燈国の菫――狼は春に啼く――
小林泉
第一話
心細さをかき立てられる、渇いた冷気が吹き抜けた。
稲の刈り入れが終わると、人々は冬支度を始める。夏の間に商人が買った毛皮は、皇帝への貢ぎ物として献上される。それ以外は、都に円を描くように領地を持つ、五大貴族が買い占めてしまうのは常々のこと。
地方に領有する貴族は自らの取り分を確保するので精一杯だ。ゆえに、毛皮が民衆に出回ることはめったになかった。
痩せた土地にある貧民集落であればなおのこと。そこに住む、薄汚れた童子もまた、毛皮などという高級品を触れたことはなかった。そもそも、存在自体を知らなかった。
童子は農家の目を盗んで藁をくすね、不格好ながらも防寒具を作りあげた。秋の香りをほのかに残す藁を体に巻きつけて、あばら家の隙間風をしのぐ。秋のうちに溜めこんだ木の実を食い繋ぎ、何とか寒い冬を乗り越えた頃だった。
「おい、いたか⁉」
「いや、こっちにはいねえ」
「だいぶ弱ってる。きっと近くにいるはずだ! 探せ!」
夜闇に紛れながら男たちの叫ぶ声に耳をそばだてた。背丈まである雑草の間に隠れて、彼らが立ち去るのを待ち望む。小さな体をかき抱いて、息を潜めて、男たちの視線を掻い潜ろうとする。
男たちは真っ当な仕事に就いている人間ではない。最近この辺りをうろつく人買いであることは容易に見当がついていた。
夕方になって住処に戻ったとき、彼らはすでにそこにいた。童子が一人でいるのを、事前に確認していたのだろう。
童子が住んでいたのは、貧民集落のさらに外れに位置するあばら家の一つだ。そこの住民たちは片手ほどしかない年の童子が、大人の男たちに追いかけられているのを知っていても、見て見ぬ振りをする者ばかり。自分が生きるので限界な人間の集まりだ。弱い者から搾取されていくのは致し方ないことだった。
孤児である童子が頼れるのは、どのようなときも自分のみ。そもそも、誰かに「助けて」とすがりつくすべを知らない子どもだった。
無法者たちから逃げたのも、これが初めてのことではない。素早い身のこなしと、小さな体で男たちから逃げ回ってきた。いくつもの小屋の隙間を抜けて、雑然とした通りを走り、木箱の陰に隠れる。大人の視線の届かない場所でやり過ごす。
その日も、暗闇と高い草があれば問題ないと思っていた。油断をしたつもりはなかった。
体が震えてしまうのを周囲の草に伝わらないよう必死になる。呼吸を止めて、自分はその辺の石ころだと念じた。
背後でがさりと音がする。振り返れば音が出てしまう。野兎であればいいと、さらに体を抱きこんだ。
夜闇がさらに陰った気がして、きつく閉じていた目を恐る恐る開く。地面には、自分の影越しに大きな影ができていた。ばっと振り返ると同時に首元を掴みあげられ、すぐそばにはにたにたと笑う男の顔。
「こぉんばぁんはあ~!」
男の下卑た笑みが目に焼きついた。
童子の願い虚しく、その身は月が高く昇る前に見つかってしまった。
「離せ!」
抵抗するものの、大人の男に勝てるはずがない。栄養の足りていない小枝のような手と足にはあっさりと縄がかけられた。
童子が詰めこまれた格子付きの荷車には、自分以外の子どもが十数人も押しこまれていた。
子どもたちは痩せ細った顔を童子に向けた。光のない暗い双眸が、この先の残酷な運命を物語っている。童子とそう変わらない貧相な体は骨と皮ばかり。童子のように親がいないか、それとも口減らしのために売られたか。どちらにしても、絶望の極致にいることに変わりはなかった。
荷車は居心地の悪い音を立てて発進する。横にも縦にも豪快に揺れた。名も知れない子どもと身を寄せ合って暖を取る。
皮の扉の隙間を格子越しに眺め、そこから入って来る太陽の光と、夜の闇の数を指折った。それも、日数が片手を越えた辺りで、童子は数えるのを止めた。
限界にあった子どもは多く、餓死した者から蛆が沸きだす。できるだけ息がしやすい入り口に寄りかかったが、生と死の狭間が曖昧だったのか、童子にも蛆が寄りつき始める。払う気力さえも、童子にはもうなかった。
元々空いていた腹が、痛みを通り越して痺れとなったとき、荷車は何度目かとなる停車をした。外の軽快な騒がしさから、目的地に到着したことを悟る。かろうじて開けることができた目に映ったのは、見慣れた田舎の風景からは到底考えられない、躍然たる町の光景だった。
賑やかな町に到着した時点で、荷車内に詰めこまれた子どもたちの中で生きていたのは、童子と他数人だけ。その数人も、焦点の合わない虚ろな目を宙に泳がせている。
「ちっ、半分以上が死んでやがる。今回は不作だな」
殺しといてよく言う、と噛みつく力さえ残っていない。男に猫のごとく首元を掴まれ、荷車から引きずり降ろされる。派手な建物の裏手で乱暴に放りだされた。
「商品」にするため、見栄えをよくする必要があったのか、冷たい水を頭から被せられる。拷問のような水攻めも、断食断水を強いられていた童子にとっては恵みの水だった。
頬を伝う水を少しずつ摂取していると、水をかけていた男が嬉しそうな声を上げた。
「こいつは上玉だ!」
男は童子を地面に転がしたまま建物の中に入り、恰幅のよい女を連れてきた。空腹と疲労で朦朧としていた童子を一目見て、女は男と同じような下品な笑みを浮かべる。
「性別は?」
「今回の商品は男でさぁ」
「女だったら
女が顎で指示を出すと、男は物を運ぶときと変わらない粗雑さで、童子を建物の中に連れていった。
最低限にまとっていた襤褸は剥ぎ取られ、湯の張られた湯舟に投げこまれた。今まで感じたことのない突然の熱に、外に出ようともがく。男に頭を抑えつけられ、その勢いのまま、湯の中に沈められて全身を洗われてしまう。
温かい水の存在を知らない童子の体は、刺激と痛みを感じながらも、次第に順応していく。湯の色が透明から濁った色に変色した頃、童子はようやく湯舟の外側に出された。
温かい布に包まれて、水滴がなくなってから、肌の感覚が普段と変わっていることに戸惑う。不快感が鈍っていた童子には、垢まみれの体が当たり前だったからだ。
「灰桜色の髪だね。今の季節じゃ、おそらく「
満足そうに口元を吊りあげ、意味の分からない話をする女が、童子の目には不気味に映った。水をかけた男以外の人間に女は指示を出しながら、体力の削げ落ちた童子を飾り立てていく。
「随分と長い髪だねぇ。高く結ってしまうかね。目は青みが強い灰色かい。完全な青だったら、もっと綺麗で値がついただろうに」
女はそうぼやきながら、童子のぼさぼさに伸びた髪を整えていく。きらびやかな着物をまとわせ、言葉通りに童子の髪をまとめだした。されるがままとなった体に力は入らず、意識の遠くなりかけた頭で状況をただ受けいれることしかできなかった。
支度が終わり、椅子に座らせられる。目の前には高級品である鏡が置かれ、童子は初めて自分の顔を目にした。
栄養が明らかに足りていない体は骨ばっていて、目は落ちくぼみ、顔色は土気色をしている。それらが生地の厚い服と、白粉で隠されていく。
汚い浮浪児から一変し、貴族の
「こいつは化けたもんだねぇ!」
女が嬉しそうに声を弾ませると、指示を受けていた使いの男が、上等な着物をまとった二人組を連れてやってきた。中性的な顔をした二人の前に、女は躍るように飛びでていく。
「これはこれは! このような場所まで足を運んでくださり――」
「それで? 美しい容姿の商品というのは?」
女の歓迎の台詞を遮り、二人組は本題を優先させる。女は気に障った様子を顔に一切出さず、童子を強引に押しやった。
「……ほほう」
片方の者が息を呑む。もう一人は童子を見定めるように、足元から頭までじっくりと観察してから、納得するよう頷いた。
「主人、これは上等な品だ。言い値で買いつけよう」
「ありがとうございます。それではこちらで手続きを」
童子はぼんやりとした頭で、自分はこの者たちに買われたのだと察する。そして、限界に達した体は、ぷつんと糸が切れたように弾け、意識が遠退いていった。
次に目を覚ましたとき、童子は自由を失っていた。彼はどの牢獄よりも脱走が厳しい、燈国の宮中へと閉じこめられたのだ。
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