第10話‐2


 千獣の地均しが、灰の砂漠の尽くを蹂躙した。


 黒い台風が過ぎたような衝撃に、八百坂恋は立ち尽くしていた。


 先刻、無数の怪物の波に呑み込まれた恋は、普通なら全身の骨が粉々になって、髪の毛は毛根から引きちぎられ、原形を留めず絶命した後もこの発生区域を引きずり回されたに違いない。分からなかった。なぜ、今自分はさっきまでいた場所に、無傷で立っているのか。


「二人ともここから動くな。大丈夫。たとえ太陽が落ちてきたって、お前らには傷一つつかないよ」


 柔らかく透き通った声が、胸に渦巻く恐怖と不安を溶かす。恋と爽司が怪物の群れに呑み込まれる寸前、桜が二人の肩に手を置いて――その瞬間、まるで自分たちが、川の激流を受け止める大岩になったみたいに、あるいはゲームの中の破壊不能オブジェクトになったみたいに――殺到する塔魔たちが全て三人を“避けて”いった。正確には、「ぶつかったが、何事もなかった」。衝突後、全てが三人の体の上を滑るようにして背後へ流れていったのだ。


 “体の状態を固定ロック”することで、あらゆる攻撃も衝撃も拒絶する――桜慧を無敵たらしめる絶対防御。今、恋と爽司の体はその庇護下にある。


桜は怪物の群れが過ぎ去った背後には目もくれず、正面の人影を見据えていた。


「どういうつもりだ。生徒が危うく死ぬとこだぞ。犬飼」


 剣呑な視線の先。発生区域の荒野に立つ好青年。若葉色のツナギ。黄緑色のマッシュヘア。柔和に垂れた糸目。どこをどう見ても、一年竹組担任の犬飼リオンにしか見えない。


「君こそどういうつもりです。生徒をこんな時間に学園の外へ――あまつさえ塔の目前に連れ出すなんて」


 犬飼は微笑みを崩さず、恋たちの背後で吼え猛る魑魅魍魎に手をかざし、制止する。まるでそれらの指揮官のように。


「八百坂さん、常盤くん。助けに来ましたよ」


 恋は耳を疑った。犬飼の声が概ね澄んでいたからだ。助けに? こんな、数えきれない怪物たちを引き連れて? つい今、恋は桜がいなければ塔魔の地均しに轢かれて死んでいたところだったのに。


「巽君は一人で行ってしまいましたか。残念です。彼には期待していたのに」


「あいつが死ぬとでも?」


「ええ。なぜなら君が、彼を助けに行くことができないからです」


 犬飼の優しい糸目が開き、そこから冷酷な翡翠色の瞳が覗いた瞬間、恋の背筋を刃物で斬りつけられたような悪寒が走った。偽りのない、深い執念と殺意に塗れた声。


「三年、待ちました。ようやくですよ――ようやく、この日が来た」


 犬飼の手の一振りで、幾千の獣が一気呵成に砂地を蹴った。大地を震撼させ、翻った黒い津波の如く背後から桜たち三名を強襲する。


 桜は一人上空へ跳んで逃れた。残された恋と爽司は瞬く間に波へ呑み込まれたが、怪物の角や牙はどれも二人の体に傷をつけられない。桜のギフトに身を守られるたび、断続的に全身が硬直する。絶対防御の代償なのか、これでは満足に動けない。無数の獣が往復する阿鼻叫喚の世界で目を凝らし、恋は頭上を見上げて叫んだ。


「桜先生!」


「大丈夫、そこにいろ。すぐ終わる」


 何もない空中に立つ桜は、余裕の笑顔を恋に寄越した。しかし空にも、有翼の獣が数えきれないほど羽ばたいて、既に彼の周囲を取り囲んでいる。


「この期に及んで教師面しないでいただきたいですね。さぁ、二人をこちらへ」


 犬飼の声を黙殺し、襲い来る無限の鳥と飛竜の弾丸を掻い潜って、桜は空中を跳ねるように間合いを詰める。


 距離五メートル――桜が犬飼へウインクする。たったそれだけで、犬飼の体は電流を浴びたように硬直し、髪の毛一本残らずその座標で完全停止した。


 無敵。空中浮遊。瞬間移動。触れもせず敵を行動不能にすることも、脳を停止させて対象を植物状態にすることさえ思いのまま。いっそ無味乾燥なほど圧倒的なギフト。


 今日まで、恋もそう思っていた。


「……ッ!」


 接近した桜の手のひらが、硬直した犬飼の頭に乗る寸前。横から豪雨の如く飛来した黒い蜂の大群が桜を襲った。同時に犬飼を縛っていた鍵が解け、彼は間一髪後ろに跳んで難を逃れる。着地した桜も無傷。しかし、彼の剣呑な眼差しを受け止める、犬飼の表情は嬉しげに歪んでいた。


「やっぱりだ。“四本”……君が同時に使える鍵の本数は、四本ですね!」


 抑えきれない興奮が、剥き出した歯の隙間から噴きこぼれる。答えない桜目がけ、今度は地上の怪物たちが一斉に襲いかかる。無尽の獣に呑み込まれ瞬く間に見えなくなった桜の名を爽司が叫ぶ。桜に大半が殺到した分、二人を襲う数は大きく減ったが、それでも数秒に一撃は牙や爪が飛んでくる。


「恋ちゃん、四本って!?」


「たぶん、文字通りの使用制限……あんなチカラにあって当然の代償よ。無敵化したり、相手を身動き不能にしたり、瞬間移動したり、先生の技の中でも特別に強力なものは、同時に四つまでしか使用できないってことだと思う」


「それでも十分チートだけどな……」


「そのうち二つを、先生は今あたしたちを守るのに使ってる」


「でもあと二本使えるよな!? 自分の無敵分と、残り一個を相手への攻撃用に使えば……うわっと!?」


 飛来した蝙蝠が顔に直撃して驚く爽司に、恋は唇を噛んで首を横に振った。


「桜先生は、もう一本を既に使ってる。たぶん何年も……寝てるときだろうとずっと、常に」


 口を開けた爽司の目が、何かに思い至って激しく揺れる。


 そう、桜は自身の記憶に鍵をかけている。誠たちのことを覚えておくために。その鍵を外さない限り、今、桜は己の無敵か、攻撃か、どちらか一方にしか使えない。


あの瞬間、桜が竜秋を塔に蹴り入れていなければ、状況は更に悪化していただろう。守る者の数だけ弱くなる。それが、桜慧の唯一の弱点――


「分かる? あたしたちが思いっきり足引っ張ってんの! なんとかできないの!?」


「え、オレ!?」


「他に誰がいんのよ……!」


 歯噛みしつつ、丸腰の恋にできることはもう頭を回すことぐらい。桜のためにできることは、今すぐ全力でここから離脱すること。しかし、恋たちを守る桜のギフトは同時に恋たちの体の自由を奪っている。攻撃を受けるたびに全身が硬直するこの状態では、とても無限の包囲を突破できない。


「さぁ、このままだと理力切れで潰れますよ。君の“無敵”はあらゆる攻撃を自動的に無効化する反面、使用中は満足に動けず理力消費も著しい。つまり、鍵を無駄打ちさせた上でこうして絶え間ない連撃を浴びせ続ければ、実質無力化できる」


 犬飼は今にも踊り出しそうなほど上機嫌だった。


「さっさと記憶維持に使っている鍵を外したらどうですか? 消えてしまった生徒たちをずっと覚えておくだなんて悪趣味なことはやめるべきだ。今、目の前にいる生徒たちを大切にすればいいんですよ」


 我を失って獲物を奪い合うように群がる獣が築いていく、悍ましい肉の山に向かって、歌うような犬飼の声が響く。塔魔の包囲から身を乗り出して、恋は気づけば叫んでいた。


「桜先生! あたしのギフトを解いて!」


 折り重なった怪物の山に埋もれて、姿の見えない桜に向かって必死に声を嗄らす。


「あたしは大丈夫! だから、お願い! 早くこいつらぶっ飛ばして!」


 その瞬間。桜慧は、ギフトを一つ解除した。




 轟音。爆風。猛獣の山が弾け飛ぶ。赤い鮮血と黒い肉片が雨のように降るその中央で、美しかった髪を、肌を夥しい血で濡らした桜が、失血でふらつく。犬飼の口角が裂けたように吊り上がった。


「まったく、どこまで愚かな――ついに解除したか、“自分の無敵”をッ!!!」


 記憶にないほど久方ぶりの流血に、闘争を思い出したように――形のいい目を見開いて、血濡れの美貌が笑った。

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