第6話‐2
「あ、あんたなにやってんの!? 寒くないわけ!?」
「濡れた服着てるよりマシだ。それに、だいぶ慣れてきた」
よく研いだ刃が鳴らすような澄んだ声に、心底呆れ果てる。強がりではない……とすると、いったいどんな鍛え方をしているのか。足元の温もりに気づいて目をやると、スカートから露出した足に竜秋のブレザーがかけられていて――悪寒が走った。
「やめてよ、いらない」
払いのけたブレザーが岩肌に落ちて、途端に冷気が素足を撫でる。あ、ミスった、今のは感じが悪かった。そう思っても痺れた頭では挽回の言葉も思いつかず、かじかんだ両手に所在なく息を吐く。
塔魔も死も恐れない恋が、この世で唯一怖いのは、言葉を伴わない優しさだ。何かを期待して、裏切られての繰り返し。それに疲れたから、誰も優しくしようなんて思わない、感じの悪い人間を目指してきたはずなのに。こうして脳内反省会をしてしまうのが、あまりに中途半端で、情けない。
霜焼けで爛れた指先を見つめていた恋の顔を、ばふん、と竜秋のブレザーが包んだ。
「わっ!?」
「嫌でも我慢して使え。お前が動けなくなる方が困るんだよ」
顔を覆ったブレザー越しにも、真っ直ぐ、矢のように耳朶を射抜く言葉に、戸惑う。視界は暗くて、温かい。大きな狼のお腹に包まれているような、強くて優しい匂いがする。
「……ねぇ」
両膝を抱いて三角座りをし、そこに竜秋のブレザーをブランケットのようにかけて、恋は蚊の鳴くような声で、竜秋の彫刻のような背中に問いかけた。今朝、自分から聞くのを拒んだはずの答えを。
「どうして、あたしを誘ってくれたの」
竜秋が振り返った。鋭い鷹のような金色の目が真っ直ぐ恋を見つめる。恋の方が、その目を見つめ返せない。
「あんた、あたしのこと嫌いでしょ。当然よ。無能力者だってこと、皆の前でバラしちゃったし。事情も知らないのに酷い言い方した。なのに……なんで、あたしなの」
入学初日、竜秋のウソを暴露したことを、恋は強く後悔した。だって、まさか、無能力者だなんて。障害やコンプレックスを隠してただ懸命に生きる人を大声で晒しあげたようなものだ。取り返しのつかない最低なことをしてしまった。
だから、今回の集中講義の残り一席に、竜秋が自分を選んだと爽司から聞いて、激しく動揺した。どうしても理由を知りたかった。同時に、訊くのが怖かった。訊いてしまえば、彼が何を語ろうが、恋は真実を知り得てしまう。
「それは――」
竜秋の唇が動く。音の振動が鼓膜に伝わる。体が強張り、思わず目をぎゅっと閉じてしまう。次の瞬間、竜秋の声がどんな風に聞こえるか、想像しただけで身震いする。
「お前と一番、話してみたかったから」
生身の、裸の、ありのままの、竜秋の肉声が、耳の穴を通って全身に響いた。
首を斬られる寸前のように力んでいた体がふっと緩んで、情けない声が喉から漏れる。
「……へ……?」
爪先から額、耳の端まで、じんわりと熱が駆け巡る。ここが雪山であることを忘れるくらい、顔が火照って動悸が早まる。聞き間違いに違いないと竜秋の方を見ると、彼は全身をこちらに向けて座り直していた。初めて向かい合う、鍛え抜かれた上半身の前側。
「中二の時、無能力を補うために思いつくことはなんでもやった。人格を無理やり変えたのもその一つだ。アレが無駄だったとは思ってないが、分かりやすく迷走してたと思う。『無能だからって理由で夢を諦めたら、俺は俺じゃなくなる』――それが諦めない理由だったのに、そのために自分で自分を殺しちまったんだから。恋。お前があのとき、俺を『ウソつき』って言ってくれなかったら。俺はきっと、二度と俺には戻れなかった」
山に磨かれた滝水のように透き通った言葉が、凍りついた心を溶かしていく。
「だから感謝してるんだ。それに、人に好かれようと色々迷走した結果、世辞やら建前やらリップサービスやら、そういうまどろっこしいコミュニケーションは俺の性に合わないって痛感したところだ。その点、お前との会話は楽でいい」
「あ……あたしとの会話が……楽……?」
この耳の聞こえ方を疑うのは、彼が無能力者だと明かした時以来だった。
「ウソを見抜けるなら、いちいち信じてもらう手間が省けるだろ」
夏の風が奏でる、風鈴の音(ね)のような響きに心臓を撃ち抜かれ、遅れて、じんわり目頭が熱くなる。涙なんて、とっくに枯れたと思っていた。
ウソの聞こえ方には段階がある。おおむね本心を語っていても、僅かでも反対の感情が混在しているほど薄くノイズがかかっていく。これは人間であれば普通のことで、百パーセント本心の純粋な声なんて、幼稚園にでも行かなければ滅多に聞くことができない。
それなのに、竜秋の声は――入学初日を最後に、ずっと子どものように透き通っている。
竜秋が決闘すると聞いて、恋は会場に駆けつけた。自分が無能と暴いてしまった彼が、梅クラスの主席を相手にどう立ち向かうのか。彼がどれだけズタボロに負かされようと、自分にはそれを見届ける責任がある気がした。
『――いらねえええええんだよバーーーーカッ!!! 翼がねぇなら探せばいい!! その代わりになるもんを! 見てろ優等生ェ……ッ! 俺は今日、お前を超えていく!!』
あの叫びは、巨大な鐘を打ち鳴らしたように、力強く恋の心臓に響いた。正直、痺れた。彼は無能力者でも、自分の力を、自分の価値を、一寸の曇りなく、信じているんだ。
あぁ、そっか。本当はあの時から既に。
「――好き」
まなじりに溜まった涙が溢れるのと同時に、唇が勝手にそう動いた。
「え?」
目を丸くして聞き返す竜秋を見て我に返り、パァンッ! と自分の口を塞ぐ。
他人の嘘を許さない分、自分の嘘も許さないのが恋の信条。つい、うっかり、今しがた溢れた想いが口をついて出た。
「も、物好き! って言ったの! こんなめんどくさい女との会話が楽だとか!」
とっさに誤魔化す。そう思ってるのもウソじゃない、からセーフ!
「そうか? まぁ、ようやくいつもの元気が戻ってきたな」
心地よい竜秋の声に耳を傾けながら、恋はふと迷った。彼には伝えておくべきだろうか。
彼の周りにいる、嘘つきたちについて。
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