第8話
昨夜は、騒動の初日に比べるとよく眠れた。結局、僕の疑問は嘉根さんに聞けずじまいだったが、嘉根にこの疑問をぶつけたところで混乱を招いてしまうだけだろう。
僕はいつものように朝食を済ませて、ずぼらな妹を起こす為に部屋をノックする。コンコン、と扉を叩く音が響き、いつものように返事を待たずにドアノブに手をかけようとすれば、ガチャリ、と扉が開いた。
「おぉ、起きてたんだ。珍しいこともあるもんだね」
もう妹も一人で身の回りのことが出来るのか、と感動している僕を置いてけぼりに、妹はスマホから視線を外すことなく口を開く。
「…ねぇ、兄ちゃんの担任って乙訓って人だよね?」
「うん、そうだけど。よく覚えてるね。」
「いや、友達から教えてもらった。いいなぁ、今日から自習とかになるんじゃないの?」
昨日の乙訓先生は、午後に入ってから違和感に溢れていた。妹は生活にだらしないが人脈が広い。もしかすると、何か知っているのかもしれない。
「…どういうことだ?友達から何を聞いたの?」
「なに、怖いよ。乙訓先生の娘さんが不幸な交通事故に遭ったんだって。それじゃあ暫く学校来ないでしょ?だから兄ちゃんのクラスは自習増えるのかなって、思ったの。」
「…娘さんが事故か。」
昨日の変わった行動にはそういうワケがあったのか。娘さんがいた事は知らなかったが、可愛い愛娘が交通事故に遭ったと連絡があれば、すぐにでも駆けつけたかっただろう。プリント回収を他の先生に任せなかった辺りは意外だな。
少し考え込んでいれば、胸ポケットの携帯からアラームが鳴り響く。
「あっ、遅刻する!オマエも早くご飯食べて学校行くんだよ!」
バタバタと慌てて階段を駆け降りながら声を掛けると「はぁ〜い」と間延びした声が返ってくる。
僕は冷蔵庫から忘れずにお弁当を掴み取り、ヘルメットのベルトを締めて自転車に跨り学校へと急ぐ。噂好きの嘉根さんなら、何か知っているかもしれない。
予定より早く教室に着いたが鍵が開いていなかったので、荷物を置いて職員室で鍵を受け取りに向かう。妹の話が本当なら、乙訓先生は居ないはずだ。
職員室に向かえば、考えていた通り乙訓先生の姿はなかった。職員会議が始まる少し前だったようで、全ての先生が席に着いていた為、探すのは容易だった。
鍵を受け取り、教室へ戻れば数名が扉の前で鍵が開くのを待っていた。
「待たせてごめんね。今開けるから。」
ガチャリ、と鍵を開けて扉を開けば、待っていた数名はお礼を言いながら次々入っていく。僕もカバンを背負って教室へ入り、所定の位置に鍵を掛けたところで、違和感に気がつく。
皆の視線が教壇に集まっている。僕も自然に教壇を見ると、小さなガラスの水差しに入った一輪の花が目に入る。
この花が意味するところを理解した途端に、頭に血が昇る。クラスにこんなことをする人間がいるだなんて。
「誰だ!!こんな、こんなことを」
ぐるりを首を回して、いま教室に居る人間を見るが、全員顔を青くして首を振っている。
冷静に考えれば、鍵を開けたのは今だ。
つまり、僕たちが教室に入るよりも前に、花は置かれていた。これは僕らが来る前の犯行であり、逆に言えば、今この場にいる人間の犯行ではないのである。
深呼吸をひとつして、心を落ち着ける。
「…いや、悪意があると決まったわけでは無い。でもこの場に置くわけにはいかないから、移動させるね。」
それがいい、とクラスメイトが口々に喋り出すのを聞き流しながら荷物を置いて、花瓶を手に取れば花瓶の外側が濡れていることに気がつく。このことから、花瓶が置かれてから水が乾ききる程、時間は経っていないことがわかる。おそらくだが、校門が開いてから僕らが教室に入るまでの間に行われた事だろう。
花瓶を教壇に置いておくわけにはいかないので、黒板の隣にある、黒板消しクリーナーを置いてある台にひとまず置くことにした。
席に着けば相澤くんが、なぁ、と声を掛けてきた。
「悠君、なんか花に心当たりあるの?珍しいよ、デカい声出すの」
「あぁ…」
確かに、カッとなって大きな声を出した自覚はある。だって、娘さんが大変な時に、不謹慎すぎる。
妹が誰から話を聞いたのか分からないが、相澤くんなら無理に広めることもないだろうし、噂話程度ならしてもいいだろう。
「…実は、まぁ確かな情報ではないんだけどね。今朝妹から聞いたんだが、乙訓先生が昨日のホームルームで不調だったのは、娘さんが事故に遭ったかららしいんだ。本当にそんなことがあったとして、あんな一輪の花は笑えないだろう?」
「…え、まじ?無事なのかな」
我々は担任として乙訓先生が好きではないが、私生活に不幸があって欲しいほど憎んでいるわけではない。そのあたりの分別はついている。確かな情報ではないため、あまり広めない様にお願いしていれば、チャイムが鳴り響く。いつのまにかホームルームが始まる時間になってしまっていた様だ。
チラ、と首を動かして教室を見渡すが、クラスメイトは全員揃っている様だ。居ないのは、教壇に立つ先生のみ。
シン、と静まった教室の外、廊下に大人の足音が響く。
乙訓先生が来るのか、それとも他の先生が代わりに来るのか。僕と相澤くんはドキドキと妙な緊張感に包まれながら、その足音に聞き耳を立てる。
ガララ、と戸が開き入ってきたのは、乙訓先生ではなかった。
「はいー、ホームルームはじめるよー」
ボサボサの頭のくせに整えられた髭、クタクタのワイシャツに曲がったネクタイ、そのくせにスラリと整ったスタイルと分厚いメガネの下にはハンサムな顔、ダウナーな雰囲気が女生徒に人気を持つ若いのにオジサンみたいな先生。
佐々木羽矢人先生だ。
クラスにも隠れファンはいる様で、きゃあきゃあと色めき立つ声が聞こえる。ちらりと目線で嘉根さんを見るが、恐ろしいほどの無表情で佐々木先生を見つめていた。タイプではないようだ。
なぜかホッとして、号令を掛ける。
「起立、礼、着席」
ガタガタと椅子を引く音を響かせて、皆それぞれ着席する。
少しの間、先生が下を向いてペラペラと紙を捲る音が聞こえ、パッと顔を上げたかと思えば話を始める。
「え〜、号令ありがとね。なんで佐々木なんだよ、と言いたいのも分かる。乙訓先生は家庭のご事情でしばらくお休みだから、その間はワタシがホームルームに来るからね。まぁ、しばらく君らの担任ということだ。」
やった!というクラスメイトの声や、相澤くんが小さく「モテてる奴が担任とか……」と妬んでいる声が聞こえてくる。僕としては、短期間で何度も担任が変わるのは内申点のバラつきに繋がるのでやめて欲しいのだが、今回はのっぴきならない事情なので悔しいが呑み込むしかない。
そういえば、嘉根さんが言っていた事件の中に、サイエンス部の人体模型の話があったはずだ。聞きやすくなって丁度いい。
佐々木先生はチラリ、と黒板消しクリーナーの横に置かれた花を見て、小さくため息をついた。
しかし、特に何をいうわけでもなく淡々と話を続ける。
「まぁ、そういうわけだから。ただワタシも部活とか授業準備とかあって忙しいからクラスの問題はなるべく君らで解決して欲しいな。学級委員は………芽島か。はは、じゃあ安心だな。」
酷い隈のある顔で力無く笑うこの顔がいい、と評判だが僕は特に魅力を感じない。ニコリ、と僕も笑い返しておく。
「よし、じゃあ連絡事項もないし……あ、いや。…あ〜?これは、言っちゃダメなやつか。じゃあ何もない。号令頼む。」
「…起立、礼、着席」
ありがとうございましたー、とバラバラのお礼が重なり合う。色めき立っていた生徒は佐々木先生の周りを囲み、いつまで居てくれるんですか?と猫撫で声で尋ねている。
その様子を見守りながら、相澤くんに話しに行こうかなと席を立てば「悠くん、」と声を掛けられる。
「あ、嘉根さん。」
「…乙訓先生なにがあったんだろうね…。私、佐々木先生苦手だから、早く帰ってきて欲しいわ…。」
意外だな。佐々木先生に苦手意識を持っていることではなく、アレほど噂好きの嘉根さんが乙訓先生の噂を知らないはずがない。
懐疑心を持ちながら、もしかしたら何かわかるかもしれないからサイエンス部の聞き取りは、まかせてもらう事にしよう。佐々木先生が苦手なら、それが理由になるだろう。
「それなら、サイエンス部の人体模型の話の聞き取りは僕に任せて欲しい。もう水曜日で時間もないし、平行して進めた方が早く終わるだろう。」
「え、え?い、いやでも」
「お願いだよ。僕はクラスメイトとそこまで仲がいいわけではないし、山本先生と仲が良かったわけでもない。女子生徒グループか男子生徒グループのどっちかだけでいいから、話を聞いておいてもらえると助かるな。」
「…悠くんがお願いっていうなら、わかった。頑張ってみる」
「お互い様だよ、ありがとう。」
昨日、喫茶店で食事をしてから嘉根さんの距離が近いのが気になるが、今は正直それどころではない。
佐々木先生と話をする事が、己が感じている違和感の解決への近道だと信じて、今日の授業を乗り越える事にした。
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