代理ミュンヒハウゼン症候群の系譜

奈良まさや

第1話

「代理ミュンヒハウゼン症候群の系譜」



第一章:運命の一冊


小学校5年生の美咲は、図書室の奥の埃っぽい棚で一冊の本を見つけた。『代理ミュンヒハウゼン症候群—愛という名の病理』。表紙の文字を読み上げながら、美咲の心に何かが芽生えた。


「これだ」


美咲は本を胸に抱きしめた。将来への道筋が、まるで天からの啓示のように明確に見えた。代理ミュンヒハウゼン症候群になること。それが彼女の人生の目標となった瞬間だった。


もちろん、その時の美咲は病気の深刻さなど理解していなかった。ただ、「特別な存在になれる」という漠然とした憧れだけが彼女を突き動かしていた。


第二章:危険な共犯者


美咲の計画は緻密だった。まずは結婚相手を見つけること。そのためには自分を魅力的に見せる必要がある。高学歴で控えめ、そして薬剤師という専門職、実行力のある—完璧な妻の条件を満たすためのロードマップを描いた。


国立薬科大学の受験当日、美咲は替え玉受験という大胆な手段に出た。従姉妹の秀美に身分証明書を貸し、自分は別の会場で秀美として受験した。


「お互い様よ」秀美は妖艶に微笑みながら言った。「私も将来、あなたに頼むことがあるかもしれないし。というか、私の人生にドラマが必要なの。あなたの計画、とってもエキサイティングじゃない?」


秀美の目には異常な輝きがあった。演技性パーソナリティ障害を患う秀美にとって、美咲の危険な計画は最高のエンターテイメントだったのだ。


「ねえ美咲、私もあなたの計画に参加させて。きっと素晴らしいショーになるわ」

美咲は血を呪った。


結果は見事合格。美咲は晴れて薬学部生となったが、秀美という予想外の共犯者を得ることになった。


第三章:氷の海での試練


ベーリング海峡。氷に覆われた海で蟹漁船に乗り込んだ美咲は、他の乗組員たちから奇異の目で見られていた。


「なんで薬学生のお嬢ちゃんがこんなところに?」


「金です。体力と気合があるんで」美咲は淡々と答えた。


正直すぎる答えに乗組員たちは絶句した。しかし、美咲の真面目な働きぶりは徐々に彼らの心を掴んでいく。嵐の夜、船が大きく傾いた時も、美咲は黙々と蟹を仕分けし続けた。


「あんた、本当に変わってるな」船長が苦笑いしながら言った。「でも、嫌いじゃない」


3ヶ月間の過酷な労働で、美咲は精神的にも肉体的にも鍛え上げられた。予定していた金額をきっちり稼いで陸に上がった時、彼女の体力と忍耐力は常人を遥かに超えていた。整形手術は大成功。もともと悪くなかった顔立ちが、さらに洗練された美しさを手に入れた。


第四章:デジタル侵入と秀美の暴走


薬剤師国家資格の取得に向けて、美咲は最後の仕上げに取りかかった。ハッキングによる試験システムへの侵入だ。


深夜のアパートで、従姉妹の秀美にも手伝ってもらい、美咲は複数のモニターに向かってキーボードを叩き続けた。


「もっとドラマチックにやりましょうよ」秀美は興奮気味に言った。「例えば、システムに侵入した証拠を残すとか。スリルがないと面白くないじゃない」


「やめなさい、秀美。これは遊びじゃない」


しかし秀美は聞く耳を持たず、勝手に別のシステムにもアクセスを試み始めた。美咲は慌てて秀美を止めた。


「あなたの人生、もっと刺激的にしてあげるわ」秀美は妖しく笑った。


72時間の格闘の末、美咲はシステムに侵入成功。自分の解答を修正したが、秀美の余計な行動が後々のトラブルの種となるのではないかと危惧し始めた。


第五章:世界規模の婚活と秀美の干渉


27歳になった美咲は、ついに本格的な婚活を開始した。世界中のマッチングアプリに登録し、理想の男性を探した。


しかし秀美は勝手に美咲のプロフィールに手を加え始めた。


「もっと魅力的に見せてあげるわ」秀美は美咲の写真を無断で加工し、経歴にも嘘を混ぜ込んだ。「私って親切でしょ?」


美咲は秀美の行動に困惑したが、結果的により多くの男性からアプローチを受けることになった。


第六章:運命の出会いと秀美の嫉妬


29歳の誕生日を目前に控えた美咲の前に、田中慎一が現れた。31歳、都庁職員。穏やかで純真な彼に、美咲は運命を感じた。


しかし秀美は美咲の恋愛に嫉妬を覚えた。


「つまらない男ね」秀美は慎一を品定めするように見た。「私だったらもっと面白い男を選ぶわ」


「余計なお世話よ」美咲は初めて秀美に強く言い返した。


交際3ヶ月でプロポーズ、そして結婚。カニ漁の話はウケた。

秀美は結婚式で「美咲の親友代表」として涙ながらにスピーチをし、注目を一身に集めた。


第七章:新たな命と計画の始動


30歳で第一子を授かった美咲は、娘にひかりと名付けた。美咲は初めて、計画以外の純粋な愛情を覚えた。


しかし同時に、長年の計画の最終段階が始まろうとしていた。


第八章:完璧な演技と秀美の妨害


薬剤師としての知識を駆使し、美咲は自分に軽いアレルギー反応を起こさせ始めた。

まずは慎一の心配と愛情を引き出すためだった。


しかし秀美は突然美咲の家に現れ、勝手に看病を買って出た。


「美咲が心配で来たの」秀美は慎一の前で大げさに涙を流した。「私たち、子どもの頃からずっと一緒だったから」


秀美の演技性パーソナリティ障害の症状が全開となり、慎一の前で美咲以上に病弱で可憐な女性を演じ始めた。


「秀美さんも体調が悪そうですね」慎一は心配そうに言った。


美咲は自分の計画が狂わされることに焦りを感じた。


第九章:夫の覚醒


ある日、慎一は美咲の薬箱を整理していて、見慣れない薬を見つけた。


「美咲、この薬は何?」


その時、秀美が口を挟んだ。


「ああ、それ私が知ってる」秀美は無邪気な顔で言った。「美咲、昔からそういう薬に詳しかったの。自分で症状を作るのがすごく上手で」


美咲は血の気が引いた。秀美は確信犯だった。


しかし慎一は、美咲を糾弾する代わりに静かに言った。


「美咲、ひかりの手の届かないようにね」


慎一の目には、美咲と同じ病的な輝きが宿っていた。妻とひかひへの歪んだ愛情。

偶然にも、同じ血が結婚相手に夫に流れているのだ。なんと数奇な運命であろう。

彼も代理ミュンヒハウゼン症候群なのだ。


第十章:毒杯の真実


美咲の人体実験も終わりを迎えていた。もう自分の体に薬を投与する必要はない。計画は完璧に機能していたからだ。


リビングでは慎一が『小児アレルギー反応の症例集』を熱心に読んでいた。夫の目には確かに、美咲と同じ病的な輝きが宿っている。


「お疲れさま」


美咲は高級シャンパンのボトルを持ってリビングに現れた。グラスに注がれた黄金色の液体が、夕日に照らされて美しく輝いている。


「何のお祝い?」慎一は本から顔を上げた。


「私たちの...理解に」美咲は意味深に微笑んだ。


二人はグラスを合わせ、乾杯した。慎一は一気に飲み干し、美咲も口をつけた。


しかし数分後、慎一の顔色が変わり始めた。


「美咲...なんだか...」


美咲は慌ててトイレに駆け込み、口の中の液体を全て吐き出した。そして鏡の中の自分を見つめながら、心の奥底から叫んだ。


「私が愛しているひかりに、毒なんか飲ませると...殺すよ!」


「ひかりは私が守る!絶対に!」


リビングに戻ると、慎一は苦しそうに倒れ込んでいた。


「さっきのシャンパン、ギリギリ致死量だから。早く救急車呼んだ方がいいよ」


美咲の声は恐ろしいほど冷静だった。


その時、3歳のひかりが部屋に入ってきた。


「ママ?パパ?」


小さな手を伸ばしてパパに近づこうとするひかり。その瞬間、美咲の中で何かが完全に砕け散った。


母親と父親の100%代理ミュンヒハウゼン症候群の血が、まるで浄化されるように消えていくのを感じた。


「ひかり...」


美咲の心の叫びが響いた


「私は何をしていたの?!この子を、この無垢な光を、私の病んだ欲望の道具にしようとしていたなんて!」


「ひかりの笑顔、ひかりの寝顔、ひかりの『ママ』という声...それらは全て、計算でも実験でもない。純粋な愛なのに!」


「私は母親だ!この子を守る母親なんだ!病気の美咲じゃない、ひかりのママなんだ!」


「代理ミュンヒハウゼン症候群なんてクソくらえ!私はこの子を愛してる!本当に、心の底から愛してるんだ!」


美咲は震える手で救急車を呼んだ。そして慎一の意識が戻るまで、ひかりを抱きしめながら待ち続けた。


この瞬間、小学5年生の時に図書室で抱いた歪んだ夢は完全に終わりを告げた。新しい美咲の人生が、ひかりという光と共に始まったのだった。


救急車のサイレンが遠くから近づいてくる中、美咲はひかりを抱きしめていた。小さな温もりが、自分の体温と混じっていく。


「ひかり……ごめんね、ママ、もう絶対こんなことしない」


「うん……ママがいちばんだよ」


その時、ふと、ひかりの小さなポケットから一粒の錠剤が転がり落ちた。


美咲が顔を強張らせる。


「それ……どこで?」


「だって、これあげるとパパが“優しい顔”になるから……ママが飲んでるの見て、ひかりもやってみたの。ひみつ、だよ?」


美咲は、その一粒を見つめた。

それは、彼女が一度だけ口にした、眠気を誘うアレルギー薬だった。


ぞっとした。

教えていない。

与えてもいない。

だが、見ていた。真似をした。愛するがゆえに。

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代理ミュンヒハウゼン症候群の系譜 奈良まさや @masaya7174

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