酒居目―妖怪と人の境にある店―

無頼興索

第一話 境目の居酒屋

 私の人生に彩りと不可解を植え付けたあの店は、今でもその場所に在り続けている。


* 


 長夜である。その店はどう見ても営業する気のない場所にあった。


 人一人がようやく通れるくらいの細い路地には看板らしきものすらない。ただ燈として〝蕎麦・肴 酒居目〟と書かれた赤い提灯が一つ、風が吹けば消えそうなほど頼りなく灯っていた。


 それでも店は盛況しているようで、ほの暗い街路の静けさの中、そこだけ時間が生きているような不気味な空間が私を誘い込んだ。


 しかし私は、暖簾をくぐったことをすぐには後悔できなかった。


 店内にいる若い男と目が合う。アルバイトかと思ったが、白い割烹着を着て蕎麦を打つ包丁使いが妙にこなれている。店内を見ても他に店員のような姿はないので、そこで初めて彼が店主だと気がついた。


「いらっしゃい。お好きな席へどうぞ」


 やけに朗らかに店主は言って歓迎し、少年のように歯を見せて笑う。


「蕎麦も酒もあるよ、腹減ってるだろ?」


 少しハスキーな声と人懐っこい笑顔はすぐに私の緊張を解いた。カウンターの真ん中に腰を下ろし、蕎麦と燗酒を注文する。待つ間私は、店主の骨ばった大きな手が小気味好いリズムでまな板を打ち、茹でる蕎麦を気にしながら他の客と話しているのを前髪の間から眺めていた。


 気付けば湯気の立つ蕎麦が眼の前にあった。出汁の香りが腹の底を鳴らし、冷えた体に酒が染み渡る。一口で不思議と懐かしい気持ちになり、とても落ち着いた。


「学生さん?」


 蕎麦をすすっていた私に店主が気軽に声をかけた。


「あ、はい。まあ、いちおう」

「おー若いね、何やってるの?」

「えっと、商学部です」

「商学部! いいね、人間らしくて。飯と金が世のすべてって言いきってくれるとこだ」


 私は苦笑しながら酒を一口飲む。まろやかで喉の奥がじんわりと温かくなるような味。手打ちの蕎麦は熱すぎず、すきっ腹に流し込むのにちょうどいい。初めての味だ。


「こんなおいしい店があるなんて知らなかったです」

「嬉しいね。まあ、見えたやつしか見えない場所だから知らなくて当然だ」

「へえ」


 と、また酒を入れる。ここの店主は飄々としていてよく笑うが、その眼の奥にはどこか冷たさを感じる。どうしてか、酒を入れても全く酔えない。


 ふと空席の右隣から風を感じ、煙の臭いが鼻をかすめた。思わずそちらを振り向くが誰もいない。


「……誰か居ました?」

「居たよ。ちょっと前に来た常連さんだけど今夜は〝声だけ〟のご来店でね」

「声だけ?」

「姿があると昔の嫌なことを思い出しちゃうんだって。俺は好きなんだけどなー渋くて」


 酒に飲まれて頭が回らないのか、雰囲気にのまれて騙されているのか。しかしながら妙に納得してしまった。そのまま店内を見渡してはじめて〝異常たち〟が目に入る。


「ここはなんなんですか」


 つい、口から漏れ出た。普通の店じゃない、時計はすでに零時を超えて得体のしれない空気が漂う――でも不思議と居心地は悪くない。


 店主は箸を置いて、少しだけ真顔になった。少し日焼けた透き通った肌、彼の眼は吸い込まれそうなほど大きくて、暗い。少し開かれた口からは本能的に恐怖すら感じて、身構える。


「〝酒居目〟っていうのはね、人と人じゃないものが一緒に酒を飲める唯一の場所なんだよ」


 瞳孔が小さくなるのを感じた。冗談――にしてはあまりに突飛で重い。店主は何も不思議なことがなかったかのように、また笑って作業を続ける。


「安心しなよ。あくまで境目、ここは共存する場所だから。いつでも帰れるし、見えればいつでも来れる。また来たいと思えば、見えるかもね。」

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