が止められ、蝋燭の灯りだけが揺らめいている。壁には、粘液のようなもので描かれたおびただしい数の蛾の紋様が、燐光のように青白く浮かび上がっていた。
その中央で、燈子は膨らんだ腹を抱き、恍惚とした表情で静かに揺れていた。
彼女はもはや、高柳の知る桜庭燈子ではなかった。
第三章:羽化
「目を覚ませ、桜庭ッ!」
高柳は彼女の肩を掴んだ。だが、燈子はゆっくりと顔を上げ、その瞳で彼を捉えた。彼女の瞳は、黒目の部分が縦に長く裂け、複眼を持つ虫のように怪しく光っていた。
「……邪魔を、しないで。この子が、生まれようとしているの」
その声は、燈子の声でありながら、いくつもの羽音が混じり合ったような、異質な響きをしていた。彼女の身体から発せられる甘い匂いが、高柳の思考を麻痺させていく。
駄目だ、もう手遅れだ。
それでも、彼は彼女を救いたかった。最後の理性を振り絞り、彼女を無理やり抱きかかえて外へ連れ出そうとした、その時だった。
ゴキリ、と音がした。
燈子の背中が、ありえない角度に反り返る。彼女の口から漏れたのは、苦痛の呻きではなく、歓喜の吐息だった。膨らんだ腹の皮膚が内側から突き破られ、濡れた翅のようなものがぬらりと姿を現す。
甘い匂いが極限まで濃くなる。部屋中の蝋燭の炎が、一斉に揺らめき、消えた。
完全な闇の中、高柳が聞いたのは、濡れた肉が引き裂かれる音と、腹の底から響くような、甲高い産声だった。
いや、あれは―――赤子の声などではない。
エピローグ
二年後。羽角村は、穏やかな春を迎えていた。
村役場の長峰は、戸籍簿に新しい名前を書き加えると、満足げにそれを眺めた。
『
隣には、巫女の白川繭に抱かれた、幼い少女の写真が貼られている。黒髪に大きな瞳の、愛らしい少女。しかし、その小さな背中には、まるで生まれつきの痣であるかのように、鮮やかな青白い紋様が浮かび上がっていた。灯盗蛾の紋様だ。
村は、新しい巫女候補を迎え入れたのだ。歪んだ共生と繁栄の歴史は、こうしてまた繰り返されていく。
東京では、磐座大学の大学院生、高柳健司が失踪者として処理され、その行方を知る者は誰もいなかった。桜庭燈子のアパートは、異臭が漂う空き家として封鎖され、やがて人々の記憶から忘れ去られていった。
ただ、春の夜、月の綺麗な晩になると、そのアパートの古びた窓ガラスに、どこからか飛んできた一匹の美しい蛾が、静かに翅を休めていることがあるという。まるで、失われた何かを、ずっと待ち続けているかのように。
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