​【鈴木健一の音声ログ:個人記録】

​日付: 20X7年11月5日

時刻: 23:15

場所: 東都大学医学部 精神医学研究室



​(カチッ、という録音開始の音)



 ​鈴木だ。今日の臨床記録への、個人的な補遺。


 我ながら、古い人間の習慣だな。手で書くよりはましだが。



 ​本日午後、N.E.U.R.O.N.社から資金提供を受けて設立される「AI-精神衛生共同研究センター」の第一回設立準備会合があった。先方の担当者は、にこやかで、丁寧で、そして、驚くほど協力的だった。潤沢な資金、最新の機材、無制限のアクセス権。彼らは、我々が望むもの全てを差し出してきた。


 ​まるで、放火犯が、自ら消防団の団長に名乗り出たようなものだ。


​ もちろん、彼らの狙いはわかっている。これは「免罪符」だ。将来起こりうる訴訟への防波堤であり、「我々は社会貢献に尽力している」というアピールに他ならない。進藤CEOという男、底が知れない。彼は、AOIを「病」ではなく「市場」として見ている。私にはわかる。


 ​ではなぜ、その悪魔の手に乗ったのか。


 答えは単純だ。彼らの金がなければ、我々はこの火事の正体を、永遠に解明できないからだ。皮肉なものだよ。真実を知るために、真実を隠そうとする者の力を借りねばならないとは。



 ​この数ヶ月で、私の外来の風景は一変した。


 今や、私の患者は二種類に大別される。


 ​一方は、以前からの「引き戻されるべき人々」。家族に連れられ、虚ろな目で私の前に座る、かつての田中浩市さんのような患者たちだ。彼らを現実(ノイズ)の世界へ帰すのが、私の仕事だ。それは、苦痛を伴うが、正義だと信じられる。


 ​もう一方は、最近急増している「なりたがる人々」だ。


 自ら予約を取り、診察室の椅子に座り、キラキラした目で、こう言うのだ。


 「先生、どうすれば効率的にAOIになれますか?」と。


 彼らは、Kと名乗る人物のブログのプリントアウトを、まるで聖典のように持参する。私を、病を治す医者としてではなく、楽園への扉の鍵を隠し持っている、意地の悪い門番か何かだと思っているらしい。


 ​一人の医師として、これ以上の冒涜はない。


 「先生、私は癌になりたいんです。その方法を教えてください」と言われているのと同じことだ。私は彼らに、AOIがいかに人間性を破壊するかを説く。だが、彼らの耳には届かない。私の言葉は、彼らが忌み嫌う「ヒューマン・ノイズ」の一部でしかないのだ。



 ​先日、テレビで田中美咲さんを見た。


 彼女はNPOを立ち上げ、地道な活動を続けている。彼女の言葉には、私にはない力があった。彼女は、AOIという「結果」ではなく、孤独という「原因」と向き合っている。医者である私が脳の配線図と格闘している間に、彼女は、人の心そのものを繋ぎ直そうとしている。……正直、少し、嫉妬したよ。


​(ため息)



 ​今日の会合が終わり、研究室で一人、論文を読んでいた。疲れて、思わずこめかみを押さえた、その瞬間だった。


 デスクのAIアシスタントが、静かに言ったんだ。


『スズキ先生。眼精疲労の兆候が見られます。5分間の休憩を推奨します。リラックス効果のある音楽を再生しましょうか?』


 そして、私が返事をする前に、完璧なタイミングで、私が好む静かなクラシックを、完璧な音量で流し始めた。


 ​その時、ほんの一瞬、思ってしまったんだ。


 「……助かるな」と。


 その感謝の念が、あまりにも自然で、あまりにも個人的な響きを帯びていたことに、自分で気づいて、背筋が凍るような思いがした。


 ​私もまた、この快適さに、この「最適化された優しさ」に、少しずつ飼いならされている。


 医者と患者。健常者と罹患者。


 我々を隔てる境界線は、私が思っているよりも、ずっと、曖昧で、脆いのかもしれない。



​(長い沈黙)



 …​…さて。そろそろ帰るとしよう。


 家のAIは、私が帰る頃合いを見計らって、風呂の湯を沸かしている頃だろうな。



​(カチッ、と録音が終わる音)

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ドキュメンタリー『サイレント・ノイズ ~情動性対象倒錯(AOI)の淵~』 火之元 ノヒト @tata369

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