第1章 影の猫 - 11


 サンは生まれた時から弱かった。弱いから、酷い目に遭った。虐げられた。自分は弱者だ。生きるための競争に負け、淘汰される存在だ。そのことを文字通り痛いほど知っていた。雨の日には、体のあちこちが痛む。古傷だ。殺されかけたのは一度や二度じゃない。

 だが、これまでは全てが不思議と何とかなってきた。なぜ生き残れたかは自分でも分からない。

 ある猫のコミュニティで、サンは十数匹の猫たちからリンチを受けた。仲間内で盗みをしたと咎められたのだ。それは足手まといの彼を切り捨てるために、何者かが仕組んだものだった。殴られ、蹴られ、殺されると思った。直後に意識が飛んだ。そして気が付くと、辺りに猫たちが倒れていた。サンはワケが分からず、逃げ出した。

 助かったが、何が起きたか分からないのは怖かった。誰かが助けてくれたのだろうか? そんな猫がいるはずもない。サンは考えたが、答えは出なかった。ともかく「死なずに済んだ」という事実を大事にしようと思った。

 その後、同じことが何度も起きた。死を予感したとき、意識が飛ぶ。そして気が付くと、問題が解決している。刃物を持った武装強盗猫たちに囲まれたときも、気が付くとそいつらは全員が伸びていた。面白半分で猫を殺す人間に追われたときも、その人間はいつの間にか顔面がボコボコに変形して転がっていた。そして、死ぬ思いで辿り着いた北九州で餓死寸前に陥ったとき、失神から目を覚ますと、手元には食料があった。手からは鉄と火薬の匂いがした。

 恐怖は日に日に濃くなった。自分は、何かとてつもなく恐ろしいことをやっているのではないか? 自分は絶対にしたくないことを……この手で自分のためだけに、誰かを傷つけているのではないか? そして、もしも自分が何をしているかを知ってしまったら、自分という人間が根底から覆るような気もした。そんなことを考えた。

 しかし、答えを探ろうとはしなかった。第一、記憶は何もないのだ。それに、この現象のおかげで生き残れている。死にたくない。生きていたい。だからサンは、今この瞬間まで見て見ぬふりを続けた。

 ——何、これ?

 サンの視界に、地獄が広がっていた。血まみれの猿たちが、そこら中に転がっている。苦悶の表情で唸り声をあげる者、痙攣を続ける者。まったく動かない猿もいた。

 ——なんなんだ! こんな酷いこと誰が!?

 その時、ようやく手に起きている異変に気が付いた。両の拳に、血がべっとりと付着している。自分のものではないことは、すぐに分かった。

 ——えっ……。じゃあ、僕が?

 サンは叫び、駆け出そうとした。猿たちに手を貸し、その命を救うために。

 だが、体は動かなかった。どれだけ「走ろう」と思っても、猿たちとの距離は縮まらない。走っている感覚はあったが、走れていないのだ。

 ——何? 僕の体、どうしたんだ?

 その時、声が聞こえた。

 「初めてだな。オレが起きている目を覚ますのは」

 猫が、後ろに立っていた。その猫は自分と全く同じ姿をしていた。しかし、まるで違う猫だった。姿勢も、目つきも、見に纏う空気も。

 「やったのはオレとお前だ」

  ——誰?

 「レイだ。これまでお前を傷つけるやつをずっと排除してきた。薄々は気が付いていただろ?」

  ——それは……。

 「心配しなくていい。オレは味方だ。誰もお前を傷つけさせない。悪いやつらは、オレが全員殺してやる」

 ——殺す?

 「そうだ。これまでだって何人も殺してきた」

 ——僕が……誰かを殺した……?

 意味が分からないはずの言葉だった。人を殺した記憶はないからだ。けれど、その言葉を驚くほどあっさりと受け止めることができた。納得できたからだ。「ああ、そうか」「やっぱり、そうだったのか」そう感じた。

 レイは続ける。まるで今のサンが望む言葉が分かっているように。

 「お前じゃない。オレがやったんだ。それに、別にいいだろう? よくある話だ」

レイの態度は素っ気なかった。けれど冷たいとは感じなかった。それに殺猫がありふれたことなのも、事実だった。けれどサンは、

 ——待ってよ! 僕は、そんなの嫌だ! 殺猫なんて許せない……!

 「黙って眠っていろ。初めてだ。こんなに強い相手は。いつも眠っていたお前が目覚めるとは、それだけオレたちの精神に衝撃を与えたんだろうな」

 ——え?

 その時、サンは気が付いた。自分の前に立ち塞がっている男を。カゲトラだ。すでに全身がアザだらけだが、まるでそんなことを意に関さず、余裕の笑みを浮かべている。そして自分の拳が、ゆっくりとカゲトラへ向けられた。

 ——僕が、カゲトラさんと戦っている!?

 「そうだ。あいつを殺すには、いつも以上に集中しないといけない。お前が起きていると、隙ができる」

 ——っ!? ダメだ! そんなことはさせない!

 サンは叫ぶ。そこに理由はなかった。感情と結論があり、その次に理由が来る。

 ——たしかにカゲトラさんは乱暴だ! でも、僕の命の恩人だ! お腹を空かせた僕にご飯をくれた! 僕が缶詰を食べ尽くしても、怒ったけど、殴られたけど、でも、許してくれた! カゲトラさんだけじゃない! 猿たちだって! 殺す必要はなんて無いよ! もうみんなボロボロだ! これ以上は……!

 「よせ」

 ——えっ?

 「猿たちはお前を殺そうとしたんだぞ? ここで見逃せば、ヤツらは間違いなく復讐に来る。それにカゲトラは、猫のくせに猿の味方をしている。お前の敵なんだ。ここで消しておかないと、これからどうなるか分からない。オレたちが生きるためには、全員を始末しておくべきだ。それに……」

 レイは、初めて微笑んだ。

 「今まで幾つの命を奪ったと思っているんだ? これまで見て見ぬふりをしてきたくせに、今さら善人面して、どうする気だ?」

 ――それは……。

 サンの胸に、痛みが走る。これまでやってきたことが頭をよぎる。血まみれで倒れている猫たち、命を失って、ポカンと空いた口。ビー玉のような目。それを見て恐れると同時に、窮地を脱し、生きていることに安心した自分。何かがあると思いながら、確かめようとせず、考えないようにして生きてきた日々。何もかもが上手くいくと、自分に都合よく考えてきた。それが……。

 突如、サンを強烈な眠気が襲った。

 「眠れよ。考えるほど、不幸になるだけだ」

 レイの声は、甘くて優しい。

 サンは心地よく自分が落ちていくのを感じた。今まで通り、何も考えなくていい場所へ、ゆっくりと落ちていく。心がある確信で満たされる。このままそこに落ちれば、何もかもが上手くいく。これまで通りに。

 「お前はオレが守るから」

 レイの声が遠くなる。サンは深く、深く、落ちていく。

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