第九章
天高く昇った太陽は、陽の光を満遍なく地上に降りそそいでいる。朝早くから猛烈な暑さを伴って、空気の熱を高めていた。
冬とは異なる気温の変化は例年通り。山岳地帯の西部以外、平野が多い燈国は安定した四季がやってくる。夏は暑く、冬は寒い。海へと通り抜ける風は強く、天候も変わりやすいが、広大な国土によってそれらは西から東にかけてなだらかになっていく。帝都はその中でも特に過ごしやすい中央に位置していたが、建物が多く連なるため、風通りが悪く暑さは増すばかりだ。
「あっづい……」
中庭に面した回廊を、春狼は力なく進んでいた。
春狼は暑さが得意ではない。熱が服の中に溜まり、全身を不快にさせる。頭の回転は悪くなり、作業効率的にもよくない。連日続く猛暑が体力を少しずつ奪っていた。
麗華殿の中庭にも夏が訪れ、季節に呼応して瑞々しい緑が生い茂っている。色味のある花々よりも、木々の葉は一段と鮮やかだ。定期的に手入れにやってくる庭師によって、美しい景観は保たれていた。
できるだけ影のある道を通り、目的地に辿り着く。俊麗は涼しい顔で、中庭に設置された敷布の上に巻物を広げていた。
室内は窓を開けても、蒸し暑さがこもる。夜のうちは我慢ができるが、日中は集中できない。そのため、風が通る中庭に涼む場所を作ったのだ。
「文が、届いたぞ」
脱力しながら要件を言うと、俊麗は「即渡せ」と手だけを宙に上げる。
春狼は反発する気力もなく、検分の済ませた文を渡した。
「……貴妃からか」
俊麗の忌々しげな呟きを耳にしながら、春狼は陰のある場所に移動する。置いておいた桶に水を入れ、誰も来ないのをいいことに足元をはだけさせた。足を水に浸け、ひやりとした快感が味わう。その水も体温の上昇とともにぬるま湯に変わってしまう。
「だらしがない」
春狼の着崩した格好を一瞥して、俊麗はぴしゃりと言い捨てた。
「だって、……暑すぎるだろ」
春狼は支柱に寄りかかる。だらけきった春狼に反して、俊麗の額には汗一つ浮かんでいない。暑さで集中力は霧散するはずが、一向に文を読む目の動きは留まらないでいる。
――こいつ、本当は機械仕掛けの人形なんじゃ?
呆けながら俊麗を見ていると、彼はぐしゃりと文を握り潰した。そのまま後方に放り投げ、中断していた作業に戻る。
「は? 捨てるのか?」
「読む価値もない」
「それでも握り潰すことないだろ……」
危険物の可能性があるため、主人に渡す前に中身を確認している。それが犯人候補である貴妃からの文であれば、なおさら細部まで危険性がないか検めた。
文の内容は、燈子宮で困ったことはないか。何かあれば相談してほしい。芳妃のためにも気を確かに生きていこう。そして、皇后には気をつけるように、という文末で綴られていた。
「どのような思惑があるかしれない以上、相手にする必要もない」
聞いていた話とは逆の親身さに、春狼は初め困惑した。筆跡をまねて返事を書け、と俊麗に命じられ、可もなく不可もない文章を送り返している。
「毎月送ってくるんだし、何か意図があるんじゃないのか?」
ひと月に一度送られてくれば、対応にも慣れてくる。内容も飽きることなく変わりはない。俊麗の身を案じる言葉が二枚分の紙にまとめられている。
朱一族の暗躍が目立つだけで、貴妃は母親を亡くした子を案じる、心優しい性格の持ち主なのかもしれない。俊麗にその思いが伝わっていないまま、すれ違いが起こっているとも考えられる。
俊麗の気難しい性質を、春狼はまだ量りきれていなかった。何に怒り、何を憎み、何を嘆いているのか分からない。
貴妃の文もまた、意味を考えるまでの判断材料が整っていなかった。
「そういえば、いつも何やってるんだ?」
足を水中から交互に出し入れしながら、俊麗を見やる。
俊麗は毎日毎日減ることのない巻物を読みこんでいる。筆で書き入れたり、李に巻物をどこかへ運ばせたりしている姿もよく見かける。
日常的に何かしらの書類仕事を消化していることには気づいていた。当初は芳妃の死の真相を調べているのだと思っていたが、そういうわけではないようだ。
「そなた、今更ではないか?」
「あんまり興味なかったし。ちらって見た限り、俺は知らない方がいいんじゃないかと思ったけど、違うのか?」
巻物のほとんどが政に関わるものだ。政が執行される閣務省の〈十部〉についてが記されていると確認していた。
「そなたに必要のない知識なのは確かだ」
俊麗は開いていた巻物をたたみ、別の紙の束に手をつける。
「これは課題だ」
「課題?」
「主上の、正しくは
「それって……つまりは次代皇帝の補佐をさせるために、今のうちから育てとこうってことか?」
「言うなれば、そうだな」
俊麗は目線を紙から一切上げずにそう言った。
次代皇帝の補佐官に登用するための育成課題。俊麗は黙々と複数の巻物を見比べて、紙に書きこんでは、また別のものに手を伸ばす。
――こんなの毎日やってたら、そりゃあ他のことに手ぇ回す余裕がなくなるよな。
俊麗は日課となっている役目をこなしつつ、芳妃の死について探っている。自身の寝食を疎かにしながら、目的は見失わない。周囲には一切の苦労を見せず、俊麗は粛々と行ってみせる。弱さを見せない完璧然とした姿は、やはり人間味がなかった。
春狼は俊麗を見るのも飽きて、太陽を見あげる。太陽はいまだに頭上高くに照っていて、頭痛と吐き気を呼び起こす。独善的に照り続ける太陽を、春狼は恨めしく感じた。
「この暑さで、いったいどれだけの人が死ぬだろうな」
自然ともれた呟きは、応答を期待したものではなかった。紙束や巻物が次々と俊麗に確認され、用済みとばかりに端に寄っていく。手を止めることなく、俊麗は淡々とした声質で言う。
「太陽光がなければ作物が育たない。恵みの陽であることに変わりはないだろう」
その言葉に春狼はぎょっと目を剥いた。信じられない、と開いた大きな目に、俊麗は気づかぬまま手元を見ている。
「……まさか、本気で言ってるのか?」
作物を育てるのは人間で、燈国の民だ。その民が健康な体でない限り、作物は育てられず、税を納めることもできない。日光は確かに作物の成長に重要だ。しかし、民の力もまた、国を支えるためには不可欠だ。
驚愕で押し黙った春狼をいぶかしんだのか、俊麗はようやく顔をあげる。
「何がだ?」
心底意味が分からないと、不遜に頬杖をつく。
春狼は自然の力で殺された人間を多く見てきた。不作が続き、食い扶持を確保できないまま餓死していった者。異常気象で熱を出し、体が耐えられなかった者。
皇族の彼は知らない。現実の残酷さを知らないのだ。それを無知だ、不条理だと叫んだところで、春狼の胸にうずく虚しさが消えるわけではない。
格差、身分というものを痛いほど感じた春狼は、どちらにも傾けない曖昧な自分に嫌気が差した。
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