五
先生の顔を見た瞬間、思わず喉がヒュッと鳴りました。
驚いた拍子に全身の毛穴が開き、一瞬で熱を持った身体から汗が滲みました。心の臓が鼓動を速め、震え出した右手をもう片方の手で抑えたのです。
「大丈夫かい? 驚かせてしまったようだね」
先生は私の背中をさすり、宥めるように落ち着かせてくれました。
「いやぁ、忘れ物をしてしまってね。ここで何をしてるんだい?」
「ぁ……っ、……」
「あぁ、この匂いか。これは古い薬品の匂いだよ。処分をしている時間がなくて、放置したままなんだ。そのうち、きみにも手伝って欲しいと思っているんだが」
「……」
私は頷きました。いつものように穏やかな話口調でしたので、先生の言葉は本当なのだと確信が持てたからです。
「今日はもう部屋へ戻りなさい。そういえば、私の分のあんぱんも買ってきてくれたようだね。ありがとう。帰ってきたら、いただくとするよ」
そう言って、先生が出かけたのを見届けたあと、私は自室へと向かいました。部屋に入った途端、どっと疲れたように肩が重くなり、布団へ身を投げました。古い薬品だと言っていたあの匂い。どこかで嗅いだことがあるような気がしたので、枕に顔を埋めながら記憶を遡った時です。
あぁ、あれは———。
先生はなぜ嘘をついたのでしょうか。言えない事情があるのでしょうか。
ですが、そのようなことなどどうでも良いのです。私は指示されたことのみをやるだけですので、どのような事情があるにしろ、私個人には関係のないことなのですから。
ようやく気持ちに折り合いを付けた時、腹の虫が鳴りました。先ほど買ったあんぱんを一口頬張ると、甘みとほんのり塩気のあるあんこが頬を刺激します。あんこの周りを覆っている柔らかい生地も、口の中で解けていくようです。
「お……し、い」
今、何が起こったのでしょうか。
私の耳に響いたのは、確かに私の声でした。この声は本当に私が発したものなのか、確かめるようにもう一度口を動かしました。
「お……おい、しい」
その瞬間、意図せず涙が溢れました。
塩気が増したあんぱんを頬張りながら、今まで感じたことのない喜びを噛み締めたのです。先生が治してくださると言っていた私の病が、このような形で声が出るとは思いもしませんでした。
翌朝、先生を驚かせようと思った私は、珈琲を飲みに居間へいらした先生に声をかけたのです。
「――― お、おはよう、ございます」
先生の目は点になっていました。
言葉が発せるようになったとしても、どもったりつっかえたり、上手く言葉が出てきません。ですので、呼吸を整えながらゆっくりとした口調で、昨夜の出来事を伝えました。
「なるほど。それは感情を取り戻した証拠だ。人によってそのきっかけは様々だが、かやの場合は“あんぱん”なのだろう。新しい環境で不安もある中、きみは弱音を吐かず毎日希望を持って取り組んでいた。その心の変化に相乗して、蓋をしていた感情に働きかけたのかもしれないね」
「せっ……先生のおかげ、です」
「いや、私は何もしていないよ。かや自身の力で過去の心の傷を克服したんだ。本当によかったね。これからは自分に自信を持って、焦らず話す練習をしていくといい」
「――― はい」
先生はそのようにおっしゃっていますが、このお屋敷に来たことがすべてのきっかけなのです。以前の生活でしたら、あんぱんを買うこともできませんでした。
そして、感情の解放によって言葉を発せるようになったのは、美味しいものを食べたからではありません。あの時、あの開かずの部屋の前に行った時、先生の瞳の奥に果てもない闇が潜んでいるように感じました。いつも優しい先生に初めて「恐怖」という感情を抱き、手が震えてしまったのは本能的な防衛だったのでしょう。私からすれば、その感情こそがこれらの契機であると認識しています。
ですが、私は先生に対して嫌悪感などありません。何不自由のない生活を与えてくださり、医者という仕事に真摯に取り組む先生を心から尊敬しているからです。
私は、先生のお力になりたいのです。
先生は私が淹れた珈琲を一口飲むと、安堵の息を吐きながら「美味しい」と呟きました。朝露の涼やかさも、日が高くなればすぐに溶け、灼ける陽気に変わってしまいます。それを人生と比喩するのなら――― 私はその運命を、ただ受け入れるほかありません。
ヒグラシと牡丹 とづきこう @kou_meme
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