ドキュメンタリー『あなたを“解体”する本 ~禁書『現象学的育児論』を追って~』

火之元 ノヒト

第1話 序章 - 発見された禁書

​(オープニング)



【テロップ(黒画面に白抜き文字)】

 ​その本は、子供から“人間”を剥ぎ取る。愛情という名の下に。



​(映像:薄暗い部屋で、ノートパソコンの明かりだけが顔を照らす、やや疲れた表情の男。ウェブメディア記者・三上大和(34)。彼が設置したビデオカメラに向かって語り始める)


​三上: 「ウェブメディア『深層ジャーナル』の三上です。……すべての始まりは、ネットの片隅で見つけた、たった一つの書き込みでした。膨大な過去ログの海に埋もれていた、匿名掲示板のスレッド。タイトルは、『あの本を探しています』……」



​(再現CG:古いデザインの匿名掲示板の画面。スクロールされていく書き込み)


​名無しさんA: 90年代にあったはずなんだ。自費出版の育児書。表紙が真っ白で…。


名無しさんB: 知ってる。確か『現象学的……』みたいな難しい名前の。親戚がハマっててヤバかった。


名無しさんC: あれは禁書だよ。関わらない方がいい。マジで。


​名無しさんD: 逆に気になる。その本で育った子供って、今どうなってるんだろうな?



​(映像:三上のビデオレポートに戻る)


​三上: 「都市伝説のような、曖昧な情報。しかし、そこには奇妙な熱量と、得体の知れない“何か”を恐れる人々の確かな気配がありました。僕は、この正体不明の育児書……『現象学的育児論』の調査を始めることにしたんです。この時はまだ、その先に待つものの深さを、まったく想像できていませんでした」



【タイトル表示】

『あなたを“解体”する本 ~禁書『現象学的育児論』を追って~』



​(映像:東京・神保町の古書店街。三上が一軒一軒、古書店を訪ね歩いている)


​ナレーション(三上): 90年代初頭、ごく一部で自費出版されたという、その本。商業ベースに乗らなかったため、国会図書館にもデータは存在しない。手がかりは、人々の記憶だけだ。



​(インタビュー映像:古書店主(70代・男性)。店の奥で、埃っぽい本に囲まれながら語る)


古書店主: 「ああ……『現象学的育児論』。言われてみれば、そんな名前の本があったような気がするねぇ。92年か、93年頃だったかな。真っ白な装丁でね、気味が悪いくらい。内容は誰も知らんよ。ただ、持ち込んだ若い夫婦の目が…なんていうか、妙に澄み切ってたのを覚えてる。うちは買い取らなかった。あんなもん、うちの棚には置けないよ」



​(映像:調査に行き詰まり、ため息をつく三上。数日後、彼のスマートフォンに一本の電話が入る。ある古書マニアからの情報提供だった)


​ナレーション(三上): 調査は難航した。しかし、ネットで呼びかけを続けるうち、一本の情報が寄せられた。神奈川県の郊外にある、今は閉鎖された個人経営の書庫に眠っているかもしれない、と。



​(映像:薄暗く、カビ臭い書庫の中。懐中電灯の光が、うず高く積まれた古書の山をなぞっていく。三上は息をのみながら、本を探している。そして、光がある一冊を捉える。真っ白な表紙。中央に、ゴシック体で無機質に印字されたタイトル)


​三上(息をのむ音): 「あった……」



​(再現CG:本がゆっくりと開かれる。リソグラフで刷られたような、ザラついた質感のページ。インクのかすれ具合が生々しい)


 ​書名:『現象学的育児論』

 ​著者: 不明


【序文より抜粋】

 本稿は、社会が強制する記号論的汚染から次代の知性を保護し、純粋なる精神の育成を目的とするものである。我々は、既存の価値観から解放された新しい人間知性体を「ブランク・チャイルド」と呼称する。



​(映像:三上のオフィス。彼はデスクで『現象学的育児論』のコピーを読みふけっている。その表情は次第に険しくなっていく)


​ナレーション(三上): 表向きは、崇高な理念が掲げられていた。社会の固定観念から子供を守る。だが、その実践方法は、常軌を逸していた。



​(再現CG:『現象学的育児論』のページが次々とめくられていく。無機質な文体と、不気味な図解が映し出される)


​《第一章:言語の再構築》

 既存単語は、汚染された概念と直結している。これを排除し、家族内でのみ通用する新単語を割り当てること。

例:「りんご」→「ギギ」、「空」→「ルル」、「母親」→「観察者A」

 これにより、子供は外部情報による意味の強制から解放される。


​《第二章:感情の無効化》

 「喜び」「悲しみ」といった情動反応は、社会によって後天的に刷り込まれた演技に過ぎない。子供がこれらの反応を示した場合、親は一切のリアクション(笑顔、心配、慰め)を行ってはならない。感情は自然に淘汰され、純粋な論理思考が育まれる。


​《第三章:鏡像の否定》

 自己の姿を認識させる鏡、水面、写真、その他一切の反射物を子供の生活環境から徹底的に排除する。「自分」という容姿から生まれる、美醜、自己愛、自己嫌悪といった不純な固定観念の発生を未然に防ぐためである。



​(インタビュー映像:児童心理学者・高田教授。三上から見せられた資料を前に、厳しい表情で語る)


​高田教授: 「これは……論外です。育児論などという言葉を使うことすらおぞましい。言語によるコミュニケーションの阻害、ネグレクトによる愛着形成の妨害、自己同一性の確立の否定…書かれていること全てが、子供の心と精神を計画的に“解体”していく作業に他なりません。これはもはや、思想というより虐待の設計図ですよ」



​(映像:三上のビデオレポート)


​三上: 「専門家は、この本を唾棄すべきものとして切り捨てました。当然の反応です。僕もそう思いました。……そう、思うはずでした。この本を今なお信奉する、あの人物に会うまでは」



​ナレーション(三上): 僕は、さらなる調査の過程で、かつてこの本を熱心に実践していたという一人の人物、佐藤義男(仮名・68歳)に接触することに成功した。彼は、驚くほど穏やかに、取材に応じてくれた。



​(映像:郊外の閑静な住宅街にある一軒家。手入れの行き届いた庭。リビングで、三上と向かい合って座る佐藤氏。物腰の柔らかい、知的な印象の初老の男性だ)


​佐藤氏: 「三上さん、よくぞあの本を見つけられましたな。懐かしい。ええ、実践しましたよ。30年ほど前、息子が幼い頃にね」


​三上(緊張した面持ちで): 「……書かれている内容は、かなり……異常だと思われますが」


​佐藤氏(穏やかな笑みを崩さずに): 「異常ですか。ふふ、そうでしょうな。今の社会の物差しで測れば、そう見えるのも無理はない。ですがね、三上さん。考えてもみてください。我々が当たり前だと思っているこの社会が、どれだけ多くの偏見と汚染された情報で満ち溢れているか。子供たちは生まれた瞬間から、その濁流に否応なく放り込まれる。我々がやっていたのは、その濁流から我が子を守るための、いわば“無菌室”を作ってあげる作業だったのですよ」


​三上: 「しかし、お子さんは……他の子供とコミュニケーションが取れなくなってしまうのでは?」


​佐藤氏: 「それこそが狙いです。既存の汚れた言語体系から守るのですから。あれはね、最高の愛情表現だったと、私は今でも信じていますよ。社会のフィルターを通さずに、世界そのものと向き合わせる。純粋な、混じり気のない知性を育むために……」


​(佐藤氏のアップ。彼の目は、狂信者のそれではなく、揺るぎない信念を持つ理知的な人間の目をしている。その静かな語り口が、逆に底知れない不気味さを醸し出す)



​(映像:三上のビデオレポートに戻る。彼は明らかに動揺している)


​三上: 「彼の話は、常軌を逸している。そう断言できるはずだ。だが…彼の理路整然とした言葉と、あの静かな瞳の奥にある確固たる信念は、僕を混乱させるのに十分すぎた。愛情……なのか? これが……? 狂っているのは、彼らか? それとも……」


​(三上は言葉を切り、深く考え込む)



​【テロップ(黒画面に白抜き文字)】

 ​次回、記者はついに“ブランク・チャイルド”として育てられた佐藤氏の息子と対面する。


 ​感情なき“完成品”が語る、その世界の姿とは。



​(最後に、『現象学的育児論』の再現CGページが再び映し出される。そこに書かれた一文がアップになる)


《究極の目的》

 社会通念から完全に切り離された、まったく新しい知性体を育成すること。


​(映像、フェードアウト)

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