旅立ちと遺したもの




まだ夜の名残が消えきらぬ朝。

雪華堂の戸口に、ひとつの人影が立っていた。

それは荷を背負い、刀を携え、すべてを静かに受け入れた目をした男、久坂玄瑞。



皐月は、眠たげな表情のまま、彼を見つめていた。 でも、その目の奥は、すべてを知っていた。

もう、彼が戻ってこないかもしれないことを。



「…皐月先生、伊東くんをよろしくお願いします」



『……行くのですね』



皐月の声は静かで、朝風に掻き消されそうなほど小さかった。

久坂は振り返り、ほんの一拍、黙って彼女を見つめた。

彼女の姿を、目に焼き付けるように。



「ええ……行かねばなりません。 あの場所で、まだ為すべきことがある」



『止めはしません。 ……けれど』



皐月は歩み寄り、ほんの腕一本ぶんの距離で立ち止まる。



『………どうかご無事で』



その言葉を聞き、久坂は少しだけ目を伏せ、そして微笑んだ。

ヒラリと一束 こぼれ落ちた皐月の髪の毛を、優しい手つきで耳にかけ直す。

一瞬触れた久坂の指先は、硬く冷たい。



「…貴女もどうか、いつか再会するときまで…ご無事で」



それきり、彼は何も言わずに頭を下げた。

そして、一度も振り返らず、京の街に消えていった。

その背中を、皐月はただ黙って見送った。





戸の閉まる音がしてから、もう幾刻が経ったろうか。 白く霞む朝の光が、静まり返った雪華堂にじんわりと差し込んでいる。



皐月は、久坂が寝起きしていた離れの一室に、ひとりそっと足を踏み入れた。



彼の気配は、もうそこにはなかった。

けれど、襖の縁に指を触れただけで、そこにいたはずの温もりが肌をかすめるような気がした。



畳の上に、無造作に置かれた帳が一つ。

………久坂様が、忘れたのだろうか。



『……これは…』



彼の書き置き帳だ。 ゆっくりと頁をめくると、薄墨の文字が丁寧に綴られている。



《桂川流派の処方に加え、皐月先生の投薬には独自の理あり。 温と寒の配合、脈の読みと直感とが織り成す技は、筆に尽くしがたい》



所々に挟まれた余白の注釈には、久坂らしい鋭さと、どこか茶目っ気のある感想が並んでいた。



桂川流とは、漢方医学を基礎としつつ、蘭学も取り入れた、進取的な姿勢が特徴である。



《この湯液、意外に口当たり良し。ただし苦味のあとに甘みが遅れて立つ》



《病に向き合う姿勢に、己の未熟を知るばかり。 ……しばし、ここで学び続けたいと思う自分がいる。 不可解だ》



思わず皐月は微笑んだ。 くすりと笑い、そして、その次の頁で指が止まる。

そこには、整った筆致で、こう綴られていた。



《此処にて得た知、ただ理にあらず。 心をもって施す術――皐月先生のあり方、深く敬服す》



その筆致は、どこか旅支度に似ていた。

言葉の行間に、別れを前にした静かな決意が、心に染みてゆく。



机の引き出しに手を伸ばすと、奥に短冊が一枚。 やや粗い筆で、しかし迷いのない筆致で、こう綴られていた。



《縁あらば またもこの戸を叩かん

 病を診るためか、心を温めるためか

 その時までは どうか お元気で》



それは、恋文とも違う。 誓約でもない。

ただ、彼がここにいた証だ。

皐月はそれを両の掌に包み、胸にそっとあてた。




4月22日…攘夷期限が示されたあくる日に、久坂は藩医から、藩士へと取り立てられた。

しかも食禄しょくろく二十五石の身で、大組士に加えられた。



大組士は 旗本にあたる身分であり、普通五十石以上の家格の侍である。

二十五石の大組士というのは例のないことだった。 それでも久坂は、武士になったのだ。



武士となれば、まげを結うことになる。

つまり、坊主姿も 見納めであったということだ。



『…次会うときは…きっと立派な侍になっているのでしょうね』




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