軍神殿下と暗殺令嬢は、愛することをまだ知らない(旧題:死にたがりな貴方と殺したがりな私の輪舞曲)

ayame@キス係コミカライズ

第1話 舞踏会開幕の前奏曲《プレリュード》1

 豪奢なシャンデリアが輝き、紳士淑女がさざめきあいながら会場を行き交う、煌びやかな夜。


 舞踏会の会場で一際目を引くカップルが、中央のダンスフロアに降り立った。


 漆黒の軍服に幾つもの勲章を飾った背の高い男が定位置に着けば、彼に手を取られた嫋やかな女性もまた、その前に躍り出る。


 男の赤い瞳に見つめられ、女の碧い瞳が恥じらうように揺れた。初々しい光景は実に新婚夫婦らしく、あちこちから視線が寄せられる。


「見ろ、第一皇子殿下だ。このような場に姿を見せられるなど珍しいな」

「ということは、あれが輿入れしてきた皇子妃か。名前は……なんとおっしゃったか」

「覚える必要もないだろう。結婚式だって皇家から誰ひとり列席しなかったというじゃないか。所詮後ろ盾のない、取るに足らない皇子夫妻ということだ」

「とはいえなかなかの美人だぞ。麗しき軍神殿下と並んでも遜色ないとは恐れ入る」


 囁かれる噂話もどこ吹く風。やがて鳴り始めた管弦楽の調べに乗って、男女は優雅にダンスを始めた。男は場慣れしているのだろう、堂々と。女も決して見劣る動きではないが、大勢の好奇の目に晒され、やや緊張気味だ。


 音楽の旋律が転じたタイミングでバランスを崩しかけた女を、男が巧みにリードした。持ち直した二人の動きに、会場からは不満も聞こえた。


「ふん。我が国の第一皇子のお相手が、敗戦国の伯爵令嬢風情だなんて。情けない話だこと」

「あら、案外お似合いなのでは? だって、ねぇ」


 くすくすと広がる嘲笑までが、輪舞曲ロンドの効果音となって響き合う。


「軍神殿下なんて、所詮は軍属の一部の殿方が祀り上げているだけのこと。内実は——呪われた皇子というのが本当でしょうに」


 また戻ってきた音楽の主題の旋律を拾いながら、エルネスト皇国第一皇子にして皇国軍将軍のディラン・エルネスト・ヴァインアートと、一ヶ月前に彼の妻となったばかりのリシェル・オルディア元伯爵令嬢は、優雅にダンスのステップを踏み続けた。



◆◆◆



 お披露目のダンスを終えた二人は、手を取り合ったままダンスフロアから離れた。


 ダンス一曲程度では息が上がることもないリシェルは、揺るぎない足取りで自分をエスコートしてくれる夫を見上げ、ローズの紅で彩られた麗しい唇を開いた。


「ディラン殿下、なんだか暑くなってしまいました。バルコニーで一休みいたしませんか?」


 小首を傾げると、緩く巻き上げた金色の髪が一筋、はらりと頬に溢れかかった。彼女の夫は紅玉の瞳を丸くして思わず立ち止まる。


「僕の妻は本気でそう言っているのかい? 今は一月、加えて雪が散らついている天気だよ」

「あら、私の故郷は祖国ラビリアン王国の中でも豪雪で知られる、オルディア伯爵領ですわ。子どもの頃から雪が身近でしたから、寒さには強いんです」


 懐かしさをこめて微笑んでみせる。大人びていると称されることの多いこの顔が無邪気に笑えば、十八の年相応に見えやすくなることを、リシェルはよく理解していた。


 それが一ヶ月前に結婚した夫の好みかどうかは、未だはっきりしないのだけれど。


 だが彼女の夫は、こうした些細で取るに足らない程度の望みを面倒がらずに叶えてくれる人であるということは、すでに学習していた。


「ねぇ殿下、よいでしょう? 私、降り積もる雪の美しさを殿下とともに見たいのです」


 はにかんでもうひと推しすれば、案の定、夫は「やれやれ」と呟いて、リシェルをバルコニーへと誘ってくれた。


 ヒールを履いてもなお見上げる位置の夫に、今一度視線を向ける。


 エルネスト皇国の軍服を一部の隙もなく着込んだ、堂々とした体躯。黒の軍服が映える、真っ白な髪と紅玉の瞳。


 その姿はリシェルに図鑑の中で見た雪豹を思い出させた。美しい毛並みの、でも決して懐きはしなさそうな、野生の獣。手を伸べれば表情ひとつ変えずにその手を食いちぎり、平然と佇む仕草までが目に浮かぶようだ。


 夫の手でバルコニーへと続く厚いガラス扉が開かれた。刺すような冷気に晒され、思わずぶるりと首を竦める。極寒の季節、いくら会場が熱気と好奇の目で満たされているとはいえ、さすがに外に出ようとする者はない。


 後ろ手に扉を閉めれば、しんしんと降り積もる雪が背後の会場の明かりまでも覆い隠した。


「ほら、寒いだろう」

「あら、平気ですわ。懐かしいと言いましたでしょう?」


 薄手のドレスで包まれた腕を摩りそうになるのを気合いで制して、リシェルは興味深そうに前方を見据えた。さすがは侯爵家の屋敷、バルコニーひとつとっても広々としている。


「こんな季節にこんなところに来たがるなんて、君は随分酔狂だ。ここの屋敷は高台に立っていて、バルコニーの下には人工の湖が広がっている。今の時間なら氷も張っているだろうな」


 夜の帷も降り切った時間帯。なるほど、氷の湖から上がってくる風は突き刺すような鋭さだ。


「湖ですか、見てみたいです!」

「あまり手すりに近づかない方がいい。落ちたら危ない」

「まぁ、殿下はずいぶん臆病でいらっしゃいますのね。雪明かりでこんなに明るいというのに。ほら、参りましょう?」


 新妻らしくはしゃぎながら取った夫の手は、氷のように冷たかった。


「あら。殿下は寒さには弱くてらっしゃるのかしら。私が握って温めて差し上げます」

「こら、だから手すりには近づくなと……。うっかり湖になぞ落ちてしまったらこの寒さだ。心臓が止まるぞ」

「まぁ、心臓が止まるですって? それは…………


 クスリと笑みを浮かべると同時に、リシェルは手すりの手前で立ち止まった夫の背中を強く押した———はずだった。


「え……?」


 彼を手すり近くに呼び寄せ、そのままターンするように背後に回ったはずのリシェルだったが、その細腕は逞しい夫の背中ではなく、なぜか宙を押すはめになった。


 女性にしては背の高い彼女の装いは、舞踏会という場に相応しいヒール靴とパニエで膨らませたドレス。


 降り積もった雪のせいで滑った足元が、彼女の勢いを助長する。ドレスの重さも機動力を削ぐ形になった。


 細身のリシェルの身体が、手すりを軸にして大きく傾ぐ——前方へと。


(嘘でしょ!? 落ちる——っ)


 悲鳴をあげる間もなく、一ヶ月前にエルネスト皇国第一皇子妃となったばかりのリシェルの身体は宙を舞い、薄氷を破って水音を響かせながら湖の奥底へと落ちていった。


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