「とても小さな一人の狐」
@Fnyoi
とても小さな一人の狐
反り返った岩の影に隠れるように小さく建てられた
天狐は、志望校に合格しますように、大きな家が買えますように、母の病気が治りますように、などと書かれた
天狐が6歳のころに母を病気にて亡くし、自分を天狐と名乗り始めてから10年が経った。天狐の母が亡くなる少し前に、全ての星の母である太陽神
天狐が狐の面を被り始めて数ヶ月程たった頃、彼はテレビで昔にあった流星の話を聞く。
新しくやってきた母は面を被り続ける天狐を気味悪がらず、優しく接してくれた。天狐はそのことに感謝こそすれ中々本当の母だと思うことができずに、新しい母とも馴染めずに年を重ねた。
新しい母は、顔すら知らない彼をいつも気にかけ食事や小遣いを渡してやっていたが、天狐は黙って頭を下げて受け取るだけで本当の狐さながら一言も話さなかった。
ある日、具合が悪くなった天狐が自分の部屋で寝込んでいたとき、彼女が廊下で啜り泣く天狐の声を聞いて台所から白湯とチョコレートを盆に載せて持っていき、彼の部屋のドアを叩いた。3度ドアを叩くことを2度繰り返しても返事が無いので彼女は「天狐さん、入りますよ」と小さく声をかけてドアを開けた。ドアの正面の壁に沿って置かれたベッドの上で壁へ顔を向けて横になりながら啜り泣く天狐に向かって
「白湯とチョコレートを持ってきましたから、置いてゆきます。暖かくしてくださいね」盆をベッド脇のテーブルに置き、振り返ってドアを開けようとすると
「いつもありがとうございます。母さん」
細く切った和紙を何本も重ねて
彼女はドアを見つめたまま涙を床に落とし、部屋から出ていった。
岩の真下はひんやりとした空気が巡っており、天狐は自身に神秘的な力が宿っていくのではないかと思えるほど、何か違った空気を感じさせ、毎日ようにここへ通っている彼が一番心落ち着ける場所であった。千年生き延びて天に向かえる狐になるという自身の願いも通ずるはずだと、百度参りのように通いつづけた。最近では、空高く昼間の
天狐は、上に向けた頭を戻し、人気のない場所に回り込んで岩を狐のごとく駆け上がり、
僕は本当に天狐になれるのだろうか。あと984年もここで待ち続けるしかないのか。陽が真下に落ちて現れる暗闇が天狐の遠近感を奪っていく。座り続けていると体が宙に浮かび上がる感覚に達し、そうして不安が少し紛れたところで天狐はヤモリのように這って岩を降りて行った。
「ちょっと一緒に食べませんか」
いつものように机の上に並べられた食器を盆に載せて部屋に運ぼうとしている天狐に彼女は声をかけた。天狐は特に頭で何かを考えていた訳ではなかったが、その場で少し動きをとめて引き返し席に着いた。
彼女も、声を掛けてはみたが、席に着くなんて思ってもみなかったので目を開いて驚いた。父も天狐が引き返して席に着くまでを、子供が低く飛ぶ飛行機を追いかけるみたいに、一度の瞬きもせず顔で動きを追った。
天狐は席に座るとすぐに食事を始めた。部屋の隅に隠していたお菓子を見つけられたような妙な気恥ずかしさを勝手に感じながら、面を少し持ち上げ口に少しずつ口へ運んでいく。
「今から茄子の揚げ
天狐の返事を待たずに、茄子が油の中で音をたてた。
「どうですか? うまくできたと思うのですけど」
天狐は茄子を頬張った。
町では数週間前から「再接近する彗星」の話題がざわめきのように広がっていた。十六年前に観測された大彗星が、地球の近くを通るのだという。ニュースでは「落下する可能性は極めて低い」と繰り返していたが、奈良を中心に半径20キロメートルに避難勧告が出された。
お祭りのように騒ぐものもいれば、避難を口実に旅行に出る者もいた。だが天狐はそれを“ただのニュース”としては聞かなかった。
あの星は、迎えにきている。
天狐はそう思った。
星は母のいるところからやってきたのだと信じていた。
あれは天からの船だ。千年を待たず、祈りが通じて迎えにきてくれたのだと、天狐は信じた。
その日の夕方になって、ようやく父が車に荷物を詰め始めた。
父は新しい母を助手席に乗せてやってから、トランク側を回り込んで運転席に乗り込もうとした時、天狐に呼び止められ振り返った。そこには面を外した天狐が立っていた。
「……母さんに会いに行こうと思います」
父は天狐が面を外していることに驚く素振りも見せず、ゆっくりと彼に近づき、久しぶりに見た我が子の瞳をまっすぐ見つめた。
「……マリに会ったら、元気でやっていると伝えてくれないか」
「はい。必ず伝えます。父さんも、母さんを大事にしてください」
天狐が微笑むと、父の目尻に刻まれる皺が緩むように深みを増した。
父は車に乗り込むと、助手席の母に向かって、シュウはマリに会いに行くから置いていくと伝え、エンジンをかけた。母は「停めてください!置いていかないで」とインナーハンドルを激しく引いたが、扉は開かず車はそのまま動き出した。
振り返る母に天狐は深く頭を下げ、面を着けて
天狐は幾度となく通っている
「
天狐は、指の腹でなぞったその言葉を心の中で繰り返した。
僕は掴まなくてはならない。船が石になってしまう前に、乗り込まなくてはいけない。雨など必要としなくても空に架かる虹を、落ちることなく渡りきるが如き天文学的確率であろうと。
白い尾を引く星が、燃えるように空を裂いてくる。天狐は自分に向かって近付いてくる星に目を
爆発するような光の中で、天狐は母の声を聞き母の匂いを嗅ぎ、母の笑顔を見た。
手を伸ばした小さな狐の影が、天へと溶けていった。
「とても小さな一人の狐」 @Fnyoi
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