「とても小さな一人の狐」

@Fnyoi

とても小さな一人の狐


 天狐てんこは、奈良の生駒いこまと大阪の交野こうのとの境に流れている天野川の上流に、川を跨ぐように建てられている磐船いわふね神社にいた。そこに御神体としてまつられている高さ12メートルの、鯨が跳ねるようにけ反った形をした天磐船あまのいわふねと呼ばれている岩を見上げて、小さく息を吐いた。

 反り返った岩の影に隠れるように小さく建てられた拝殿はいでんの前に、幾つもの絵馬が吊るされている。

 天狐は、志望校に合格しますように、大きな家が買えますように、母の病気が治りますように、などと書かれた幾重いくえにも重なる絵馬をめくりながら、それらの願いが全て叶えばいいと考え、もう一度船を見上げた。



 天狐が6歳のころに母を病気にて亡くし、自分を天狐と名乗り始めてから10年が経った。天狐の母が亡くなる少し前に、全ての星の母である太陽神天照大神アマテラスオオミカミから大和ヤマト建国の神勅しんちょくを拝し、高天原タカマガハラより天磐船アマノイワフネで降臨した饒速日命ニギハヤヒのミコトを奉る祭りがあり、そこで彼の母は天狐に「きっと似合うわ」と目の部分を赤く縁取った狐の面を彼に買ってやった。程なくして母が亡くなり、それから天狐は母から買い与えられた狐の面を、風呂に入る時以外は被って生活をするようになった。天狐の父も初めは母が死んで悲しいのだろうと、無理に外させることはしなかったが、息子の顔も思い出せなくなる頃には、村の人間たちと同様に少し気味悪がるようになり彼と会話をすることはほとんど無くなっていった。

 天狐が狐の面を被り始めて数ヶ月程たった頃、彼はテレビで昔にあった流星の話を聞く。舒明じょめい天皇9年­―西暦673年―に巨大な星が轟音と共に東から西に流れた。そしてそれは星ではなく天狐アマキツネであったという。天狐てんこはそれを自分のことだと思い込んでしまった。被った面の、目の部分に開けられた隙間から微笑む母の顔が見えたことを天狐は思い出すのと同時に、母が死んで直ぐ、「母は死んでどこに行ってしまったのか」と、死というものについて飲み込めていなかった彼が父に訊いた時、父が「母さんは星に還ったんだよ。ほら! 今、光っただろう?」と、偶々たまたま流れた小さな流星を指差し、自分が嬉しそうに手を叩いて笑ったことを思い出した天狐は、母が狐の面を自分に買い与えたのはそういうことだったのかと、小さな星が彼の頭の中で光り輝いた。そして自分を千年の時を経て、天に通じる天狐というものになるのだと信じこんでしまった。——その年また大きな彗星が近づいているとテレビのキャスターが言っていた。神話と同じ年数が巡っているのだという。天狐はその話を何処か運命のように聞いていた。

 新しくやってきた母は面を被り続ける天狐を気味悪がらず、優しく接してくれた。天狐はそのことに感謝こそすれ中々本当の母だと思うことができずに、新しい母とも馴染めずに年を重ねた。

 新しい母は、顔すら知らない彼をいつも気にかけ食事や小遣いを渡してやっていたが、天狐は黙って頭を下げて受け取るだけで本当の狐さながら一言も話さなかった。

 ある日、具合が悪くなった天狐が自分の部屋で寝込んでいたとき、彼女が廊下で啜り泣く天狐の声を聞いて台所から白湯とチョコレートを盆に載せて持っていき、彼の部屋のドアを叩いた。3度ドアを叩くことを2度繰り返しても返事が無いので彼女は「天狐さん、入りますよ」と小さく声をかけてドアを開けた。ドアの正面の壁に沿って置かれたベッドの上で壁へ顔を向けて横になりながら啜り泣く天狐に向かって

「白湯とチョコレートを持ってきましたから、置いてゆきます。暖かくしてくださいね」盆をベッド脇のテーブルに置き、振り返ってドアを開けようとすると


「いつもありがとうございます。母さん」


 細く切った和紙を何本も重ねてったような、水を垂らせばすぐ途切れる声で天狐が言った。

彼女はドアを見つめたまま涙を床に落とし、部屋から出ていった。



 岩の真下はひんやりとした空気が巡っており、天狐は自身に神秘的な力が宿っていくのではないかと思えるほど、何か違った空気を感じさせ、毎日ようにここへ通っている彼が一番心落ち着ける場所であった。千年生き延びて天に向かえる狐になるという自身の願いも通ずるはずだと、百度参りのように通いつづけた。最近では、空高く昼間のしろんだ空にうっすら筋のように残るものを、天狐は何度か見た。誰も気がついてないその現象を天狐だけが見ていた。

 磐船いわふねの背後には、人の背丈をゆうに超える巨岩きょがんがいくつも積み重なっており、人ひとりがなんとか通れるほどの隙間が連続して、巌窟がんくつになっている。かつては僧達が修験場しゅげんじょうとして使用していた場所で現在は立ち入り禁止となっているが、時折有料にて参拝客向けに開放されている。体をくねるようにして通り抜けると生まれた時を体験でき、悪い気を払えるのだという。天狐は、ただの岩の隙間を通り抜けたからといって何も変わるはずがないと試すこともしなかった。

 天狐は、上に向けた頭を戻し、人気のない場所に回り込んで岩を狐のごとく駆け上がり、磐船いわふね船首せんしゅに座りこんだ。

 僕は本当に天狐になれるのだろうか。あと984年もここで待ち続けるしかないのか。陽が真下に落ちて現れる暗闇が天狐の遠近感を奪っていく。座り続けていると体が宙に浮かび上がる感覚に達し、そうして不安が少し紛れたところで天狐はヤモリのように這って岩を降りて行った。



「ちょっと一緒に食べませんか」

 いつものように机の上に並べられた食器を盆に載せて部屋に運ぼうとしている天狐に彼女は声をかけた。天狐は特に頭で何かを考えていた訳ではなかったが、その場で少し動きをとめて引き返し席に着いた。

 彼女も、声を掛けてはみたが、席に着くなんて思ってもみなかったので目を開いて驚いた。父も天狐が引き返して席に着くまでを、子供が低く飛ぶ飛行機を追いかけるみたいに、一度の瞬きもせず顔で動きを追った。

  天狐は席に座るとすぐに食事を始めた。部屋の隅に隠していたお菓子を見つけられたような妙な気恥ずかしさを勝手に感じながら、面を少し持ち上げ口に少しずつ口へ運んでいく。

「今から茄子の揚げびたしを作りますね。小さい頃よく食べてらしたんですってね。お父さんから聞きました。今でも好きですか」

 天狐の返事を待たずに、茄子が油の中で音をたてた。

「どうですか? うまくできたと思うのですけど」

  天狐は茄子を頬張った。おぼろげに残る記憶の味とは違ってはいたが、茄子を噛み潰しながら天狐は閉じた目の奥にせまるような熱を感じていた。茄子を飲み込み彼の斜向はすむかいに座る母に向かって軽くお辞儀をして正面を向くと、天狐の鼻腔びくうから鼻水が面の中でたらりと垂れた。天狐は新しい母のそ優しさの中を水面に向かって泳いでいくことで、母の影を忘れてしまうのではないかという困惑により、心臓の方から体全体に逼迫ひっぱくされるものを感じうつむいて泣いた。父も母も箸を止め、彼を見ている。彼らの耳に古い換気扇の羽がうるさく回る音だけが鳴る中、天狐の鼻を啜る音が混ざって響いた。


  町では数週間前から「再接近する彗星」の話題がざわめきのように広がっていた。十六年前に観測された大彗星が、地球の近くを通るのだという。ニュースでは「落下する可能性は極めて低い」と繰り返していたが、奈良を中心に半径20キロメートルに避難勧告が出された。

 お祭りのように騒ぐものもいれば、避難を口実に旅行に出る者もいた。だが天狐はそれを“ただのニュース”としては聞かなかった。


 あの星は、迎えにきている。

 天狐はそう思った。

 星は母のいるところからやってきたのだと信じていた。

 あれは天からの船だ。千年を待たず、祈りが通じて迎えにきてくれたのだと、天狐は信じた。


 その日の夕方になって、ようやく父が車に荷物を詰め始めた。

父は新しい母を助手席に乗せてやってから、トランク側を回り込んで運転席に乗り込もうとした時、天狐に呼び止められ振り返った。そこには面を外した天狐が立っていた。


「……母さんに会いに行こうと思います」


 父は天狐が面を外していることに驚く素振りも見せず、ゆっくりと彼に近づき、久しぶりに見た我が子の瞳をまっすぐ見つめた。


「……マリに会ったら、元気でやっていると伝えてくれないか」


「はい。必ず伝えます。父さんも、母さんを大事にしてください」


 天狐が微笑むと、父の目尻に刻まれる皺が緩むように深みを増した。

 父は車に乗り込むと、助手席の母に向かって、シュウはマリに会いに行くから置いていくと伝え、エンジンをかけた。母は「停めてください!置いていかないで」とインナーハンドルを激しく引いたが、扉は開かず車はそのまま動き出した。

  振り返る母に天狐は深く頭を下げ、面を着けて磐船いわふねへと走っていった。


 磐船いわふね船首せんしゅから見える町の明かりは消えていた。天狐は胡座あぐらをかいて座りこんだ。風が頬を撫でる。母が祭りで汗を拭ってくれた感覚に似ていた。——きっとここに落ちてくる。天狐は確信めいたことを感じていた。

 天狐は幾度となく通っている磐船いわふねの岩肌に何か文字が刻まれていることに、ついさっき気がついた。

星隕ほしおちていしとなる」

 天狐は、指の腹でなぞったその言葉を心の中で繰り返した。


 僕は掴まなくてはならない。船が石になってしまう前に、乗り込まなくてはいけない。雨など必要としなくても空に架かる虹を、落ちることなく渡りきるが如き天文学的確率であろうと。


 白い尾を引く星が、燃えるように空を裂いてくる。天狐は自分に向かって近付いてくる星に目をすがめる。

 爆発するような光の中で、天狐は母の声を聞き母の匂いを嗅ぎ、母の笑顔を見た。


 手を伸ばした小さな狐の影が、天へと溶けていった。








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