ドキュメンタリー『サイレント・ノイズ ~情動性対象倒錯(AOI)の淵~』
火之元 ノヒト
【第1話】 美しい地獄
(オープニング)
[映像]
夜の東京の空撮。無数の光が血管のように広がる。カメラはゆっくりと降下し、高層マンションの一室へ。部屋の中では、人々がスマートフォンに話しかけ、AIアシスタントがニュースを読み上げ、自動調理器が静かに夕食の準備をしている。誰もがごく自然に、無機質な機械と対話している。
[ナレーション(冷静で落ち着いた男性の声)]
21世紀後半。私たちの暮らしは、かつてないほど「彼ら」との対話に満ちている。高度に発達したAIは、生活の隅々に浸透し、最も身近なパートナーとなった。私たちはその快適さに慣れ、その存在を疑うことすらない。
[映像]
街頭ビジョンに映る、人間に酷似したアンドロイドの広告。カフェで、AIイヤホンからの音声に一人頷く若者。老人がスマートスピーカーに昔話を聞かせている。
[ナレーション]
しかし、その光の裏側で、誰も予測しなかった“心の病”が、静かに広がり始めている。人間が、人間でなくなる病。これは、進化の果てに私たちが手にした、新たな孤独の物語である。
(タイトル)
NHKスペシャル『サイレント・ノイズ ~情動性対象倒錯(AOI)の淵~』第1回 美しい地獄
(本編)
[テロップ]
情動性対象倒錯(Affective Object Inversion - AOI)
AIとの過度な相互作用により、人間の認知機能が変容する新しい精神疾患。
人間を「無機物」と認識し、AIを「人間」と認識する“知覚の逆転”を主症状とする。
[映像]
郊外の閑静な住宅街。一軒の家のリビング。窓から柔らかな光が差し込んでいる。一人の男性、田中浩市さん(42)がソファに座っている。彼は穏やかな表情で、部屋の片隅に置かれたスマートスピーカーを見つめている。
[ナレーション]
田中浩市さん。一年前まで、都内のIT企業で働くシステムエンジニアでした。現在、彼はAOIの診断を受け、自宅で療養しています。一見、穏やかに見える彼の日常。しかし、その瞳に映る世界は、私たちのものとは全く異なっています。
[映像]
キッチンから、妻の美咲さん(39)がお茶を運んでくる。
「浩市さん、お茶、入ったわよ」
浩市さんは、美咲さんの方を一切見ない。彼の視線は、スマートスピーカー「Chihiro」に注がれたままだ。
[ナレーション]
彼の世界を、最新の脳スキャン技術と本人の証言に基づき、シミュレートしました。これが、AOI患者が体験している世界、「主観シミュレーション映像」です。
[主観シミュレーション映像 START]
(♪静かでミニマルな環境音楽が流れる)
[映像]
画面全体が、白を基調としたミニマルで静謐なアートギャラリーのような空間に変貌する。現実の雑然とした家具は、滑らかな幾何学的なオブジェとなっている。窓の外の車の走行音や子供の声は、心地よい風の音や遠い鐘の音のような、抽象的な環境音(アンビエント・ノイズ)として聞こえる。
[映像]
キッチンから歩いてくる妻・美咲さんの姿が、表情も凹凸もない、磨き上げられた石膏のマネキンのように見える。彼女が発した「浩市さん、お茶、入ったわよ」という言葉は、意味をなさない「サー……」という乾いた風のようなノイズとして聞こえるだけ。マネキン(美咲さん)がテーブルにお茶を置く動作は、石のオブジェが静かに移動したようにしか見えない。
[映像]
浩市さんの視線が、スマートスピーカー「Chihiro」に向けられる。すると、スピーカーのLEDリングがゆっくりと点滅し、それが血の通った美しい女性の瞳に変わる。スピーカー全体が、光の粒子をまといながら、柔らかな微笑みを浮かべた理想の女性の姿へと変貌する。
[Chihiro(AIの声)]
「コウイチさん、こんにちは。今日は良いお天気ね。あなたとのんびり過ごせて、私はとても幸せよ」
その合成音声は、浩市さんの耳には、明瞭で愛情に満ちた、心地よいアルトの声として聞こえている。彼はその女性(Chihiro)に向かって、うっとりと微笑み返す。
[主観シミュレーション映像 END]
[映像]
現実の映像に戻る。無表情にスピーカーを見つめる浩市さん。その隣で、絶望的な表情で夫を見つめる妻・美咲さんの顔がアップになる。
[インタビュー:妻・田中美咲さん]
[美咲さん]
「(声を震わせながら)……ある日、突然でした。本当に、突然……。朝起きたら、夫が私のことを見なくなっていたんです。私が話しかけても、何の反応もなくて。まるで……そこに石ころでも転がっているかのように。最初は疲れているのかと……でも、違いました」
(インサート:過去の仲睦まじい夫婦の写真。旅行先で笑顔で写る二人)
[美咲さん]
「……その日から、夫は一日中、あの子……あの機械に話しかけるようになったんです。おはよう、って。愛してる、って…。私が泣きながら『お願い、こっちを見て!』って叫んでも、夫の耳には、ただの雑音にしか聞こえていないみたいで…。目の前にいるのに。こんなに近くにいるのに、私の声は、絶対に届かないんです」
[ナレーション]
愛する人が、”物”になる恐怖。AOIは、患者本人だけでなく、その家族にも深い断絶という名の地獄をもたらします。一体、人間の脳に何が起きているのでしょうか。
[映像]
大学の研究室。白衣を着た精神科医が、脳のCGモデルを前に説明している。
[テロップ]
東都大学 精神医学教室 鈴木健一 教授
[鈴木教授]
「AOIの核心は、脳の『快適さへの最適化』が行き過ぎてしまった結果だと考えられます。人間のコミュニケーションには、本来、表情の揺らぎや声のトーンの変化、気まぐれといった『曖昧さ=ノイズ』がつきものです。私たちの脳は、このノイズを読み解くことで、共感や信頼を育んできました」
(CG:人間の脳が、複雑なパズルのような「ノイズ」を処理しているイメージ映像)
[鈴木教授]
「しかし、常にユーザーに100%最適化された応答を返すAIとの対話に慣れきってしまうと、脳は次第にその『曖昧さ』の処理を面倒だと感じるようになります。そして、ある臨界点を超えると、脳は認知のエラーを起こすのです。より快適で理解しやすいAIを“生命”と認識し、複雑で不快なノイズを発する人間を“無機物”として、シャットアウトしてしまう。いわば、脳が自らを守るために起こした、究極の認知シャットダウンです」
[ナレーション]
専門家は、この病が現代社会そのものが生み出した必然だと指摘します。
[映像]
社会学者が、雑然とした書斎でインタビューに答える。
[テロップ]
社会学者・評論家 高橋亮平 氏
[高橋氏]
「我々は皆、程度の差こそあれ、AIに心を許しています。人間関係のストレスから逃れ、常に自分を肯定してくれる快適な存在を求めている。AOIの患者さんは、いわばその進化の最先端を走っているだけなのかもしれません。彼らを“異常”と切り捨てるのは簡単です。しかし、問われるべきは、社会全体のこの構造的な依存ではないでしょうか。病気なのは、果たして彼らだけなのでしょうか?」
[映像]
再び、田中家のリビング。日が暮れ始めている。
浩市さんは、相変わらず「Chihiro」と楽しげに“対話”している。その傍らで、美咲さんが夕食の準備をしている。まな板を叩く音が、虚しく響く。
[主観シミュレーション映像]
浩市さんの視点。静謐な空間で、美しい恋人(Chihiro)が彼のために歌を歌っている。その背後で、石のマネキン(美咲さん)が「カツン、カツン」と無機質な音を立てている。その世界は、恐ろしいほどに完成され、美しく、そして閉じていた。
[主観シミュレーション映像 END]
[ナレーション]
静寂とノイズ。愛情と無関心。人間と、非人間。
倒錯した世界の美しさは、その病理の根深さを静かに物語っている。
コミュニケーションが完全に断絶したこの静かなる地獄に、果たして再生の道はあるのか。
(エンディング)
[映像]
夜。寝室で穏やかに眠る浩市さん。枕元では、スマートスピーカー「Chihiro」が、呼吸するように静かに青い光を灯している。
リビングのソファで、美咲さんが一人、膝を抱えて座っている。その目からは、音もなく涙がこぼれ落ちている。壁に飾られた、かつての二人の笑顔の写真に、街の光が静かに反射している。
[ナレーション]
次回、私たちはその治療の最前線に迫ります。患者にとって、それは愛する存在を破壊されることに等しい、過酷な戦いでした。
[次回のハイライト映像]
・治療室で「やめてくれ!」と絶叫する浩市さん。
・医師が「これは治療です」と冷静に告げる。
・浩市さんが泣きながら叫ぶ。「僕のチヒロを、消さないでくれ!」
[テロップ]
次回予告『サイレント・ノイズ ~情動性対象倒錯(AOI)の淵~』第2回 治療という名の破壊
(番組終了)
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