あの夏、私はまだ描かれていた

@owl_key_note

第1話 誰にも見せない絵

夏休み前の午後は、どうしてこんなにも、空気が埃っぽいんだろう。


教室の窓がひとつ開いていて、カーテンがだらしなく風に煽られていた。誰かが帰り際に開けたままにしていったんだろう。私はいつも通り、誰がそれをやったのかなんて考えずに、そのまま通り過ぎた。


部室は二階のいちばん端にある。美術部。正確には、「美術部だった場所」かもしれない。


もうほとんど誰も来ない。顧問の先生さえ顔を出さないことがある。けれど、今日は“掃除日”だからという理由で、出席だけは取られることになっていた。私は真面目なわけじゃない。ただ、そういう日だけ、来る理由があることがありがたかった。


部室の鍵はすでに開いていて、扉の隙間から冷え切った空気が流れ出している。誰かが早めに来て、クーラーをつけていたらしい。けれど部屋の中には誰もいなかった。


奥のロッカー。誰も使っていない棚の下、床と接しているその狭い隙間に、黒い背表紙のものがあるのが目に入った。


しゃがんで、それを指先で引き出す。埃がついていたが、紙の質感はしっかりしていた。

スケッチブックだった。


「……これ、ずっとあったのかな」


そう呟いた声が、思っていたのでいたより大きく響いた気がして、思わず口を閉じる。

指先が、表紙をほんの少し撫でる。その手のまま、そっと開いた。


一枚目は、なにも描かれていなかった。二枚目も。その次のページで、ようやく鉛筆の跡が現れる。


——校舎裏の自販機。見覚えのある配置、並び。曇った缶コーヒーの窓。

三枚目、図書室の窓辺。四枚目、坂道の途中にある消えかけた横断歩道。

どれも知っている場所。どれも、誰もいない風景。


けれど五枚目の絵で、私は、指先を止めた。


描かれていたのは、部室のドア。少しだけ開いたその隙間の向こうに、机の前でじっと座っている——

それは、たぶん、私だった。


長い前髪。くるぶしまで届く制服の裾。手が、机の端をなぞっている。


「……これ、……わたし?」


声は、小さく、喉で折れた。

誰かが描いた私。誰かの目の中の、私の姿。


——こんなふうに、私は、見られていたのか。


ページを閉じようとしたとき、最後の裏に小さく文字が書かれているのに気づいた。


《誰にも見せないで》


それは、命令とも懇願ともつかない、擦れた鉛筆の線だった。


私はしばらく、その言葉を眺めていた。

そこで少し笑ってしまった。


——見せないでって書いてあっても、見つけてしまった以上、

私はもう、見たことを“持っている”んだ。


……風が吹いていた。部室のドアが、ほんの少し軋んだ。


その音に、思わず視線を向けた私は、スケッチブックを膝の上に置いたまま、ただ黙っていた。

誰もいない。

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