Ø:ゼロ・コード ―記録抹消者は、異世界で「生」を取り戻す―
五平
第1話 漆黒の転移、そして無に帰した過去
雨宮凛は倒れていた。
冷たいコンクリートの感触が
頬に痛い。
身体は思うように動かない。
瞼の裏に、白々しい蛍光灯の光が
焼き付いている。
遠くで、焦げ付くような異臭がした。
薬品の匂いだろうか。
遠く、スピーカー越しのような、
無機質な声が響く。
その声は、感情のひとかけらも持たず、
ただ事務的に、事実を告げていた。
「雨宮凛は、本日付で抹消されました。」
声が聞こえる。
まるで、空気中の酸素が、
一瞬にして消え去るような、
そんな静けさが、空間を満たした。
「以後、該当人物の言動記録は、」
耳の奥で、甲高いサイレンの音が
遠くで鳴り響き、
現実との最後の繋がりを断ち切るように、
かき消えていく。
冷たい汗が、こめかみを伝った。
「すべて無効とします。」
──それ。
それが、最後に聞いた“名前”。
私という存在を規定していた、
たった一つの言葉。
脳裏に、あの男の顔が浮かんだ。
感情を宿さない、研究者のような瞳。
ガラス越しに私を見下ろすその視線には、
一切の慈悲も、理解も、なかった。
感情の通わない口元が、ゆっくりと動く。
吐き出された言葉は、私を、
この世の底へと突き落とす。
「私は殺さない。社会があなたを殺すだけ」
その言葉は、銃弾よりも鋭く、
私の心臓を抉り取った。
社会という巨大な力に、
私が、たった一人の人間が、
どう抗うことができるだろうか。
絶望が、全身を凍てつかせた。
乾いた、耳をつんざくような銃声がした。
それは、私の人生の終焉を告げる、
弔いの音だった。
鋭い痛みが、全身を貫く。
──いや、違う。
痛みを感じる。
肉体が、まだ、生きている。
だが、私が、私という存在が、
この世界から、消滅していく感覚。
全てが、無に帰す。
裏切り。
抹殺。
沈黙。
何もかもが、冷たい。
意識が、遠のいていく。
深い、深い、終わりのない闇の中へ。
──けれど。
次に意識が浮上した時、
そこは、あの冷たいコンクリートの上では
なかった。
柔らかい土の感触が、背中にあった。
肌に感じる土の温かさ。
信じられないほどの優しい感触。
眩しい陽光が、瞼を突き抜けて、
目を刺す。
強烈な光に、思わず顔を背けた。
鳥のさえずりが、すぐそこで聞こえる。
ひどく澄んだ、心地よい声。
肺いっぱいに吸い込む空気が、
信じられないほどに清らかだ。
深い森の匂いが、鼻腔をくすぐった。
土と、木の葉と、そして
知らない花の、甘く、野生的な香り。
「……生きている?」
掠れた声が、喉から漏れた。
自分のものではないような、か細い声。
身体は、まだ重い。
全身の倦怠感が、私を支配している。
しかし、あの時の激しい痛みは、ない。
ゆっくりと、瞼を開ける。
見慣れない樹々が、高く高くそびえ立つ。
その葉は、見たこともない鮮やかな緑色で、
陽光を浴びて、きらきらと輝いている。
足元には、見たこともない草花が咲き乱れ、
まるで絵画のように美しい。
小さな蝶が、羽を休めている。
ここは、どこだ。
なぜ、私は──。
ふと、自分の右手を見る。
そこには、いつも肌身離さず持っていた
愛用のスナイパーライフル。
あの銃弾の雨の中、
あの絶望の空間から、
壊れることなく、
私の傍にある。
弾倉は空だが、銃身は無傷。
まるで、私だけを連れてきたかのように。
あの場所から、ここへ。
意味が分からない。
何が、どうなっている。
記憶の断片が、再び脳裏を掠める。
あの男の、感情のない声。
「私は殺さない。社会があなたを殺すだけ」
──そうだ。
私は、殺されなかった。
肉体は生かされ、存在だけを消された。
社会に、殺されたんだ。
「雨宮凛」という存在を、消された。
全てを奪われた。
身分も、名前も、過去も、未来も。
何もかもが、もう、残っていない。
──だから、いい。
この場所がどこであろうと、構わない。
誰にも、もう名前を呼ばせない。
私の存在が、誰かの感情で揺らぐことも、
もう、いらない。
ゆっくりと、体を起こす。
砂が、服からぱらぱらと落ちる。
ひんやりとした風が、頬を撫でる。
肌で感じる風は、生きていた頃の
どの風よりも、澄んでいて、冷たかった。
肺を満たす空気が、清涼剤のように、
心を研ぎ澄ませていく。
私は、もう「雨宮凛」じゃない。
感情は、いらない。
ただ、生きる。
この異世界で、
私は、スナイパーとして。
「……名前なんて、もういらない。」
声に出して、確かめる。
その声は、乾いていて、感情がない。
「誰かの感情で揺れるくらいなら、」
言葉を紡ぎ出すたびに、
冷たい決意が、心に刻まれていく。
「私は、ゼロでいい。」
愛用の銃身を撫でる。
冷たい金属の感触。
そこに、刃物で「Ø」の記号を刻む。
カツン。カツン。
硬質な音が、森に響く。
無機質な音が、心を落ち着かせる。
私の、新しい名前。
ゼロ。
私は、ゼロとして、この世界を生きる。
感情を捨てた、ただのスナイパーとして。
誰にも、干渉されずに。
誰にも、何も与えずに。
ただ、静かに、存在する。
それが、私の選んだ、唯一の道。
もう、誰も信じない。
信じることは、弱さだ。
そして、裏切りしか生まない。
私は、もう二度と、裏切られない。
冷たい森の空気が、肺を満たす。
世界は何も語らない。
でも、私はもう、叫ばない。
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