第十九話


 体が燃えているのか、周囲が燃えているのか。火事かと思考を一瞬かすめ、早く動かなければと思うものの、体は一向に言うことを聞いてくれない。


 目を開こうとして、目の開き方が分からない。力を入れるにも、瞼への意識が遮断されてしまっているのか、どうしたらいいのかさっぱりと判断がつかないのだ。


 喉奥が引きついて、息がしにくい。口から出た息が思いのほか熱く、冷たい空気に混じっていくのを感じた。


 とにかく全身が熱かった。内側も外側も、燃えるように暑苦しくて、重くてだるい。


 意識が遠退いた。


 熱く、喉が渇いて苦しい。それが何度も何度も続き、春狼はここがどこなのかも、いつなのかも、思考を回す余力さえもない。


 再び取り戻した意識の中、俊麗の疲労の浮かぶ顔を見た気がした。


「そなたは馬鹿か。我を庇う必要などなかっただろうに」


 こんなときでも小言が尽きないのかと、春狼は罵倒の一つでも返したかった。当然声など出るはずもなく、自分がなぜそのようなことを思ったのかも分からない。とりとめのない感覚や思考が泡となって消えていった。


 春狼の混乱した頭はまた途切れ、それからぶつりぶつりと痛みと熱を自覚する。熱いのに凍えるほど寒くなっていき、震えの振動が内側にも響いてくる。


 手足の感覚は全くなかった。起きているのかも、寝ているのかも判別できない空間をさまよう。


 目を開けていないときも、目が回ったような浮遊感を味わう。気持ち悪いのに吐くこともできない中をもがき苦しむ。


 無我夢中で走っている。どこに向かっているのかも分からない。疲労は感じず、ただひたすらに暗闇から遠ざかろうと足を動かす。足にまとわりつこうとする黒い影が、なぜか恐ろしくて仕方ない。走って走って、その先に一点の光を見つける。


 額を拭かれた感触がして、薄く目を開けた。ぼやけた視界の奥で、俊麗に似た姿が春狼を見おろしていた。


「春狼?」


 ――誰かが俺の名を呼んでいる。

 ――俊麗ではない。あいつは、俺の名前を呼ばない。

 ――だから、これは俊麗ではない。


 目に入れた力は次第に弱まり、完全に閉ざされる。そばにいたのが俊麗だったのか、そうでなかったのかも、考える力はなかった。


 時間がどれほど経過しているのかも知らない春狼は、それから何度も意識を持ちあげた。そのたびに俊麗に似た人物を見た気がした。視界が鮮明になる前に、重たい瞼は閉じてしまう。


 熱湯の中をたゆたうような気分と、体の熱さで目を覚ました。ゆっくりと周囲の家具や飾りが模られていくのを感じて、そこが春狼に割り当てられた自室であることに気がつく。


 体は芯が冷え切っているのに対して、表面が焦げているのではと感じるほどに熱い。朦朧としながら、春狼は自分が刺されたことを思いだした。脇腹辺りを中心にじんじんとした痛み。それよりも、全身の倦怠感の方が余程つらく、熱が体を麻痺させて痛覚を鈍らせているのだろう。


 それでも、痛いものは痛い。暴力を振るわれたことは、過去に数えきれないほどあった。痛みにも慣れていた。しかし、刺された痛みは予想以上。悶え苦しむ痛みで脳が強張るのを感じた。


 寝台横の机には水桶が置かれ、春狼の額に乗った布を濡らすためであろう。額に乗ったじんわりとした温い感触に、生きていることを実感する。


 口内は干からびてしまったのか、痛みのような痺れがある。ほてった体は思うように動かせず、春狼は自力で起きあがることができない。


「春狼!」


 部屋の戸が開き、入室してきた人間が慌てて駆け寄ってくる。春狼はその者を視認して、驚きで乾いた目を見開いた。


 ――火兎?


 麗華殿にいるはずのない火兎が、目尻に涙を浮かべている。


 名前を呼びかけたくても口が渇いて声が出ない。口をパクパクと開いたことで、火兎が脇に置いてあった吸い飲みを持ちあげて、春狼の口元に運んでくれる。傾いた吸い飲みから冷たい水が口の中に巡る。少しずつ熱い喉奥に水を流しこみ、春狼は初めて宮中で綺麗な水を飲んだときの喜びを思いだした。


「けほっ……な、なんで? ここに、火兎が?」

「俊麗様が、御自身ではまともな世話ができないからと、私を派遣してくださったのです」


 簡潔に説明された言葉を噛み砕く。


 俊麗は世話を焼かれる側である。李もまた、俊麗を守るためにそばにいる必要がある。刺客が送られたため、身元不明の人間を麗華殿にいれるわけにはいかない。そこで白羽の矢が立った者が、春狼の元教育係である火兎だったのだ。


「あなたが怪我をしたと聞いて、私は生きた心地がしませんでした。無事でよかった!」


 火兎は春狼の手を両手で包みこむ。こみ上がった涙を頬に伝わせ、心底安堵した声色を響かせる。


 ひさしぶりに再会した火兎に心配をかけてしまった罪悪感と、自分の身を案じてくれる嬉しさが混ざり合う。火兎が泣きやむことを待ちながら、春狼は入り混じる感情を噛みしめた。


「意識はありますか? 体は?」

「ぁまだ、熱っぽい」


 固く痺れた唇と声帯を動かす。低くしわがれた声を出す度に、喉に引きつれるような痛みが走った。


「すぐに医官を呼びますね」


 火兎に連れられた医官による診察を終え、もうしばらくは体を動かすことは難しいだろうと診断された。


 凶器となった暗器には毒が塗布されていた。耐性がある春狼は毒の影響よりも、傷口からの感染症を引き起こして体調を悪化させたのだ。解毒をするために、解熱剤を処方できず、春狼の体力次第では危険な状態だったらしい。


 刺客が麗華殿に侵入してから、すでに十日が過ぎていると聞いて、春狼は驚きで目と口を大きく開けた。


「お腹は空いていませんか。果物くらいならお腹にいれられますか?」


 春狼は生死をさまよっていた時間の長さに衝撃を受ける隣で、火兎は落ち着かない様子で軽食の用意を進める。


 忙しない動きを見つめているうちに、春狼は再び睡魔に襲われた。果物に刃を滑らせている火兎の姿を最後に、春狼は体の熱に溶けこむように眠りへと舞い戻った。


 ぼんやりとした頭はときどき起きて、覚醒という形を成さずにまた眠ってしまう。回復に向かおうとする体が強制的に熱を上げる。発汗したことで寒気を感じて目覚め、気を失うように再び眠りにつく。繰り返し、繰り返し、永遠に宙を泳いでいるのではと思うほど意識を瞬かせた。


 かたっ、という音がして、部屋に誰かが入ってくる音。部屋は真っ暗で、音がしないことから夜中であることが分かる。蝋燭の明かりも灯されていない。


 ――火兎か?


 看病に来たのが火兎だと思った春狼は懸命に瞼を開ける。段々と定かになっていく思考が、その人物の様子を伝えてきた。


 ここに来るはずのない人物が、春狼の枕元に立っていた。いつもの自信に満ちた余裕の表情が削げ落ちている。憔悴した顔で、春狼のことを見つめていた。春狼以上に苦しそうに歪む顔に、心中で声かける。


 ――おまえのせいではないよ。


 見慣れた皇族としての彼を知っている。態度の大きい俊麗を知っている。


 だが、目の前の人物もまた、配下の怪我を心配する俊麗もまた、俊麗の確かな姿である。冷淡であろうとして、その実、母親の死の真相を求めるほど母親を思う愛情深い者。最愛を失ってから、彼の本質は厭世的だ。復讐を糧に生きるような、心の弱い者だ。


 ――それでも。それでも……。


 世の実態について春狼に聞いてから、俊麗は芳妃の仇を取るための情報収集以外に、外界についての調査を加えた。宮中から出られない身でありながら、外の民衆の暮らしに目を向ける。国政の見直し、国庫の取り締まり、民の暮らしの改善を、俊麗が気にかけているのを春狼は知っても口だすことはしなかった。


 俊麗は復讐を終えたら、生きる意味はないと考えている気がしてならなかった。真相を探る調査も、無意識にやっているに過ぎない。


 彼は生きる意味をまだ見つけられていないのだろう。最初から第四皇子の身でいることを受けいれてしまっている。自身が皇帝の座に就いたり、政に関わったりするなどを、念頭に置いていない。


 ――ああ、俊麗。おまえはただ、優しいんだな。


 俊麗は民を見捨てることができない。見て見ぬ振りができない。


 慈善家だった芳妃の影響だと人は言うだろうか。


 春狼はそう思わない。俊麗が持った、崇高な性質だ。人の上に立つ存在であることを自覚していながら、民に寄り添うことを当然の責務であると考える。


 ――おまえが皇帝になったら、世界はもっと生きやすいか?


 世迷言を思い浮かべ、春狼は美しい世界を夢想する。


 ――優しいおまえの世界に、俺は生きたいよ。


 感傷的になるのは、きっと怪我による熱のせいと、俊麗という人を知ったことにより、親しみを抱いてしまったためだ。


 俊麗を守ろうと思って、行動したわけではなかった。勝手に体が動いたというのが正解だ。誰かに操られていたわけではない。順序立てた脳の意識下での行動ではなかったが、春狼の心の思うままの動作だった。


 なぜ、と疑問を抱くはずだった。また同じことがあったとしても、春狼は俊麗を守るために踵を返すだろう。理由があるわけでも、言葉にできるほど自分の中で整理ができているわけでもない。


 それでも、春狼は俊麗を守りたかった。


 額に冷たい布が当てられる。先程までいたはずの俊麗はどこに行ったのか。確認するために目を開けることができない。ひどく眠くて仕方がなかった。


 布を置く際に、春狼の額に誰かの指先が当たる。その指はかさついて、何度も冷たい水で布を絞りすぎたためだろうと予測できた。俊麗を見た気がしたのは、熱が見せた幻覚なのだろう。


 春狼はそれ以上考えられなくなって、眠りの水面の向こうへと沈んでいった。


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