どうか、どうか、呪われますように……。──或る呪いの手記より

乃東 かるる@全快

第一回:藤の香りと、薄紅の衣

呪いとは、心の奥で熟れてゆく果実のようなもの。

 

「どうか、どうか、呪われますように……。」

 

わたくしの胸中で、その言葉は何度も、何度も、反芻はんすうされます。

 

口に出せばけがれてしまうかのような呪詛を、わたくしは日々、胸の奥底で育てておりました。この屋敷の広間から見える藤棚は、今年も見事に咲き誇り、甘やかな香りを邸内に満たしております。ああ、しかし、この芳しさがどれほどわたくしの心を苛むことでしょうか。


この家に嫁いで十二年。夫は、わたくしを何不自由なく養ってくださいました。


夫、鷹司宗親たかつかさむねちかは、先代子爵の長男にあたり、いまは大蔵省に籍を置く身でございます。政財界に太い縁を持つ彼は、邸に戻るたび、銀座の料亭や上野の画廊、あるいは新橋の舞台裏の話を、幾度も嬉々として語っておりました。

 

金銭も、着る物も、食べる物も、わたくしには潤沢じゅんたくに与えられ、周囲からは羨まれるばかりでございました。

わたくしも、そのような夫に感謝し、慎ましく、そしてひたむきに、妻としての務めを果たしてまいるつもりでございました。


しかし、この世の美しいものには、往々にして毒が潜むもの。藤の花の紫は、どこかうれいを帯びておりますし、この邸宅の静けさも、わたくしにとってはただの重い沈黙でしかありませんでした。


あの女が現れたのは、今年の春先でございました。


夫が贔屓ひいきにしているという銀座・料亭「葉月」の女将の姪御だと申しましたか……。


とある夜会で、夫が親しげに女性と話しているのをお見かけしたのが、始まりでございました。


薄紅の訪問着ほうもんぎを召され、白いうなじがはっとするほど美しく、ふわりと香る藤の花に似た甘い匂いは、どこかあでやかでございました。


けれど、何よりわたくしの心に残ったのは、その女の微笑でございました。どこか人を見透かすような、あるいは、品よく包んだ嘲りのような……あれは、上等な香水に潜む、わずかな硫黄の匂いのようなものでございます。


夫は、その日以来、何くれとなくその女の話題を口にするようになりました。


「料亭 葉月のあの娘は、教養がある」


「あの娘は、実に気が利く」


と。初めのうちは、ご贔屓ひいきの店の人間に気を配るのは当然のことと、さして気にも留めておりませんでした。


しかし、その言葉の端々から感じられる、ある種の熱。

そして、わたくしを見る夫の眼差しから、次第に熱が失われていくのを感じた時、まるで、私の顔の向こうに、別の誰かの姿でも映っているかのような、遠い眼をしておりました。


……心に得体の知れない冷たいものが忍び寄ってまいりました。


あれほど注がれていた情愛が、徐々に、しかし確実に、別の場所へと移ろいでいくのを、ただ黙って見ていることしかできませんでした。


それは、まるで、わたくしの中から血が抜かれていくような、静かで、しかし確かな死の感覚でございました。

そしてその夜、ひとつの“願い”を、心に据えました。


――どうか、どうか、あの女が呪われますように。


---


### 次回予告


あの人の手は、誰の肌に触れているのかしら……?


白檀じゃない、もっと安くて甘ったるい、浅ましい匂い――アタシには、よくわかる……ご同類だもの……。

 

背を向ける夫。冷えた膳。

ひとつ、またひとつ、奥方は絶望を積み重ねちまうのかねぇ……。


ふふ……さあ、次はどんなお顔を見せてくれるかしら。


■次回更新は7月30日です

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