零香
中学に入ってから、僕は東屋に行かなくなった。部活。
塾。
スマホ。
ゲーム。
そして「友達」。
そうしたものが、気づかぬうちに東屋と僕の間に距離を作っていた。
「久しぶりにあんたの姿見たで」 ある日通りがかりに、トミじいちゃんが笑ってそう言ったけど、僕は照れて笑って、早足で通り過ぎた。それが最後だった。
高校進学で地元を離れることが決まったある日、僕はふと思い立って、あの公園へ向かった。
空気には土と草のにおいが混じって、微かに散った花の香りが残っていた。
東屋には、マサオじいちゃんがひとり、将棋盤を前に座っていた。風に揺れるシャツの背中が、いつもより少しだけ小さく見えた。
「小僧……来たか」
僕に気づくと、じいちゃんはゆっくりと顔を上げて、にこっと笑った。目尻のしわが深くて、優しかった。
「もう行くがか?」
「うん。来週にはもう、向こうの寮に入るよ」
ふたりでしばらく無言のまま、風に吹かれて座っていた。将棋盤の駒を一つ手に取り、じいちゃんがぽつりと言った。
「わしはここで待っちゅうき。いつかおまえが戻ってきたときに、また一局させてやらにゃな」
「……うん。絶対、また来るから」
じいちゃんは笑った。その笑顔がなぜか、少しだけ泣きそうに見えた。
気の利いた言葉なんて何ひとつ言えなかった。 だから僕は、じいちゃんに、思いきり抱きついた。あのたばこの匂い、花のにおい、山の空気が混ざった、じいちゃんのにおい。
「ありがとう。たくさん遊んでくれて。いっぱい教えてくれて」
じいちゃんの背中が少し震えていた。
「アホ。礼なんかいらんがや」
それが、僕とマサオじいちゃんの、最後の将棋の一局だった。
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