ペース ブレイカー   草薙 雅のマラソン物語

ハイヒール オオイシ

第2話 デビュー戦 VSフレグランス・アンダー・ウッド

 スタート地点は清水市清開(せいかい)にある清水総合運動場、駐車場は200台分以上あり、スタートは午前10時だが9時位から続々と車と人が集まってきた。


 雅達3人は朝8時に会社に集合し、ヘルシーチームの社用車である3列シートのワンボックスカーに乗った。


 車は10年落ちでワックスはおろか洗車もしたことがないので所々錆(さび)が目立つ。走行距離も10万㎞を超えているがエンジンやミッションはびくともしない、さすがは丈夫なニッスン車だ。運転手は監督で念の為に助手席にはランナーを乗せなかった。


 車は4ナンバーなのでお世辞にも乗り心地が良いとは言えなかったが、3人のランナー達は自分の車を所有しておらず、乗り心地が良いのか悪いのか区別が付かなかった。


 また雅が3列目に座っても車内は充分広く評判は上々であった。そして目的地に着くと2列目に座っていた田辺 要がスライド ドアをガチャリと開けて車から降り、最後に雅がドアを閉めるときは勢い良くドアをガラガラとスライドさせてガチャンと閉めた。 


 同じ頃塩分たっぷり チームチームも社用車のアークⅡに2人のランナーを乗せて清開の駐車場に向かっていた。車内でクイーンの河村 奈津子はずっとフレグランス アンダー ウッドが誰なのか考えて居たが、突然思いつき驚いた様子で大きな声を上げた。


「フレグランス=香り アンダー=下 ウッド=木」

「木下 香は引退したんじゃ無かったのか」

クイーンは知っていたようだがメーカーは知らなかったようで不思議な顔をしている。慌(あわ)ててクイーンが補足をする。


「草薙 雅が現れる前、迷彩服のシンデレラと恐れられたランナーだ」

「恐れられた?」


「そう恐れられていた、彼女は高校卒業時ヘルシー ウインナーに就職しようとしていたのだが、あいにく丁度ヘルシー ウインナーの内部分裂の時期と重なり職員を募集するゆとりは無かった。


 彼女の実家は母子家庭で、すぐに現金収入が必要だったためヘルシー ウインナーにこだわらず自分の能力が生かせて尚(なお)かつマラソンが続けられる職場を捜した。そこで見つかったのが自衛隊だったのだ」


「マラソンと自衛隊、まあ現金収入には結びつくけれど、ちょっと会わない感じがするなあ」

「私も最初はそう思った、所が彼女は南川道場出身者だと知って考えが変わった。南川道場は知って居るな」


「静岡市で南川道場を知らない人はもぐりだよ、なんでも稽古代は無料、されど他流試合は御法度、空手をベースにしているが投げ技や関節技も使うって話だけど」


「その通りだ、他の道場は我こそは日本1と言わんばかりにやたら試合に出場したがるが、南川道場では奥義を門外不出にこだわり、強いことは最初から分っているから他流試合などしなくて良いと言うのが師範の教えだ」


「なるほどマラソンだけやっていたのなら自衛隊は無いが、空手までやっていたのなら何となく頷(うなず)ける気がする」

「頷くのはまだ早い、彼女が有名になったのは自衛隊の面接試験からだ」


「何があったの」

「試験官をこてんぱんにしてしまった」

「え!」


「ここからが木下 香の伝説の始まりだ、耳の穴かっぽじって良く聞きな」

「うん」


 当時自衛隊は慢性的な人手不足で採用試験は受ければ受かるゆるい試験だった、筆記試験が終了した彼女は翌日面接試験に臨んだ。面接試験の試験会場は自衛隊の基地内、彼女が試験会場に着くと面接を受ける者がずらりと並んでいた。


 面接会場では3人の現役自衛官が椅子に座り、細長い折りたたみ式の机に今日面接を者の履歴書が並べられていた、形式通りの質問をしてよほどの事が無い限り合格となる試験であった。


 そして木下 香の番が回ってきた、彼女は3人の自衛官の前で席に着くと彼等から質問を受けた。


 当たり障(さわ)りの無い質問が終わると最後に希望する部署を聞かれ、彼女は迷うこと無くレーンジャー部隊と答えた。3人の自衛官は女だてらにレンジャー部隊かと大声で笑った。


 すると彼女は表情をこわばらせ「失礼する」と一言呟(つぶや)いてから3人の自衛官の内、左胸のき章から察するに1番階級が高そうな真ん中に座った年配の自衛官の胸ぐらを掴むと「えい」と気合いを込めて投げ飛ばした。


 ぶん投げられた自衛官は空中でとんぼ返りを打って何事も無かったようにふわりと着地、左右に居た自衛官は「何をする」と怒りを露(あら)わにして机の左右から飛び出してきた。


 木下 香は冷静に2人を見比べて居たが、2人のうち体重が100㎏を優に超える巨漢の男が香の肩と腰を掴み彼女を壁に向かって放り投げた。


 避けることも出来ただろうに彼女はされるがままに投げられた、木の葉のように軽々と宙に舞うとそのまま壁に頭から激突寸前の所でひょいと猫のように柔軟に体勢を入れ変え足から壁に着地、反動を利用して来た方向に反転すると、自分を投げた巨漢の顔面を思いっきり蹴った。


 巨漢の男は胸か肩ならびくともしなかっただろうが、顔面では持ちこたえる筈(はず)も無くその場に崩れた。もう1人の男はじっとしていた訳では無く、タイミングを見計らって香に上段の蹴りを仕掛けてきた。


 空手対空手では香に負ける道理は無く、相手の太刀筋を見切ると軽くかわして逆に蹴ってきた相手の足を片手で軽々と掴(つか)んだ、筋骨隆々な自衛官は自慢のキックが香の顔面に炸裂しなかった事が理解できないまま関節を決められた。


 さらに軸足に蹴りが決まろうとしたとき、最初に投げた階級の高い自衛官が「そこまで」と待ったを掛けた。


 香の足は相手の軸足の膝を捕らえたがかすった状態で止まった。筋骨隆々な自衛官が冷や汗をかいてその場に倒れ込んだのは言うまでも無い。


 実質2人を倒した香は最初に投げた自衛官の方を向くと彼は香の技に拍手をし「南川流とお見受けした、腕は認める、希望通りレンジャー部隊への配属を考慮する、ただしレンジャー部隊は最初陸上自衛隊員として就職し数々の試練を乗り越えられた者だけが試験を受けられる。


 最初からレンジャー部隊には配属されない、なお部隊ではレーンジャーではなく、レンジャーとあいさつする覚えておけ」と言った。香は「レンジャー」と挨拶(あいさつ)をして面接会場を後にした。


「以上が木下 香伝説だ」

「黙って聞いていたけど、まるで近くで見ていたように話すね」

「私は塩分たっぷりチーム以外に自衛隊も受験し、木下 香伝説は目の前で見てきた」


「それじゃあ、脚色なしの実話なんだ!」

「ああ。彼女はレンジャー部隊を目指して激しい訓練に励んでいたが、パラシュートの実地訓練中、着地に失敗して右膝の半月板と靱帯(じんたい)を損傷し、自衛隊の病院で手術を受けたんだ。


 しかし、術後は芳(かんば)しくなく、マラソン競技から引退して事務方に転属したと聞いていたのだけどな」

「でも、どうして運動神経抜群な彼女が、パラシュート訓練ごときで大けがをしてしまったの?」


「自衛隊のパラシュート訓練は遊びではない。背中に大きなメインの傘、お腹に予備のパラシュートを装備し、さらに戦闘用の装備を含めると総重量は60kgを超えるんだ」

 しかも、スカイダイビング用のパラシュートと違い、低高度から高速で落下する。パラシュートを開いたからといって、ふわりふわりとのんびり降りてくるわけではないんだ。

 空挺部隊は戦場の最前線に降りることを想定しているから、のんびりと安全に降下したら、有事の際に敵の兵士から狙い撃ちされてしまう。遊びで使うパラシュートとは、落下速度が違うんだ。


 鍛え抜かれ選別された兵士たちだけが空挺部隊の訓練に臨(のぞ)むのだが、それほど優秀な兵士でも、着地時に足を骨折するくらいのことはよくある話だ。足だけで着地をしてはいけないんだよ。足、臀部(でんぶ)、背中、腕、肩の5点を順番に使って、衝撃を分散させながら自分の体を落下速度から守るんだ。


 彼女だって練習の時にはしっかり出来ていた筈(はず)なのに、初めての実戦訓練際うっかり右足に全体重を乗せて着地してしまった。しかも足を骨折した位では訓練を中止してもらえない。着地した地点から手頃な木の枝でも探して折れた足を自分で固定して目的地まで自分の力で向かわなくてはならない。


 彼女も右膝が壊れたまま添え木で誤魔化し1人で目的地に到着したのだが……」

「木下 香がどんな人物かは分ったわ、でも監督、そんな大物をどうやって引き抜く事が出来たの?」

「今はまだ時期(じき)尚早(しょうそう)だ、いずれ必要な時期が来れば教える」とだけ答えた。


塩分たっぷり チームの社用車は乗り心地が良く静粛性にも優れている。車の前後と両サイドにTWIN CAM 24の文字が誇らしげに描かれている。社用車といっても実質的には監督の専用車で通勤は勿論私用でも自由に使っている。


車は定期的に洗車し、シェアロスターのワックスが掛けられてピカピカに輝いている。むろん監督は自分で車の手入れなどせず、もっぱら従業員にやらせている。

 車が目的地の清水総合運動場に着いた。ランナーたちが降りてドアを閉めると、バタムと上品な音がする。クイーンの河村奈津子とペースメーカーの山田令の2人は、謎が解けてすっきりした顔をしていた。


 両チームとも、監督は早めに選手をグラウンドに移動させた。グラウンドに着いてからレースが始まるまでの時間は、どの選手でも長く感じるものだ。


 グラウンドに並ぶ順番は昨年のレースの成績順だが、1列に5人並ぶため、先頭は「塩分たっぷりチーム」の2人と「ヘルシー」の3人が並ぶ。先頭を誘導する白バイはグラウンドの中には入らず、アスファルトの道に出てから走り始める。報道のバイクも同様だ。


オートバイに乗る報道関係者と白バイの警察官は、ランナーと違ってトイレ休憩が絶対に取れない。想像以上に仕事はきつく、レース前から水分を断ち、脱水気味にしてスタートを待つ。

レースの開始時刻が迫ってくると、ランナーは全員スタート位置に着いた。監督は雅に最後の忠告をした。

「いいか、10km、20km、30kmの給水地点で何が何でも水分を摂れ。分かったな」

「まかしときな」

 雅はフルマラソンで結果を出したことがないのに、監督の指示のおかげで妙な自信があった。

 大きなスピーカーから「位置について……」「用意!」と号令がかかり、競技用ピストルがバンと鳴った。実業団選手としての、草薙雅のデビュー戦が始まった。


 全国放送ではないがテレビとラジオで実況放送がされており、NBS放送局の桑田アナウンサーは、ゲストとして出演してくれた現役の男子マラソンランナーである双(そう)兄弟の兄、双茂と共にレースの実況を始めた。


「さて、ただいまスタートしました清水港マラソンですが、双選手はどのようにご覧になりますか?」

「今回のレースはオリンピックの選考対象外なので、毎回1位から3位を独占してきた3大ハム・ソーセージメーカー、ポンレス、角大、極東は参加しません。港町らしく路面も荒れているので、タイムより順位を競うレースとなります。


 当然、全国で4位と5位を守り抜いてきた『塩分たっぷり低価格ウインナー』と『静岡ヘルシーウインナー』の一騎打ちとなるでしょう。今回の大会から、静岡ヘルシーウインナーにはペースブレイカーが参戦したので、今まで準優勝しかできなかったヘルシーウインナーが、あわよくば優勝を狙っていることは明白です」


「よって、見どころはヘルシーチームのペースブレイカーが、どれほど活躍するかという点ではないでしょうか? ただ、ヘルシーのペースブレイカーである草薙雅という選手に関して、私はあまり知らないのですが。桑田さんは何かご存じでしょうか?」


「よくぞ聞いてくださいました。草薙雅選手は18歳。このレースが実業団としては初レースとなります。高校時代のインターハイでは全国10位前後の成績でしたが、35kmまでなら日本新記録ペースで走る期待の新人です。全国的には無名ですが、地元静岡では知名度が高く、“35kmのシンデレラ”と呼ばれています」


「“35kmのシンデレラ”とは、洒落(しゃれ)たニックネームですね。でも、35kmまでしか持たないということは、スタミナ不足が原因ですか?」

「いえ、実は給水を邪魔(じゃま)されるなどの不運が重なり、いつも結果を出せずにいたのです」


「今では高校生でもペースブレイカーを使うのは常套(じょうとう)手段になってきましたし、逆にペースブレイカーの標的になってきたということは、実力のある証(あかし)ですね。今日のレースでヘルシーの監督がどんな攻略法を伝授したのか、見ものですね」


「あの、勉強不足で申し訳ないのですが、ペースブレイカーとは何を意味するのでしょうか?」


「順番に説明しますね。女子マラソンの場合、まず1つのチームの中で優勝を目指す人をエースと呼びます。次に、エースが周りの選手にかき乱されることなく一定のタイムを出すために、30kmまで誘導する係をペースメーカーと呼びます。ペースメーカーは基本的に30kmでリタイアします」


「次に、スタートから35kmまで他チームのクイーンやペースメーカーを意図的にオーバーペースで走らせて、クイーンを潰す役目がペースブレイカーです。ですが、給水の妨害はフェアではありませんし、めったに使われないはずですから、よほど35kmまでの成績が良く、他チームに脅威だったんでしょうねえ」


 テレビで実況中継されている間も、レースは展開してゆく。

 スタートは雅得意のラビットスタート。兎(うさぎ)のようにぴょんと飛び出し、先頭集団から抜け出す。スタートの良さは雅独特のもので、長距離の持久型筋肉が出来上がった1流選手には真似ができない。


 1人独走態勢に持ち込んで敵のペースをかき乱す……予定通りだ。もっとも、今日のレースに限ってはピルを服用しているため、雅は薬の副作用でつわりのようにうっぷうっぷしていて、以前のラビットスタートのようなキレがない。それでも十分な加速力で、ヘルシーチーム以外の者には気づかれない。


 引き離されては役目が果たせなくなる、とばかりにライバルチームのペースブレーカーたちはいっせいに「偽りの先頭集団」を形成する。経験の浅いチームや、作戦の幅が狭い監督が率いるチームは勘違いをして、ペースメーカー、そして最も重要なエースまでもオーバーペースで走らせ始めた。


 当然、ヘルシーウインナーのチームは、“クオーツ時計”の異名を持つ強靭なペースメーカー、田辺要に守られてピッチを狂わせない。

 グラウンドを1周するとアスファルトの道に出る。ここから警察の白バイが先導し、報道のバイクが併走することとなる。


 下見した通り、ここから海岸線までの道路は路面のコンディションが良く、すいすいと走れる。そして海岸線に差し掛かると左に直角に曲がり、国道150号線の厄介なデコボコ道を走ることとなる。


雅がデコボコ道を走り始めた時には、偽りの先頭集団と本命の第2集団が形成されており、先頭集団と第2集団の中間に取り残されたように1人の選手が走っていた。彼女のTシャツの前後にはゼッケンに「007」の番号が印字されており、Tシャツ、短パン、キャップ、そしてランニングシューズまでも迷彩柄で統一されていた。


 エントリー名簿で確認すると「フレグランス・アンダー・ウッド」の名前で登録されており、誰なのか正体が分からない。しかし彼女は一気に先頭集団に追いつこうとはせず、じわじわと間合いを詰めて行った。


ここで水分を取らないと、いつもの二の舞になる。雅は敵のペースブレイカーに気をつけて、左折した直後に後を振り返った。雅と先頭集団とは50メートルほど開いており、今のところ敵のペースブレイカーは影すら映らない。


 雅はそんなことなど露知らず、デコボコ道を転倒しないよう神経を使いながら疾走する。デコボコ道を走り抜け湾岸道路から清水の町に左折した頃には、偽りの先頭集団から脱落者が出始める。間もなく10km地点が近づいて来た。


 雅は自分に課せられた役割を順調にこなしており、「このまま35kmまで持ちこたえてくれたら」と僅か(わずか)に期待した。


 10kmの給水地点では、ランナーから見て右側に、今日のレースに協賛してくれたコア・コーラ社から電解質飲料水として「マクエリアス」が用意されているほか、頭から被るただの真水や、各チームごとに選手の好みに合わせたスペシャルドリンクも準備されている。


 草薙雅は当然、林永のオーラスがお好みで、一目で分かるように、熊さんの柄が入ったバケツにひまわりの花柄が描かれた蓋がしてあった。


大田監督は車の中で小型の白黒テレビを見て状況を把握していたが、今のところ雅の脅威(きょうい)となる選手が現れず、彼女が独走態勢で走っている様子を見て安堵(あんど)した。

 業務用トランシーバーを使ってサインを出す必要はない。しかし、念のため10km地点で待っているヘルシーのパートさんに送信をした。

「こちら大田、アニー2号車聞こえますか? 10km地点でサインを出す必要はない。聞こえたら応答してくれ。どうぞ」

「感度良好、よく聞こえます。指示了解。では20km地点へ移動します」


 監督とランナーが乗ってきた車とは別の社用車、アニーに乗ったパートさんたちは車を10km走らせた。交通規制がされたうえに見物客が多いので移動はかなり大変だが、実業団としてマラソンを始めてからこのやり方でサインを出してきた。パートの職員は時給と弁当代を会社が負担することを条件に、喜んで引き受けてくれた。


 雅は高校3年間で一度も飲んだことのない、マラソン中の給水に挑んだ。

(ここでオーラスを飲めれば楽勝だ)と喜びながらも、念のためスペシャルドリンクを手に取る前に左側を見て、「静岡ヘルシーウインナー」の仲間たちがTシャツを着てサインを出していないか確認する。


 彼女が確実に見て取れたのは、ヘルシー以外の3チームのサインだけで、自分のチームからはサインが出ていなかった。しかし、他の3チームからサインが出ているということは、“塩分たっぷりチーム”以外にもこのレースで優勝を狙っているということに他ならない。


 各チーム、エースを勝たせるために必死だ。ここまでは順調だが、この先は用心して走らなくてはならない。


 雅は安心して自分用のスペシャルドリンクを見つけると蓋を開け、他の選手と違い350mlの紙コップを取り出すと、がぶがぶと飲み干した。林永のオーラスは喉が渇いた体に染み渡り、雅は空になった紙コップを道路に放り投げた。


 10kmも走ると、偽りの第1集団はかなりペースダウンをしており、本命の第2集団に飲み込まれつつあった。中でも一際(ひときわ)目立ってリードしてきたのは、迷彩服に身を包んだ「フレグランス・アンダー・ウッド」という選手で、第1集団と第2集団が混じって1つの集団を形成している中で先頭の方に位置していた。


 ただ他の選手は長距離走らしく、ひたひたと猫足で走るのとは対照的に、彼女は荒れた路面を強引に走るたびにドスドスと靴音を鳴らして走っていた。


 何かがおかしい。それは彼女の右膝を見れば分かることだった。彼女の右膝には、大きなムカデが這(は)っているような目立った手術痕(しゅじゅつこん)があり、膝関節が完治していないために、なめらかに走ることができなくなっていたのだ。


 10kmから20kmまでは、ベータエンドルフィンの吹き出した雅の独壇場(どくだんじょう)で、心拍数は1分間当たり180から200回。ペースブレイカーの現れない今回のレースでは、下手すればエースも狙えそうな勢いがあった。


 しかし現実には雅の視界に入らないだけで、フレグランス・アンダー・ウッドは痛む右膝と戦いながら、確実に間合いを詰めてきた。

 静岡ヘルシーウインナーの大田監督は、NBS放送を小型の白黒テレビで見ていたが、テレビの放送内容からフレグランス・アンダー・ウッド選手の正体に気づいて慌(あわ)てた。


「のんびりしちゃいられない。すぐに指示を出さなくては」

 大田監督は業務用トランシーバーのスイッチを押すと、すぐさま送信した。

「こちら大田、アニー2号車聞こえますか? 聞こえたら返事をしてくれ。どうぞ」


 アニー2号車に乗ったパートの職員は、監督に言われるがまま20km地点に車を移動中であったが、トランシーバーのスイッチは電源を入れっぱなしで、運転手以外の人が持っていたためすぐに繋がった(つながった)。


「はい、感度良好、聞こえます。どうぞ」

「急用だ。20km地点で左右の2人は赤いTシャツを着て、真ん中の1人は白地に数字の1が書かれたTシャツを着て立ってくれ」


「了解。何かあったんですか?」

「済まないが、この無線は他のチームも傍受(ぼうじゅ)している恐れがあるので、今は話せない。分かってくれ。どうぞ」

「了解」


 たかがパートの職員とはいえ、文句を言わずに指示に従ってくれる。おかげで監督は重宝(ちょうほう)している。

サインを出すのは10km、20km、30kmの3カ所だけ。10kmから20kmの間にはサインは出ない。監督は、今から10km走る間に何もないといいがと危惧(きぐ)した。


 一方、草薙雅は10km地点でサインがなかったことをいいことに、ペースブレイカーが迫り来ることなど露(つゆ)知らず順調に突っ走っていた。まして10kmの給水地点で林永のオーラスを350ml飲んだので、脱水の心配もなく絶好調だ。


「よーし、ぶっちぎってやる!」

 雅は調子に乗り、自分の真後ろに付いている選手との間合いを遠ざけてゆく。しかし、1人だけ例外がいた。木下香選手だ。彼女は見る見るうちに第1集団の先頭に近づいてゆく。その加速力は雅をも上回った。


 しかし悲しいかな、草薙雅はそれを知らない。ここまで来ると偽りの第1集団は総崩れし、本命の第2集団と入れ替わった。木下香選手は第1集団の先頭に近づくと、両手を大きく左右に振り、強引に人波をかき分けて前に進んだ。


 ヘルシーチームのペースメーカー田辺要も、異常なペースの追い上げにゼッケン番号007、フレグランス・アンダー・ウッド選手が「塩分たっぷりチーム」のペースブレイカーだと悟り、怪我(けが)をする前にさっと道を譲(ゆず)った。


「塩分たっぷりチーム」は、ゼッケン番号007が木下香だということをコスチュームから気づいていたので、肘鉄を食らわないように大袈裟(おおげさ)に避(よ)けた。いよいよ木下香と草薙雅の一騎打ちが始まる。


 木下香はさぞ右膝が痛いだろうが、表情には出さない。いや、むしろ強敵を倒すのが楽しくてたまらないようで、若干にやけて見える。

 対する草薙雅も、10km地点でサインがなかったことから、まだペースブレイカーが現れていないと信じて、ベータエンドルフィンを全開で分泌し楽しげに走る。


 そして15km地点で、ついに木下香は草薙雅を捉えた。雅はマラソンランナーらしからぬドスドスという足音が背後に迫り、後ろを振り向いた。木下香は視線を合わせ、サングラスを掛けない素顔でにやりと笑った。


 帽子から靴に至るまで迷彩柄で身を包んだ彼女を見た時、草薙雅はこの女性が今日の自分の相手だと悟った。高校の3年間、自分を苦しめたペースブレイカーが今、目の前にいる。


 何とかこいつを倒さなくてはならない。少なくとも35kmまでは良い勝負をしなくては、ヘルシーチームで雇われた責務を果たせない。それにしても、よく絶好調の自分に追いつけたものだな、と敵ながら感心もした。今、自分は3位以下を大きく引き離して先頭にいる。それなのにゼッケン番号「007」の女性は、自分にぴったりと付いてくる。


 ここまでは高校のインターハイと同じだ。でも、今年から実業団に入りさらにパワーアップした私にぴったり付いてくるってことは、男性ホルモンかタンパク同化ホルモンでも使っているのではないだろうか?


 雅は大田監督から違法ドーピングの知識を教えられていたため、妙な不安がよぎった。まともに戦っても勝てないかもしれない。実際には使っていないかもしれない筋肉増強剤のことが雅を疑心暗鬼(ぎしんあんき)にさせ、スタート時点での自信はどこへやら。今はレースに集中できず、自ら招いた不安感と戦う羽目になった。


 あと5kmも走れば給水地点となり、大好きなオーラスが飲める。しかし10km地点で350mlも飲んだので、今のところ喉の渇きは感じない。自分は違法ドーピングなどしていないが、負けるはずがない。


 大田監督が認めてくれた実力は、現に今日のレースでも先頭を走っているし、心拍数は限界に近いが呼吸はまだ余裕がある。一気に飛ばしてバテてしまったらペースブレイカーの役目が果たせないから、じわじわとスピードをアップして走行妨害がされないようにするか?


 雅は自問自答しながら自分なりに結論を出し、実行に移した。呼吸回数を故意に増やして1歩1歩の歩幅を長くし、足の回転数も微妙に上げた。


 僅か(わずか)な違いではあるが、今のペースなら3大ハム・ソーセージメーカー、ポンレス、角大、極東の選手でも付いてこられないはずだ。これでどうだ! と1~2km走ってみたが、ゼッケン番号「007」の選手は自分にぴったりと付いてくる。


 これには雅もびっくりした。今日のレースは走り始めこそピルの副作用でやや不調であったが、1kmも走らないうちにベータエンドルフィンが分泌し、普段の調子で飛ばしてきた。それなのに自分に食らいつき、さらに加速しても付いてくる。一体どういう体をしているんだろう。


 これ以上ペースを上げたら35kmまで体が持たない。いや、今のペースでも持ちそうもない。このままだと20km地点の給水が邪魔されて脱水になってしまう。ペースを上げる以外に何か方法を考えないと、いつものように「35kmのシンデレラ」と呼ばれてしまう。一体どうしたらいいんだ?


草薙雅が苦悩している間、ゼッケン番号「007」の選手は、ドスドスという大きな足音を立てて、何食わぬ顔でぴったり雅の真後ろの位置をキープし続けた。

 雅は耳障りな足音に何度か後ろを振り向き、様子をうかがった。


 ゼッケン番号「007」の選手は、雅が後ろを振り向くたびににこっとほほえんだ。彼女の微笑みを見るたびに、雅は精神的に追い詰められた。この状況でなぜほほえんでいられるのだろうか? そして3回彼女の微笑みを見た時、やっと雅は微笑みの正体を悟った。雅は自分の考えが正しいのか検証してみた。


 まずは無茶を承知で20秒だけさらに加速した。さすがに雅にもこの時間は長く感じたが、20秒後に後ろを振り返ると案の定、ゼッケン番号「007」の選手は雅に付いてこられず、僅か(わずか)ではあるが間隔が広がった。


そして、毎度毎度、にこっとほほえんだ。この時、雅は確信した。どこで聞いたか忘れたが、タイ人のボクサーが使う心理戦だ。


 パンチを食らってダメージを受けた際に、相手に向かってわざとほほえむ。すると相手は、自分の攻撃が効かなかったのかと疑心暗鬼(ぎしんあんき)となり、実際以上に相手を高く評価しておびえ、無駄な攻撃が増えて自ら墓穴を掘るという古典的な手法だ。


 戦う相手ににらまれることはスポーツ選手なら誰でも経験し、アドレナリンが分泌して交感神経が興奮することから、逆にファイトが出るものだ。だが、相手にほほえまれると、された方は自暴自棄(じぼうじき)になってしまうという心理を応用したものだ。


 何のことはない。相手もいっぱいいっぱいで自分に付いてきていたんだ。それならば、と雅はペースを2段階落とした。これでもおそらく日本新記録に近いペースだ。後ろを振り向けば彼女はほほえむだろうが、実際には呼吸数も心拍数も上限いっぱいでゆとりなど全くない。


 まして自分を追い越すことなんてできやしない。

 雅はどこで覚えたか忘れてしまった心理戦で、この場を乗り切れると確信した。そして案の定(あんのじょう)、ゼッケン番号「007」の女性は雅を抜くことなく、ドスドスという大きな足音を立てて、何食わぬ顔でぴったり雅の真後ろの位置をキープし続けた。


 一方で、本命の「塩分たっぷりチーム」に所属するエースとペースメーカー、ヘルシーチームのエースとペースメーカーは着実に3、4、5、6位をキープしており、塩分たっぷりチームの方が先行していた。


 例年通りだ。一方、木下香選手と草薙雅選手のブレイカー対決は、草薙雅が先行しているものの苦戦を強いられている感じで、これも見どころとなっている。

 7位以下は少し距離を空けられていて、1位から6位までが第1集団となっていた。


 テレビのカメラマンはランナーの邪魔にならないように細心の注意を払いながら、1位から6位のランナーにフォーカスを当てて、オートバイのスピードを調整しランナーの横を前後しながら画像を送った。


 草薙雅は運よく心理トリックに気づいて難を逃れた。そして敵の戦術から考えると、かなり手強いペースブレイカーだと察した。心理戦も手強い(てごわい)が、実際、自分の真後ろにぴったりマークできるのだから脚力もかなりのレベルだ。


 ここから3km、2人の順位は全く変わることなく、20kmの給水地点にたどり着いた。

 雅はオーラスを飲む前に、向かって左側に現れるヘルシーチームのサインを探した。


雅の予想通り、赤いTシャツを着たヘルシーの職員が2人、さらに2人の真ん中に数字の1が入った白地のTシャツの職員が立っていた。

「危険人物は1人だけか。でも、私は心理攻撃だけでは潰されないよ」


 雅は自信を持って熊さんの柄が入ったバケツに、ひまわりの花柄が入った蓋を探すと、右手で蓋をはじき、350mlのオーラスが入った紙コップを握った。その瞬間、木下香は「待ってました」とばかりに、自分の右肩で雅の左肩を思いっきりど突いた。


 南川流空手とレンジャー部隊で鍛え抜かれた肩でショルダーアタックをされた雅はひとたまりもなく、手に取った紙コップのほかに、テーブルの上にあった紙コップをガラガラと道路にこぼした。

「あ!」

「きゃあ!」


 雅が悲鳴を上げた時には、すでに中身はすべてこぼれていた。

 雅は冷静さを失い叫んだ。給水地点では水分を準備する係以外にも、多数の大会運営委員会の職員がおり、2人の職員が飛び出すと、1人は草薙雅のもとへ、もう1人は木下香のもとへ走り寄った。


 雅のもとに走ってきた職員は彼女の安否を気遣い「大丈夫か?」と聞くと、本人が左肩を押さえながら「大丈夫です」と言うのを受けて、さらに「レースは続行できるか?」と尋ねて(たずねて)きた。


 正直に答えれば「分からない」と言うべきところ、彼女は「心配ありません」と答えた。

 もう1人の係員はダッシュして木下香のもとに向かうと、「走行妨害だ!」と耳元で大声を出して叫んだ。


木下香はまるで聞こえていないように全く動じなかったが、「もう1回やったら強制退場だ! 分かったか!!」と再度怒鳴った。

 2度の警告に対しても彼女は返事1つせず、黙々と走り続けた。草薙雅との距離はみるみる開いてゆく。


 草薙雅はまず「落ち着かなくては」と考え、一呼吸おいた。次にオーラスの代わりに、誰が飲んでも構わない150mlのマクエリアスを取ると、飲まないよりはマシと自分に言い聞かせて紙コップ2杯飲んだ。次にただの真水が入った紙コップを2つ取り、頭に掛けた。冷えた真水が雅を落ち着かせた。


 レース用の短いTシャツはびしょびしょになってしまったが、下半身は短パンではなくブルマなので、太股(ふともも)に水が付いてべたべたすることはない。念のため左の腕をぐるぐる回して様子を見るが、左肩の関節や骨には異常はなさそうだ。



「やってくれるじゃないの、あのめろう」

 雅は腸(はらわた)が煮えくり返ったが、怒りにまかせず冷静に努めながらレースに復帰した。


 NBS放送局の桑田アナウンサーと双茂選手は、雅がショルダーアタックを食らった瞬間こそ見そびれたものの、テーブルのコップがいくつも地面に落ちていて、草薙雅選手が立ち止まったうえに、大会運営委員会の職員が木下香選手に何か怒鳴っている様子から、およその見当はついた。


 オリンピックの選考レースではないとはいえ、あからさまな妨害行為に、2人の解説者は次の言葉が続かなかった。

 雅は一気に追いつくか、じわじわと追いつくかの選択を迫られた。体力的には一気に追いつくことは不可能ではない。2度目のラビットスタートを使えばいいだけだ。しかし、追いつき追い越せば、30km地点でまた同じ走行妨害を食らうことになる。


 しかしあまりにも間を開けて走れば、いずれヘルシーチームのペースメーカーに追いつかれ、監督との約束であるペースブレイカーとしての使命が果たせなくなる。絶対に避けなければならないことは、ヘルシーチームのペースメーカーとゼッケン番号「007」の選手の直接対決を防ぐことだ。


 結局彼女は後者を選んだ。特に理由はない。直感的に判断した。じわじわといっても、彼女のじわじわは日本新記録並みのペースだ。すぐに追いつく。「ヘルシーチーム」の仲間たちが“塩分たっぷりチーム”に対して善戦していることを祈りながら、彼女はじわじわとペースを上げた。


 まずは普段どおり、心拍数を1分間に180回以上に上げる。その状態を維持してベータエンドルフィンが分泌するのを待つ。ベータエンドルフィンさえ分泌してくれたら、そこから先はいわゆる“ゾーンに入った状態”になるので、苦しくなくなる。


幸いにも1分もしないうちにゾーンに入った。腹は立っていたが、冷静に立ち向かわないと同じ目に遭う。まずは様子を見るか。

 雅はまだ少し余裕があるペースで、ゼッケン番号「007」の選手に近づいた。


 敵は先程のことなど何の反省もしていない様子で、ドスドスと大きな足音を立ててマイペースで走っている。雅は敵の突発的な攻撃を避けるべく、5メートルほど後ろを追尾した。


(ここで振り向かれてにやりとほほえまれたら、ホラー映画になっちまうな)

 いくら雅が精神的に強いとは言え、悪魔の微笑みは二度と見たくない。雅は高校時代に体験したことのない心理戦を強いられた。


ここから30kmの給水地点までの10kmは、雅にとってとても長く感じた。いつ何を仕掛けてくるか分からない相手と勝負するのは精神的に疲れる。こちらも負けずに反則技を使えればいいのだが。そんなことをしたらヘルシーチームの看板に泥を塗ってしまう。


 一方、相手はTシャツに企業名がプリントされていないからやりたい放題だ。

 いろんな意味でフェアじゃない。一方的に我慢のレースだ。それにしても、耳障り(みみざわり)でしようがないあのドスドスという足音は一体何なんだろう? あんな走り方をして何かメリットがあるというのだろうか? レースが終わってから監督に聞いてみるか?


 雅が本来の自分のペースでレース展開ができなくて苦しんでいると、ゼッケン番号「007」の選手は雅の心のうちが分かっているように単純な罠(わな)を仕掛けてきた。手段は至ってシンプル、減速だ。雅はペースブレイカーとしての役目を果たすべく、罠と知っても相手の手に合わせた。


どのみち、今日のレースはタイムを競わない。まして自分が優勝することはもはや叶わない。それならば、と自分もペースを下げて、相手との距離を5メートルにキープした。普段の練習でめいっぱいのスピードを維持するように走り続けてきた雅にとって、ゆっくり走るのはテンポがずれて非常につらい。


 いっそのこと一気に抜き去って、ぶっちぎって先頭を走りたいのだが、間違いなく自分に付いてくる。反則はともかく、相手の足は侮れない(あなどれない)。ここから10kmもスローペースで走らされるのかと考えると、ぞっとする。


 雅が木下香に手を焼いていた頃、ヘルシーチームの仲間たちは「塩分たっぷりチーム」に対して善戦をしていた。ペースブレイカーの相手を雅が引き受けてくれているので、事実上の先頭争いをするにあたって、物理的な邪魔をする相手がいない。


“クオーツ時計”の異名を持つ強靭なペースメーカー、田辺要に守られて、エースの川勝優子はピッチを狂わせない。


 一方、「塩分たっぷりチーム」のペースメーカーの山田令とエースの河村奈津子は、毎試合確実に荒木監督がペースブレイカーを雇って自分たちを守ってきてくれていた。そのため、直接対決は事実上初めてで、20kmを過ぎたあたりから、じわじわとヘルシーチームに水をあけられてきた。


 実力で対決しても大差ないと考えていた山田令と河村奈津子は、僅か(わずか)な差とはいえ確実に差が開いていることに、強い焦燥感(しょうそうかん)を募らせた。


 特にペースメーカーの山田令は目ん玉を三角形につり上がらせ、今までタイムで互角以上だった自分たちが劣勢になっていることが信じられない様子で、次の1手が見えずに困惑(こんわく)していた。


(ペースブレイカーが目の前にいるといないで、こんなに差が開くなんて)

 山田令だけではない。エースの河村奈津子に及んでは、山田令についていくのが精一杯で、今まで味わったことのないレース展開に頭も体も付いていかなかった。


 35kmさえ越えてしまえば、ヘルシーチームのペースメーカーとペースブレイカーは必ずリタイアするのだから、優勝の2文字が見えてくる……はずなのだが、今は2人とも30kmまでのレース展開をどうしたものかと頭をひねった。


 そして山田令はわざとペースを落として河村奈津子に並び、相談した。

「もうちょっとペースを上げていいか?」

 河村奈津子は即答した。


「無理無理、今のペースで精一杯。逆にペースを下げて」

「分かった。それじゃあ、しばらくペースを下げる」

 エースがペースメーカーにうっちゃられては話にならない。山田令は自分の意見よりエースのスタミナを温存させることを優先し、悔しがりながらもペースを下げた。


 ペースを下げたといってもほんの僅か(わずか)な差で、ヘルシーチームとの差が一気に開くわけではない。だが、河村奈津子は考えた。

(いくらペースブレイカーが目の前にいないからと言って、どうしてヘルシーチームに追いつかないんだろう?)


 そして答えを見つけた。

(海岸線のデコボコ道だ。あそこでヘルシーチームの2人は、私たちの後ろを走っていた。私たちは調子に乗ってビンビン飛ばした。でも、今になってデコボコ道のダメージが効いてきたんだ)


(例年ならペースブレイカーに守られている区間だから、マイペースのまま優勝できていたのだが……。私も山田令も、ヘルシーチームがのんびり走っていると錯覚して、オーバーペースに気づかなかったのだ。今更(いまさら)気づいても取り返しは難しいが、何とかあと10kmでスタミナを回復させないと)


 河村奈津子は自分が気づいたことをいちいち山田令に報告することなく、回復を優先して走った。


 カメラは先頭を走る2人を映した。結論からすれば、この2人が優勝する可能性はゼロなのだが、カメラマンやカメラマンを乗せたオートバイの運転手はそんなことは分からない。勝負の見せ場となる先頭争いが、ずば抜けてカメラ映りが良いからだ。


 先頭を走る木下香選手はにこにこしていて余裕が感じられる。一方、2番手の草薙雅選手は、20km地点で走行妨害に遭ってから今ひとつ元気が足りない。先頭に食らいつくことなく、一定の距離を保って力を温存するような走り方をしている。


視聴者からはじれったく見えるだろう。レースの途中からテレビを見た人からはなおさら、なぜさっさと追いつき追い越さないのかと不思議に見えるはずだ。


 テレビの放送は全国ネットではなく、NBSテレビが静岡県内だけに放送している。静岡県内では草薙雅選手は“35kmのシンデレラ”として知名度も人気も高く、応援している視聴者は、先頭でぶっちぎる展開を期待していただけに、少なからず期待外れな思いでいた。


 しびれを切らしているのは視聴者だけではない。走っている草薙雅も、どこでスパートを掛ければ一番有効なのか分からなくて、次の1手が指せない状態で手をこまねいていた。


(飛ばせば追いつかれ、合わせればスローダウンされ……。ゼッケン「007」には、どうやって対応すればいいのだろう? 悔しいが、このまま30km地点まで様子を見て、そこから一気にスパートを掛けるしかないか)


雅の心を見透かしたように、木下香は草薙雅が仕掛けてくるのを静かに待った。

(高卒でデビューしたての子を調理するのは少し気の毒な気もするが、自分で選んだ道だ。もうじき嫌というほど実業団レースの怖さを思い知らせてやるよ)


 木下香は草薙雅が仕掛けてくると信じていた。仕掛けてこないと、また“35kmのシンデレラ”と呼ばれてしまう。それは彼女の実力を認める言葉でもあったが、草薙雅にしてみれば屈辱(くつじょく)的なニックネームでもあった。だからスローレースのままで終わることはないと睨(にら)んでいた。


 草薙雅がスローレースを続けていると、不意に後ろから声が掛かった。

「おい雅、何をちんたら走っているんだ」

 雅が振り返ると、そこにはヘルシーチームのペースメーカー、田辺要がいた。雅は手短に20km地点での出来事を要に伝えた。要は状況を把握し、雅に指示を出した。


「雅、気の毒だけどペースブレイカーは自分で選んだ道だろ。私たちと練習した時のことを忘れたのか? いつも1人でぶっちぎっていたろう。

 このまま仲良く並んで走ったら、ペースブレイカーの役目が果たせないじゃないか。いいか、よく聞け。妨害に遭ったらその時はその時だ。自分の役目を思い出して、35km地点までぶっちぎれ。敵は1人だ。お前の力なら、次の給水地点までに十分間隔を空けてたどり着けるはずだ」


「分かった。やってみる」

 草薙雅は田辺要の言葉を信じて、一気に加速する準備をした。

 まずは停止して深呼吸を3回。そして自身初となる、中盤戦からのラビットスタートを使い、あっという間に木下香に追い付いた。木下香も負けまいと、両手を大きく左右に振り、追い越されまいとした。


草薙雅からしたら、まるで後ろに目が付いているかのように、雅が右から抜こうとすれば香も右へ、左から抜こうとすれば左へ回り込み、肘を左右に大きく振って雅の行く手を阻(はば)んだ。


 雅はだめでもともとと、単純なフェイントを仕掛けた。右から抜くと見せかけて一気に左から抜き去ろうとする。南部体育館で行ったバドミントンの効果で、雅が右から抜くと見せかけて一気に体の向きを反転させて左から攻めると、隙(すき)を突かれた木下香は対応できず、雅は一瞬で抜き去った。


 あと7kmで30kmの給水地点。雅はとりあえず逆転に成功した。

 逆転には成功したものの、木下香は相変わらずドスドスと耳障りな足音を立てながら、雅の後方5メートルほどの位置を確実に確保している。


このままでは30km地点で必ず何か仕掛けてくるはずだ。木下香からすれば、草薙雅は蜘蛛の巣に引っかかった小さな虫のようなものだった。もがけば糸がさらに絡(から)まり、もがかなければ蜘蛛が直接獲物を捕食しに来る。全く想定内の楽しいゲームだった。


「ペースを上げても付いてくるし、そもそも持続できる速度としては今のスピードで精一杯。このままゼッケン番号007の餌食(えじき)になるしかないのか?


 このままではインターハイの時と同じじゃないか? いや違う、私はこのレースで10km地点でも20km地点でも妨害は受けたものの、水分は飲んでいる。高校の時よりもマシなはずだ」

 雅は自分の気持ちを鼓舞(こぶ)させ、レースに臨(のぞ)んだ。


苦戦しているのは雅だけではなかった。ヘルシーチームの後ろでじわじわ差が開いていた「塩分たっぷりチーム」のエース、河村奈津子は山田令に近づくと、

「もう大丈夫だ。ピッチを上げてくれ」と頼んだ。


 山田令は「待ってました」

 と喜んでペースを上げた。彼女は河村奈津子のこの一声をじっと待っていた。これで本来の優勝争いになる。


 そう考えると山田令はわくわくした。河村奈津子がどうして中盤で不調になったのかは分からないが、そんなことはどうでもいいことだった。確かにヘルシーチームにはかなり水をあけられてしまった。しかし、この程度の差なら河村奈津子が目を覚ませば射程距離内だ。


 山田令はラビットスタートこそできなかったものの、一気にペースを上げてヘルシーチームに向かって行った。


 中盤戦の戦いはNBS放送の2人にとっても面白い展開になった。先頭争いでは、走行妨害で2位に転落した草薙雅が再びトップに躍(おど)り出て、エース同士の争いもヘルシーチームに水をあけられた「塩分たっぷりチーム」が再浮上してきた。


 まずは桑田アナウンサーから。「面白い展開になってきましたね。もしかしたらこのまま草薙雅選手と木下香選手のワンツーフィニッシュなんてことも起こりえますか?」


 双茂選手は否定的で、「そもそも敵と味方でワンツーフィニッシュという使い方はしませんが、草薙選手はともかく木下選手は42.195kmまで絶対に持ちません。


 右膝の故障で表舞台から遠ざかった彼女が、今日ここにいること自体不思議ですが、おそらく右膝に何度もヒアロン酸注射を打ち、さらにラキソニンやオアラセット配合薬を上限いっぱいまで使って参戦していると考えられます。よって完走は絶望的です」


「度々(たびたび)勉強不足ですいません。ラキソニンは分かりますが、ヒアロン酸とオアラセット配合薬とは何でしょうか?」


「まずヒアロン酸は膝が故障したときに使う関節注射です。オアラセット配合薬は非麻薬性鎮痛剤の中で一番強い鎮痛剤です。木下選手の走りを見ている限り、私が彼女の監督なら即座にリタイアを宣告します。


 20km地点での走行妨害はともかく、自衛隊で無理をして膝の故障をしなかったら、日本を代表する選手だっただけに、痛々しく残念に思います」

「そうなんですか。何かペースブレイカーって損な役目ですね」


「いいえ、損なことはありません。ペースブレイカーが損な役目なら、ペースメーカーはどうですか? それぞれ向き不向きや監督の作戦に則(のっと)って走っているのですから、損な役目とか得な役目というものはありません」


「オリンピックの選考対象レースは例外として、1チーム3人で出場した時、それぞれ役目がなかったらどうなりますか? 同士討ちになってしまうでしょう。

 ただしチームによっては30kmでリタイアすべきペースメーカーがそのまま完走しても良しとする監督もいますし、35kmまで走るペースブレイカーもしかりです。ただ現実的にそんなことが起こるのは、当日仲間のエースが故障した時くらいしか考えられません」


「なるほど、言われてみればその通りですね。ただ個人的にはペースブレイカーという役割は気の毒な気がしてならないのですが……」

「あ、すいません。ちょっと調子に乗ってきつい言い方をしてしまいました。桑田アナウンサーのおっしゃるように、1チーム2~3人で参加して全員がエースというチームもあります。


「3大ハム・ソーセージメーカー、ポンレス、角大、極東は実業団ではなくプロですから、役割を分担しません。しかし結果的には、それぞれのチームで1番良い成績を残すのはいつも同じ人物です。ペースメーカー、ペースブレイカーでないとすると、強いて呼ぶならエースとスペアとでも呼べばいいのでしょうか?


 3大ハム・ソーセージメーカーの選手は、今開催されているローカルレースと違い、オリンピックの選考レースを自分のピッチで正確に走れる人材ですから、ペースメーカーは不要です。その中でも各チームのトップは、日本にペースブレイカーとなり得る選手がいません。


 そのために男性選手がペースメーカーを務めるわけです。ただし、強いて言うなら草薙雅選手は、もしかしたら日本を代表する3人に食い込めるかもしれません」


「そう言っていただけると、ローカルレースを放送しているNBS放送の面子(めんつ)が立ちます。さて、レースの方はいよいよ草薙雅選手にとって鬼門となる30kmの給水地点に近づいてきました。果たして草薙選手は木下選手をうまくかわすことができるでしょうか?」


 NBSの解説通り、30kmの給水地点が近づいてきた。草薙雅はここで確実に給水をしなくては、35kmまでレースをかく乱できなくなる。彼女の後方5メートルには、ゼッケン番号「007」の選手がぴったりと張り付いている。


 雅は現在位置をだいたい28kmと推測した。20km地点で妨害され、びしょびしょになったTシャツはすっかり乾き、今は汗をかいても体温ですぐ乾き、ごわごわになっている。いわゆる「汗をかく」状態から「塩をかく」状態になっている。


「よし、これなら行けるぞ」

 草薙雅は決心し、スパートをかけた。彼女の心拍数は上昇し、1分間当たり180回を超えた。長距離ランナーでこの心拍数は、上限を超えている。


 しかし草薙選手にとっては、180回から200回がいわゆるゾーンに入った状態になり、落ち着いて走りやすくなる。ベータエンドルフィンが十分に分泌している証拠だ。


 草薙雅が調子を取り戻した頃、大田監督は木下香対策に頭を抱えた。そして20km地点と同じ目に遭わされないために、給水のタイミングをずらすべく業務用トランシーバーでサインを送った。


「こちら大田、アニー2号車聞こえますか?」

 返事は即座に来た。

「はい、こちらアニー2号車感度良好です。どうぞ」

「30km地点で左右に黄色いTシャツ、そして真ん中に白地に下向きの矢印のTシャツで頼む」

「了解」


 果たしてこれでうまくいくだろうか? 大田監督に不安がよぎった。

 草薙雅選手は決して後ろを振り返ることなく、ゾーンに入った状態で2km走りきった。そして向かって右側に待望の給水所が見えてきた。念のため左側を確認すると、ヘルシーチームのTシャツを着た職員が3人、そして左右のTシャツは黄色、真ん中の人物は白地に下向きの矢印が入ったTシャツを着ていた。


(えー、ペースダウン?)

 雅は困惑(こんわく)した。そして監督の意図が分からぬまま、ペースを落とさずに給水所に向かおうとして、ふと気づいた。

「はい、お約束します。ただし、私の作戦通りに走ってもらえたらね」


(そうだ、監督との約束がある。指示に従わなかったら給料やボーナスがもらえない)

 雅はやむなくペースを下げて給水所に向かう。

 雅は後ろを振り返らなかったから、ゼッケン番号「007」の選手が自分の真後ろで手ぐすねを引いて待っているとは思いもしなかった。


走っていたときは、耳障りなドスドスという足音も聞こえていたのだが、ゾーンに入った走りでは神経が集中できすぎて、足音が聞こえなくなっていたのだ。この一瞬をゼッケン番号「007」の選手は見逃さなかった。


 一気に雅を追い越すと、一足先にマクエリアスを1杯飲み干した。そして、オーラスをおいしそうに飲み干す草薙雅に対して、大袈裟に腕を振って走り出した。油断していた雅は避ける暇もなく、木下香選手が放った肘鉄(ひじてつ)を左脇腹に食らった。


「キャー痛い、何するの!」

 雅はゼッケン番号「007」の選手をにらみつけたが、相手は何食わぬ顔でほほえんでいた。大会主催者側は20km地点での木下香選手の妨害行為から彼女に目をつけていたので、木下選手には即座に退場処分が言い渡された。木下選手は大会主催者に抗議などせず、右足を引きずりながら大人しくレース場を後にした。


NBS放送のカメラは決定的な瞬間を映していたので、桑田アナウンサーと双茂選手は揃ってコメントを出した。


 まずは双茂選手から。「これは酷(ひど)いですね。確かにペースブレイカーは敵対するチームの選手を妨害するのが役目ですが、故意か偶然かはともかく暴力はいけません。木下香選手の退場は当然の処置ですが、草薙雅選手のダメージが心配です」


 桑田アナウンサーも。「全くです。今までスポーツの解説を仕事としてやってきましたが、球技以外で暴力を用いた妨害はお目にかかったことがありません。男子マラソンではどうですか?」


「男子マラソンでペースブレイカーによる暴力的な妨害は、少なくとも私は経験したことがありません。強いて言うならスタート時に多少もみ合いになるケースはありますが、今回のような露骨な暴力行為は初めて見ました。


 退場処分は当然ですし、木下香選手はしばらくマラソン競技に参加できないことでしょう。まあ、本人も今後の処分を承知のうえでの行動だったと思いますが」

「おっしゃる通りですね。草薙雅選手が無事に戦線復帰できることを祈るばかりです。解説席からは以上です」


 2人がコメントをする間、草薙雅は何とかレースに復帰すべくもがいていた。大会主催者の係員は「大丈夫か?」と声を掛けたが、雅は脇腹の激痛で返事すらできない状態だった。それでも健気(けなげ)にレースに復帰しようとしたが、深く息をすると激痛が走り、歩くのがやっとだった。


 それでも35kmまで走らなくてはと考え、とぼとぼと歩いていたところ、あっという間にヘルシーチームの仲間たちが追いついてきた。ペースメーカーの田辺要は、雅が歩いているところを見つけて声を掛けた。 


「また、やられたのか」

「脇腹に肘鉄を食らった」

「深呼吸できるか?」

「痛くてできない」


 田辺要はこれだけの会話でことの重大さを予想し、雅にリタイアを強く勧めた。

 雅は「35kmまで走らないと監督との約束が果たせない」と抵抗したが、要は「今はそれどころじゃない。すぐに病院を受診しないと」と諭(さと)し、川勝優子に「後は頼んだぞ」と言った。川勝優子も「まかしとけ」と返事をした。


レース場を後にし、群衆をかき分けて監督を探すと、大田監督はすぐに2人を見つけ状況を聞いた。雅の「脇腹が痛くて深呼吸ができない」という話を聞くと、監督は肋骨の骨折を疑い、2人をアニー1号車に乗せた。


 大田監督はまず業務用トランシーバーを使って、アニー2号車に連絡を取った。

「アニー2号車聞こえるか。どうぞ」

 即座にパートの従業員から返事が来た。


「感度良好、よく聞こえます」

「レースが終わったら川勝優子を乗せて会社に送り届けてくれ」

「他の2人はいいのですか?」

「雅がけがをした。田辺要も乗せて今から病院を探す。以上だ」

「了解」


監督は整形外科を探した。当時、静岡市で整形外科の名医といえば、静岡再生会病院の田所宝先生が有名であったが、総合病院ゆえ日曜日の午後の外来は基本受け付けていなかった。


 大田監督は救急外来で診察してもらうことを思いつき、アニー1号車に雅と要を乗せた。車はまず雅の自宅がある高松に向かい、保険証を取りに行ってから、改めて静岡再生会病院に向かった。


 車内で田辺要は雅を心配し、「痛くはないか? 苦しくないか?」

 と繰り返し尋ねたが、草薙雅は「深呼吸しなければ大丈夫」と答えた。監督は運転に集中し声を掛けなかったが、かなり動揺し、何度か道を間違えそうになった。


 静岡再生会病院は静岡市小鹿(おしか)にある。雅の実家からは3km程度しか離れていない。

 救急外来に着くと事情を説明し、診察を受けてもらえる運びとなった。医師は田所宝先生ではなかったが、整形外科医で田所先生から指導を受けている30代の男性医師だった。


 診察室で問診が始まると、大田監督と田辺要は待合室の細長い椅子に座って、診察が終わるのを待った。

 診察室ではまず問診から始まった。雅は医師から「どうされたんですか?」と問われ、ありのままに「マラソンの競技中、ライバル選手から脇腹に肘鉄を食らって、痛みで深呼吸ができなくなりました」と答えた。


主治医は「今でも深呼吸すると痛いですか」と尋ねた(たずねた)。

 雅が「今も痛いです」と答えると、主治医は「ちょっとシャツをめくりますよ」と言って左脇腹の様子を見た。すると、物の見事に拳大(こぶしだい)の青あざが見て取れた。


「明らかに内出血しています。これは痛いでしょうねえ。とりあえずレントゲンを撮ってみましょう」と言って、レントゲン検査を受けることとなった。


 レントゲン検査室では肋骨の骨折を疑われたので、ブラジャーを脱いで検査が行われたが、プライバシーに考慮し病衣を貸してもらえたので、恥ずかしい思いはしなくて済んだ。

 レントゲン検査が終わり、待合室で診察を待っていると、雅の方から監督に話を切り出した。


「監督の言いつけを守って水分はちゃんと飲んだけれど、敵のペースブレイカーから散々な妨害を受けて、35kmまで走れなかった。悔しい」

 監督は諭(さと)すように語りかけた。


「何を言うかと思えば……。お前はよくやった。十分だ」と答えた。

 間もなくすると診察室で名前が呼ばれ、シャーカステン越しにレントゲン写真をじっと見つめる医師から声が掛かった。


「レントゲンで見る限り、明らかな骨折は見られません。しかし、おそらく肋骨にひびが入っていると思われます。4週間は過激な運動を避けてください。それからバストバンドというコルセットを出しますので、起きている間は付けてください。肋骨に大きな負荷が掛かりにくくなります」


「あとは飲み薬ですが、とりあえず痛み止めのラキソニンと胃薬のラバミピドを、それぞれ1日3錠出しますので、食後に1錠ずつ飲んでください。


 2週間分処方します。なお、2週間過ぎても痛みが激しい時や、2週間以内でも痛みが激しくなるようでしたら再受診してください。なお、痛みが治まってくるようでしたら、ラキソニンとラバミピドを減らしても結構ですし、再受診の必要もありません」 


 雅は「はい、ありがとうございます」と答え、診察室を後にした。

 診察が終わり、薬を待つ番号の紙を渡されると、2人は広い薬局の待合室に移った。監督と田辺要は「どうだった?」と心配そうに声を掛けた。


「明らかな骨折は映っていないが、肋骨にひびが入っている可能性が高いと言われた。あと4週間は過激な運動は禁止とも言われたわ」

 雅の話を聞いて、2人は複雑な表情を浮かべた。


確かに骨折よりはマシなのだが、4週間過激な運動を禁止されたら、毎日8時間ウインナー工場で勤務しなくてはならない。社会人としてマラソンランナーを目指す雅にとって、かなり苦痛な期間になる。


 しかも4週間後の5月8日の日曜日は、日本平マラソンの開催日となっている。4週間の安静を守れば、日本平マラソンの出場は絶望的だ。2人はゆううつな気分になって病院を後にし、着替えのために雅の実家に向かった。


 車の中で雅は監督に尋ねた。

「今回のレースで私に乱暴をしたゼッケン番号『007』の選手って、一体何者なの?」

 監督はゆっくり順を追って答え始めた。


「ゼッケン番号『007』の選手っていうのは、本名を木下香といって、『迷彩服のシンデレラ』と恐れられた選手だったんだ」

「迷彩服のシンデレラ?」

「そうだ。一時期は将来のオリンピック候補になるだろうと期待された、有力選手だった……」


 雅が病院で診察を受けていた頃、清水港マラソンの会場では「静岡ヘルシーウインナー」の川勝優子と、「塩分たっぷり低価格ウインナー」の河村奈津子がいい勝負をしていた。


 お互いにペースメーカーとペースブレイカーはリタイアしてしまったし、3位以下が大きく水をあけられた状態だから、事実上2人の一騎打ちだった。


 川勝優子は雅の敵(かたき)討ちとばかりに「この勝負、絶対に負けられない」という意気込みで走っていたが、対する河村奈津子も「例年優勝してきたレースなんだから負けるわけがない」と意気込んでいた。


 お互いに負けられない気持ちがぶつかり合うレースとなったが、河村奈津子は川勝優子を目標に走ればいいのに対し、川勝優子はペースメーカーがリタイアした後だから目標物がない。むろん自分のピッチは分かっていたが、練習ではなく本番で自分の前がいないレース展開は精神的にきつかった。


 河村奈津子は今すぐ仕掛けるか、レース終盤で一気に片を付けるか機会をうかがった。

 本来このレースは熟知していたつもりであったが、今日のレースに限って序盤での飛ばし過ぎがたたって中盤で「静岡ヘルシーウインナー」に抜かれ、そればかりか自分のチームのペースメーカーにスローダウンの注文をしなくてはならない展開となった。


 全日本4位のエースとしては恥ずかしいばかりの展開となった。元はといえば草薙雅が参戦したことによって例年とは違う運びとなったわけだが、全日本5位の川勝優子には決して負けないという自信は、今思えば例年ペースブレイカーによってもたらされてきたということに気づく。


 しかし今となっては、両チームともペースメーカーとペースブレイカーはリタイアしたのだから、2人の自力勝負だというのに。後ろを走る自分が持つべき選択権がないように感じられるのはなぜか? 元々、自分は川勝優子よりも劣っていたのだろうか?


河村奈津子が手をこまねいていると、その様子をオートバイに乗ったカメラマンはじっくりと映した。


 河村奈津子はしびれが切れてきた。先手必勝かラストスパートか悩んでいるだけでイライラしてくる。どちらにした方がこのレースを有利に運べるのか? 相手のエースと自分の実力はおそらく互角、ならば。(ええい面倒くさい、行っちまえ)


 河村奈津子はピッチを上げた。河村奈津子は川勝優子の後方5メートルに位置していたから、追い抜くのは造作もないことだった。あっという間に追いつき追い越し、今度は川勝優子の前方5メートルを走った。


 河村奈津子はまだ先に行けると考えていたが、自分ではピッチを上げ続けたつもりが、後方を振り返ると川勝優子はぴったり5メートル後方を走っている。


(川勝優子が自分に合わせてピッチを上げているのか?)河村奈津子は疑心暗鬼(ぎしんあんき)をかき立てられた。(一体どうなっているんだ。もっとピッチを上げないと差が開かないというのか?)


 一方、川勝優子は河村奈津子に抜かれてもペースを変えなかった。残り8km。ここで抜きつ抜かれつの展開になれば、体力を消耗し自分が負ける可能性が高くなる。


 それよりも、河村奈津子の後方5メートルの位置をキープして、最後にラストスパートで抜き返せばいいだけの話だ。しかもありがたいことに、河村奈津子は確かに自分を抜きはしたが、そこでピッチが上がらなくなり距離が離れない。


 このままなら私はいつでも抜き返すことができる。ちょうど具合のいいペースメーカーだ。

川勝優子は河村奈津子のように悩まなかった。自分はいつものペースで走っている。


 草薙雅のように日本記録ペースで走ることはできないが、日本歴代4位と5位の差は想像していたより小さい。河村奈津子をペースメーカーと思い込み、彼女の5メートル後方を走り続ければいいだけだ。こんなに楽なレースはない。


 一方、河村奈津子は再三後ろを振り返りながら、川勝優子を追い越したことを後悔した。

(そんなはずはない。うちのチームはヘルシーチームに連戦連破してきたのに。レースの中盤戦と同じで、これ以上加速ができない。息が上がっているし、強引に加速したらきっと膝が笑ってしまう)


 カメラが最後の2km、2人のランナーを映し出した。

 こうなってしまうとレース展開は一方的だった。ゴールまであと2kmというところまで同じ状況が続いたが、河村奈津子は今までにない違和感を覚えた。


指先がしびれる、息が苦しい。できることならリタイアしたいくらいだ)

 川勝優子は河村奈津子の不調を見逃さなかった。

(今スパートを掛けて一気に引き離す)


 川勝優子は自分に言い聞かせて勝負に出た。まずは河村奈津子を一気に抜き去り、あとは後ろを振り返らずありったけの力で走り続けた。予想通り、河村奈津子は川勝優子に追いつくどころか、ペースをずるずると落として失速してゆく。


 2人の勝負は決まったというものの、川勝優子も油断はできない。3位以下の選手が浮上してくる可能性もあるからだ。

 川勝優子は(雅の敵討ちだ! 絶対に勝つ)と、心拍数を130前後から150以上に引き上げて、己の限界に立ち向かった。


 例年、清水港マラソンでは2位に甘んじてきた。今年を逃したら次にいつチャンスが巡ってくるか分からない。本人は3位以下を大きく引き離していることなど知る由(よし)もないから、優勝がほぼ確定した鉄板レースだとは考えず、ぎりぎりまでピッチを上げた。


 ピッチを上げた川勝優子にとって、2kmなどあっという間で、追い越しが難しい清水のアーケード商店街を1人で駆け抜けると、大高整形歯科クリニックの横をすり抜けて海岸線近くのゴールを目指した。


 ここまで来たら転倒でもしない限り優勝は間違いない。それでもゴールのテープまでハイペースのピッチを守り、2位とは2分以上の差を付けて、川勝優子はガッツポーズと共に無事ゴールした。オリンピックの選考対象外とはいえ、ヘルシーチーム発足以来初となる優勝だった。


 優勝はしたものの、テレビで見るように監督がそばにやって来て喜びを分かち合うことはなかった。代わりにアニー2号車に乗っていたパートのおばちゃんたちがやって来て、「おめでとう」と言いながら大きなバスタオルを背中から掛けてくれた。


 川勝優子は浸(ひた)る間もなく「トランシーバーを貸して」とパートの職員に頼んだ。

 パートの職員は事態を察して、大急ぎで車までトランシーバーを取りに行った。トランシーバーが届くまでの間に、「塩分たっぷりチーム」の河村奈津子選手がゴールに近づいてきた。彼女はもはや走ることが叶(かな)わず、リタイアだけは避けるべく、とぼとぼと歩いてきた。


40kmまでの貯金が物を言い、かろうじて2位の座は守ったものの、1位との差はタイム以上に歴然としていた。


 「塩分たっぷりチーム」の荒木監督は機嫌が悪かった。一応大きなバスタオルを持ってきて河村奈津子選手の背中に掛けてやったが、労をねぎらうことなく言い放った。

「一体どうしたと言うんだ。せっかくペースブレイカーを雇って草薙雅を倒したというのに」


 河村奈津子は結果を出せなかったことに下手な言い訳はしなかったが、「指先がしびれる、呼吸が苦しい」とありのままに答えた。

 荒木監督は“指先がしびれる”という症状を聞くと態度を軟化し、先にリタイアした山田令と共に2人で河村奈津子の両脇を抱え、医療班のもとへ向かった。


 ゴール地点のすぐそばにある空き地には、白くて大きなテントの下に清水病院の医師と2人の看護婦が暇そうに椅子に座っていた。


 3人とも日陰でそよ風の下、医師は白衣の上からウインドブレーカーをまとい、看護婦は2人ともグレーで厚手のカーディガンを着ていた。レース場から2人がかりで両脇を抱えて連れてこられた河村奈津子に、看護婦は優しく声を掛ける。


「どうされたんですか」

 河村奈津子が「指先がしびれる、息が苦しい、まともに歩けない」と答えると、医師は念のため「背中は痛くありませんか? 深呼吸をすると胸が痛くなりませんか?」と問うた。「痛くありません」という返事を聞くと、医師は看護婦に「紙袋を用意してくれ」と指示した。


あまり聞き慣れない指示に、看護婦は戸惑いながら「ビニール袋でもいいですか?」と聞いた。

 医師は「まあいいか」と答え、河村奈津子に「ビニール袋に口を付けて息を吸ったり吐いたり、ゆっくり行ってください」と指示を出した。


 河村奈津子が医師の言う通りに、ビニール袋に入った空気を吸ったり吐いたりしていると、医師は時折ビニール袋を口元から外し、新鮮な空気を入れて再度同じことを繰り返した。奇妙な治療を続けること数分、河村奈津子は呼吸が楽になり、指先のしびれも収まった。


 医師は「もういいでしょう」と言ってビニール袋を外した。

「先生、私は何の病気?」と河村奈津子が尋ねると、医師は

「過呼吸です。頑張りすぎましたね」と笑って答えた。


荒木監督は「まあ、今回はしょうがない。レースの展開がまずかったな」と河村奈津子を責めはしなかったが、褒(ほ)めもしなかった。


 そうこうしているうちに3位も確定し、表彰式の準備が始まった。河村奈津子が過呼吸の治療をしている間、川勝優子は大田監督とトランシーバーで連絡を取り、雅の安否を気遣った。


「こちら優子、監督聞こえますか? どうぞ」

 トランシーバーで返事をくれたのは大田監督ではなく、田辺要であった。

「こちら要、感度良好。結果はどうだった? どうぞ」

「ばっちり優勝したよ。雅はどうなった? どうぞ」

「やった! 優勝おめでとう。どうぞ」


トランシーバーからは、監督と雅の声も混じった三人の祝福が同時に響いた。だが、直後に続いた報告に優子の表情が凍りつく。

「雅だが、左脇への肘鉄が相当効いたらしい。診断は肋骨のひびで、四週間はハードな運動は禁止だそうだ。どうぞ」


 優子は絶句した。優勝の喜びは一瞬で吹き飛び、胸に重い塊が居座る。雅は、自分を勝たせるために、それほどの痛みを隠して戦っていたのだ。

「……了解。指示を仰ぎたい。これからどうすれば? どうぞ」


 沈黙を破って、監督の声が返ってきた。

「表彰式が終わったら、アニー2号車で本社まで来てくれ。シャワーを浴びて着替えたら、四人で焼き肉を食べに行こう。どうぞ」


 川勝優子は、雅の怪我が気がかりだった。しかし、静岡ヘルシーウインナーに就職して初めての優勝だ。「優勝したら焼き肉食べ放題」という約束を楽しみに、彼女は表彰式へと向かった。


 レース自体はまだ続いていたが、上位三名による表彰式が始まった。河村奈津子は、数分前の失速が嘘のような元気を取り戻し、銀メダルを首に下げていた。二位とはいえ三位とはかなりの差がある。四十キロ地点からの不調を考えれば、本人にとっても納得のいく二位だった。

 

 まして最後の2㎞は2人の死闘をカメラがずっと写し続けた為に会社のコマーシャルとしては充分な出来であった。


 川勝 優子は表彰台の1番上に上り、大会主催者から金色のメダルを首に下げてもらった。メダルを手に取り、思わずにっこりと微笑むと報道陣やアマチュアのカメラマンが一斉にフラッシュをたいた。眩(まぶ)しさに目を細めた姿は明日の駿河新聞でスポーツ欄に掲載される事だろう。


 写真撮影の後はNBSテレビからインタビューを受けた。

 桑田アナウンサーから「何処から優勝を意識しましたか」と尋ねられ「40㎞の地点で前に1人も居なかったので行けるかな? と思いました。応援して下さった皆様、大変ありがとうございました」と答えると

 観客から拍手が巻き起こった、ヘルシーチーム発足以来初めての快挙だった。


 川勝優子は「塩分たっぷりチームに勝ったんだ、自分たちのチームが優勝したんだ」と、遅まきながら感極(かんきわ)まった。

「優勝インタビューは以上です」


 桑田アナウンサーと双茂(そうしげ)選手は放送席へと戻り、四位以下の解説を再開した。

 インタビューから解放された優子は、アニー2号車を探して合流すると、車をひとまずヘルシーチームの寮へと向かわせた。


 寮に到着するまでの間、車内では三人のパートさんから祝福の言葉が相次いだ。

「やっと優勝できたね」

「おめでとう、やったね!」

「次のレースもこの調子で優勝してね」


  川勝優子は祝福の言葉を受けるたびに、優勝と準優勝の差を痛感していた。わずかなタイム差。だが、準優勝ではインタビューさえ受けられない。たった一位の差で、これほどまでに周囲の反応が違うものなのか。


 オリンピックの選考レースならいざ知らず、ローカルな大会では優勝者の名前こそ駿河新聞に大きく掲載されるが、二位以下は「以下の順位は……」と小さな文字で三位までが載るに過ぎない。マスコミの扱いが全く異なるのだ。


 しかし、彼女は浮かれなかった。今回の勝因は草薙雅の捨て身の活躍によるものだ。一刻も早く本人に会い、怪我の程度を確かめたかった。

 車内は広いが、決して滑らかな乗り心地とは言えないアニー2号車に揺られること四十分。車はようやく、ヘルシーウインナーの本社に到着した。


 パートの女性たちに「ありがとうございました!」と元気にお礼を言うと、優子はガラガラとスライドドアを開けた。三人のパートさんたちは手を振って別れを告げ、アニー2号車を片付けに向かった。会社にも報道陣が詰めかけ、もう一度インタビューを受けることになるかと思っていたが、そんなことはなかった。


 考えてみれば、例年「清水港マラソン」で優勝し続けていた『塩分たっぷり低価格ウインナー』の選手も、レース直後のテレビインタビューこそあれ、会社まで記者が追いかけてくることなどなかったのだ。


 一方、太田監督は雅の診察が終わると、まず彼女を自宅へと送り届けていた。


 雅の自宅は築五十年の古いアパートで、屋根瓦には年季を感じさせる苔(こけ)が生い茂っていた。幸いなことに、狭いながらも駐車場は備わっている。監督は車を停めてエンジンを切ると、肋骨を庇(かば)う雅の体を支えながら、ゆっくりと彼女の家の玄関へと向かった。


 雅が「私の家に何の用ですか?」と不審そうに尋ねると、太田監督は真面目な顔で返し返した。

「仕事で怪我をしたんだ。君のお母さんにお詫びくらいしなくては、筋が通らない」


「骨が折れたわけじゃあるまいし……」

 雅が玄関先で渋っていると、ドアが開き、中から雅の母親が顔を出した。

「仕事で怪我をしたんだ。君のお母さんにお詫びくらいしなくては、筋が通らない」


 雅が玄関先で渋っていると、ドアが開き、中から雅の母親が顔を出した。

「あれ、お帰り。……そちら、ご一緒の方は?」

「挨拶が遅れました。私、静岡ヘルシーウインナーで陸上部の監督をしております、太田と申します。本日のレースで雅さんは大変な健闘をされまして……」


「あら。……さては、うちの子が怪我でもしましたか?」

 母親の鋭い指摘に、監督は居住まいを正した。

「おっしゃる通りです。肋骨にひびが入ってしまいまして……」


 すると母親は、案じるどころかカラリと笑った。

「ああ、そんなことならお気になさらないでください。うちの子が好きで選んだ道ですから」

 監督は「大切な娘さんに怪我をさせて大変申し訳ございませんでした」と言いながら大袈裟に頭を下げた。


「監督さん、頭を上げて下さい、うちは長男もスポーツ選手ですから生傷(なまきず)が絶えない事は承知しております。後は本人から聞きますから、もう結構です」

 監督はもう一度深く頭を下げ、「大変申し訳ございませんでした」と告げて車に戻った。そのまま急いでヘルシーの寮へと向かう。


 寮に到着すると、シャワーを浴びて着替えを終えた川勝優子が監督たちを待っていた。監督は、同じく着替えを済ませた田辺要を車に乗せると、息つく暇もなくとんぼ返りして雅を迎えに行った。


 自宅で着替えを終えていた雅を車に乗せると、再び合流地点へ戻る。ようやく四人が揃ったところで、車を焼き肉食べ放題の店『じゃんじゃん』へと走らせた。

 車内、川勝優子は誰から挨拶しようなどという形式的なことは考えず、真っ先に草薙雅へ声をかけた。


「雅、具合はどうなんだ?」

「へっちゃらってことはないけど、深呼吸しなければ大して痛くないよ。でも、四週間はハードなスポーツは禁止って言われちゃった」


 平気を装う雅は、食べ放題のレストランを楽しみに、入社初日と同じ白いブラウスに紺色のスカートを穿(は)いていた。ただ、靴だけはパンプスに懲(こ)りたのか、黒い運動靴だ。ブラウスの下にはコルセットが透けて見え、それがかえって痛々しい。


 田辺要は感極まって川勝優子に抱きついた。

「やったね、やっと優勝できたね!」

 太田監督も目を細める。

「やっと念願叶(かな)って、焼き肉食べ放題に行けるな」


 川勝優子は、ピンク色でフリルのついたひらひらのワンピースに着替えていた。田辺要も着替えを済ませていたが、彼女の方はフリルのないシンプルなデザインの水色のワンピースだ。


 高級料理店に行くわけではないが、二十歳前後の彼女たちにしてみれば、外食そのものが贅沢(ぜいたく)だ。たまにはお洒落(しゃれ)をしてみたいのだろう。もっとも、そのワンピースは化学繊維製で、万が一食事で汚してもネットに入れれば寮の洗濯機で丸洗いできる代物(しろもの)だった。


 太田監督は、紺色のスーツにスラックスを穿(は)き、滅多にしないネクタイを締めていた。食卓で邪魔にならないよう、タイピンまで留めている。

 レース前は緊張で静まりかえっていた車内だったが、今日は勝手が違った。女性が三人集まれば、自ずと話が弾む。


「どこから優勝を意識しましたか?」

 田辺要がテレビの実況を真似てはしゃぐと、監督まで「四十キロ地点で前に誰もいなかったので、行けるかな? と思いました」と優子のインタビューを再現して応じ、車内は笑いに包まれた。


 四人ともゲラゲラ笑いながら道中を過ごすと、あっという間に静岡市下島(しもじま)にある焼き肉食べ放題の店『じゃんじゃん』にたどり着いた。

 そこは当時としては画期的な「一時間食べ放題千円」の店で、腹を空かせた学生たちから絶大な支持を得て繁盛していた。


 もっとも、四人が着いたのは午後二時過ぎ。ランチタイムを外れていたため、店内には空席が目立っていた。四人掛けのテーブルが十二卓ほど並ぶ店内で受付を済ませると、すぐに席へ案内された。


 テーブルの中央にはガスコンロがあり、店員が手際よく火を灯していく。あとは店内にどっさりと置かれた生肉やデザートを、一時間以内なら存分に堪能できる。デザートにアイスこそないが、瑞々(みずみず)しいフルーツが並んでいた。


ドリンクは別料金のオプションで、ジュースやビールが用意されていた。こちらは飲み放題ではなく、一杯いくらの別勘定になっている。

 席に案内されると、優子と要は素早く生肉を運んできては焼き始めた。雅も二人の先輩に倣(なら)い、自分の好きな肉を皿に乗せて戻ってくる。太田監督も腹一杯食べたかったが、ウエストを気にして皿にちょっぴり肉をよそってきた。


 クイーン(優子)とメーカー(要)は、滅多に頼まないビールまで注文しようとした。監督は自分がドライバーで飲めないことから一瞬渋い顔をしたが、「今日は優勝のお祝いだ、まあ良いか」と了承してくれた。

「アッポロ黒ラベルの生中ジョッキ二つ!」


 田辺要が注文すると、監督はお腹の贅肉(ぜいにく)を気にしてダイエットパプシを、草薙雅は百パーセントのオレンジジュースを頼んだ。

 肉が焼き上がるのを待たず、まずは四人で高らかに乾杯をした。


 田辺要と川勝優子は、二人とも普段はアルコールを口にしない。ただ優勝の余韻を味わいたくて、勢いに任せて注文したのだ。四人が一斉にグラスを傾けると、ビールを頼んだ二人は喉をゴクゴクと鳴らし、アッポロの黒ラベルをジョッキ半分まで一気に飲み干した。


 この後どうなるかは、監督にとって容易に予想できた。汗をかいた後のビールは格別だ。二人は見る間に饒舌(じょうぜつ)となり、監督と雅に絡み始めた。

 田辺要が「監督、今日のレースは走る前から優勝するって分かっていた?」と尋ねると、川勝優子も「次のレースも三人揃えば、もう怖いものなしだね!」とはしゃぐ。


 監督は小声で「雅の働き次第だと思っていたよ」とだけ答えた。

 四週間後の日本平マラソンに、雅の出場がほぼ絶望的であることなど、酔いの回った二人はすっかり忘れていた。


 四十分も過ぎると、三人の胃袋は満ち足りてきた。田辺要は小さなポーチからワイルドセブン・メンソールを取り出し、百円ライターで火を付ける。監督もそれに倣(なら)うように、ワイシャツの胸ポケットからワイルドセブンを一本当てがい、スラックスのポケットからジャッポーのライターを取り出して火を付けた。


 ガスコンロの上には大きなファンがあり、焼き肉の煙を力強く吸い上げている。二人がタバコを吸っても、他の二人に紫煙(しえん)が届くことはなかった。


 食事を終えて一服すると、タバコのヤニが効いて頭がクラクラする。二人が満足げにぷかぷかと紫煙を燻(くゆ)らせているのを、川勝優子と草薙雅は「何がおいしいんだろう」と不思議そうに見守っていた。


 タバコを吸い終えた監督が、会計の準備をしようと背広の内ポケットを探っていた時のことだ。店の自動ドアが開き、白いワンピースを着た女性が入ってきた。右脚をかばうような足取りながらも、ハイヒールの踵(かかと)をコツコツと響かせ、店内へと進んでくる。


 受付の店員が「何名様ですか?」と尋ねるが、彼女は「客に用があるだけ。すぐ帰るわ」と短く答えた。


 白いワンピースの女性は店内を鋭く見回すと、迷いのない足取りでヘルシーウインナーの四人が座るテーブル席へと向かってきた。監督はまだ満腹ではなかったが、胸騒ぎを覚えた。


四人が席を立とうとした時、白いワンピースの女性が声を掛けた。

「今日はお世話になりました」

 彼女は深く頭を下げて挨拶をした。顔を上げた彼女に四人が視線を集中させると、そこに立っていたのは、あろうことか木下香だった。


 四人は頭から冷や水を浴びせられたような気分になり、一斉に彼女を睨みつけた。

「やいやい、一体何の用だ」

 田辺要がヤニ臭い息を吐き捨てた。優子と雅は今にも怒鳴り出しそうだったが、監督は冷静を装い、「まあ待て。何か用があるんだろう」と三人をおさえた。


「監督が知りたかったのは、これじゃなかったかしら?」

 木下香はそう言って、一枚のレポート用紙をそっと差し出した。

 ボールペンで書かれたその内容は、驚くほど簡潔(かんけつ)だった。


1.ペースブレイカー:チストステロン

2.クイーン   :テラーヂン

3.ペースメーカー:テラーヂン


 監督は内容に目を通し、木下香に静かに尋ねた。

「……君もチストステロンを使ったのか?」

「いいえ。私は膝(ひざ)にヒアロン酸の注射を打って、オアラセットを飲んだだけよ」

 彼女は淡々と答えた。


「なぜ、この資料を私達のところへ持ってきたんだ?」

 監督の問いに、香の瞳がわずかに揺れた。

「もし私がヘルシーウインナーに就職できていれば、今頃ここで、あなたたちと仲良く食事ができていたはず……。そう思うと、居ても立っても居られなくなったのよ」


「そうだな。もしうちの会社が分裂した時期でなければ、君はきっとヘルシーチームのクイーンか、ペースブレイカーとして活躍していたはずだ。……しかし、なぜ今回のレースで、あえて敵(かたき)役のペースブレイカーを買って出たんだ?」


「巷(ちまた)で噂(うわさ)の草薙雅と対決したくて、この役を引き受けたの。……ちなみに、二回目の接触は故意にやったわけじゃない。信じろと言うほうが無理でしょうけど、あれは偶発的なアクシデント。でも、実際に走ってみて、彼女の能力は噂以上だと確信したわ」


 香は真っ直ぐに雅を見つめた。

「彼女には伸び代(しろ)がある。監督、彼女を大切に育てて。……それから、雅さん。あなたに警告があるわ。次のレース、あいつらは私のような『武力行使』じゃなく、もっと陰湿な作戦であなたを潰しに来る。用心して的確な判断をすること。そうすれば、レースを重ねるごとに、あなたは必ず成長するわ。……それでは」


監督はテラーヂンという薬について聞きたかったのだが木下 香は言いたい事だけを言って踵(きびす)を返して帰ってしまった。残された4人は微妙な気持ちになった。 ( まるっきり悪者ではなかったんだ )


 とはいえ木下 香が雅に怪我をさせたことに違いは無い。4週間の安静は雅と監督にとって大きな悩みの種であったが、2人ともこの場をしらけさせないためにあえて黙っていた。


 監督は会計を済ませると領収書をもらった。火曜日に会社の経理担当に提出すれば返金してもらえる。社長も承諾(しょうだく)している決まり事だ。

 4人がアニー1号車に乗り込むと監督は最初に雅の自宅に向かった。

 

田辺要と川勝優子は、車の中で大人しく待っていた。もし木下香が『じゃんじゃん』に現れなければ、今頃は満腹感とアルコールのせいで、ぐっすり眠っていたはずだ。


 監督は雅を自宅まで送り届けると、「お待たせ」と二人に声をかけ、ヘルシーチームの寮へと車を向けた。二人はすっかり酔いが覚めたわけではなかったが、嫌なことはさっさと忘れて、明日の休日をどう過ごそうかと考えていた。


 今日の優勝、満腹の食事、そして明日は休み――。考えてみれば、楽しいことだらけだった。(寮に帰ったら、寝るにはまだ早いから二人でテレビでも見ようかな)

 そんなことを考えているうちに、車は寮に到着した。


  監督は二人に「今日はよくやった。ゆっくり休んでくれ」と労(ねぎら)いの言葉を掛け、二人が建物に消えるのを見届けた。


 二人は監督に「ごちそうさまでした!」と挨拶をして別れた。二人を送り届けた後は、会社にアニー1号車の鍵を返却し、戸締まりを済ませる。それから監督は、大きな革製のバッグから自分の自転車の鍵を取り出した。


 自宅と会社は距離が近いため、雨の日を除けば、肥満対策を兼ねて自転車通勤をしている。雨の日だけはマイカーの利用を自分に許していた。

「テラーヂン……」

 ペダルを漕ぎながらも、木下香が口にした薬のことが気になって仕方がなかった。十分もしないうちに、自転車は自宅に到着した。


 監督の実家は、25年の住宅ローンを組んで購入した鉄筋コンクリートの建て売り二階建てだ。決して広いとは言えないが、当時としては贅沢(ぜいたく)な方で、各部屋にエアコンが設置されている。


「ふう」

 ため息をつきながら自転車を降り、鍵を閉める。自宅のドアを開けると、奥さんが「お帰りなさい。今日は優勝おめでとう」と優しく迎え入れてくれた。


 監督は二十代前半で結婚し、妻と息子の三人暮らしをしている。奥さんは専業主婦で、息子は高校卒業後ストレートで国立大学に入学。四年で大学を卒業してからは、IT関連の仕事をしている。生きる分野が違うため、滅多に親子で会話はなかったが、今日ばかりは「親父、おめでとう」と素直に父親の実績を褒(ほ)めてくれた。


監督はテラーヂンのことが気になって仕方がなかったが、手元に文献はなく、火曜日に出社してから調べるつもりでいた。玄関のドアを開けた瞬間、頭のスイッチを切り替えて、「ただいま。今日はやっと優勝できたぞ!」と声を上げた。


「それじゃあ、今晩はご馳走(ちそう)を作らなくっちゃ」

 奥さんは張り切ったが、監督は申し訳なさそうに手を振った。

「ごめん。ランナーたちとの約束があって、焼き肉食べ放題の『じゃんじゃん』に行ってきたんだ。晩ご飯はアッポロの黒ラベル350㎖とおつまみだけでいいよ」


「あら残念。それじゃあ、ご馳走は明日の夕食ね」

 奥さんは文句一つ言わなかったが、主人が優勝を素直に喜べていない「何か」があることを察していた。監督は極力、家庭に仕事の話を持ち込まない人だったが、妻は表情と語感だけでピンとくる鋭い勘の持ち主だ。おかげで助けられているが、間違っても浮気はできない。すればすぐにバレてしまうだろう。


「それじゃあ、お風呂でも入ってゆっくりくつろいでいてくれる? ちょっと買い物に行って来ますから」

「ああ、そうさせてもらう」


 監督は着替えの準備もせず、上着を脱いで風呂場に向かった。

 浴槽には昨日のお湯が張られたままで、まだ洗ってはいなかった。だが、早く帰宅したときは夫が浴槽を洗う決まりになっていたので、彼は何の抵抗もなくスポンジに洗剤を付けて掃除を始めた。


 いくら妻が専業主婦とはいえ、洗濯物や布団を干したり、買い出しや掃除機掛けに追われたりと、その暮らしが楽ではないことを彼はよく承知していた。


洗剤をつけたスポンジで浴槽を泡まみれにし、シャワーできれいに洗い流す。車の洗車やワックス掛けに比べれば大した手間ではなく、監督にとって嫌いな作業ではなかった。すっかりきれいになった浴槽に栓をし、お湯を溜める。深夜電気温水器から、勢いよくお湯が流れ出た。


 お湯が浴槽に溜まるまでの間に、監督は着替えを準備して風呂に入った。毎日同じルーチンで、まずは髭(ひげ)を剃り、次に体を洗い、最後にシャンプーをする。妻と息子は、何やら良い香りのするシャンプーを共用していたが、監督はドラッグストアで売られている安価なものを使っていた。


 シャワーで全身を流した後、湯船に浸かると、ようやく一日の仕事が終わったという実感が湧く。監督は一分もしないうちに浴槽から上がり、体をタオルで拭いて着替えを済ませ、リビングに戻った。まだ妻が買い物から帰っていなかったので、テレビの電源を入れ、新聞のテレビ欄を見ながら見たい番組がないか確認する。


 日曜日の夕方。これといって見たい番組はなかったが、ニュースで今日のレースを放送していないか、新聞のテレビ欄で確かめた。しかし、夕方のニュースまではまだ時間がある。


 仕方なくテレビのチャンネルをガチャガチャ回しながら、ぼんやりと画面を眺めていた。

 21インチのカラーテレビは当時としては大きめな部類に入るが、リモコンはまだ付いていなかった。NBS放送にチャンネルを合わせても、マラソン関連の放送は行われていない。


 そうこうしている間に、妻が買い物から戻ってきた。自宅の近所にスーパーは三軒ほどあるので、買い物には便利だ。妻がリビングのテーブルにスーパーの袋を広げると、鳥の唐揚げとアッポロ黒ラベルの350ミリリットル缶が出てきた。監督はアルコールを滅多に飲まないので家に買い置きがなく、妻がわざわざ買ってきてくれたのだ。


「そうか、わざわざ買ってきてくれたのか」

「いいえ、気が利きませんで」

(全く、よくできた女房だ)


 監督はしみじみと感じながら、棚からビールジョッキを取り出してリビングの椅子にもたれた。自分でジョッキにビールを注ぐと、妻は唐揚げのパックを開き、ソースを持ってきてくれた。


 ささやかな、でも今の自分にとって最高の晩餐(ばんさん)だった。監督はビールをグビッと飲むと、唐揚げを貪(むさぼ)り、あっという間に平らげた。妻はこの後どうなるのか分かっていたので、先に寝室に布団を敷いた。


 案の定、10分もしないうちに監督は酩酊(めいてい)し、寝室に向かった。恐らく朝が来るまで目を覚まさないだろう。


 翌日、監督が目を覚ますと九時になっていた。

 天気は薄曇りで、洗濯物はベランダに干せるが、布団は干せない状態だ。監督は、妻が郵便受けから持ってきてくれた新聞のスポーツ欄に目を通した。


 NBSテレビは駿河新聞と同じ系列会社なので、予想通り、川勝優子がゴールした瞬間が大きく掲載されていた。写真には、川勝優子が着たTシャツのゼッケンより上にプリントされた『静岡ヘルシーウインナー』の文字もくっきりと写っている。監督は「やった!」とガッツポーズを取った。


 宣伝効果は抜群で、三人のランナーと監督の夏のボーナスには確実に反映されるだろう。明日になれば社長から四人が呼ばれ、「よくやった」とお褒(ほ)めの言葉をいただくことになるはずだ。


 残された問題は、「テラーヂン」という薬の作用と、四週間後に迫った日本平マラソンに草薙雅を参加させるか、棄権(きけん)してもらうかの判断だけだ。


 強制的に棄権させるのは一番簡単だし、安全だ。しかし彼女はまだ十八歳、本人は絶対に拒否するだろう。どちらの選択もよろしくない。


 だが、決定権は自分一人に一任されている。(何年もかかってやっと優勝できたのに、素直に喜べないなんて。塩分たっぷりチームも、ローカルレースで優勝を続けてきた背景には、私には気づかない苦悩があったんだろうな)

 監督はそんなふうに思いを巡らせた。


 せっかくの休日なのでリビングでゴロゴロと過ごしたかったが、妻の機嫌を考え、「日本平でも見に行かないか?」と声を掛けた。妻は「まだ朝食も済んでいないでしょ」と夫をたしなめつつも、リビングにオムレツとサラダ、そしてオレンジジュースを準備してくれていた。


「あ、準備してくれていたのか」

 監督は両手を合わせ、「いただきます」と言ってから食べ始めた。彼の食事は早い。中学生の頃から変わらない習慣で、味わうことを知らない。あっという間に平らげると、「じゃあ、出かけるか」と妻に声をかけた。


 妻は「スーパーに買い物があるから、その後で」と言う。この言葉は「買い物に付き合ってほしい」というサインだ。監督は洗顔も着替えもせずに付き合うことにした。パジャマを着る習慣がなく、スウェットのズボンとトレーナーで寝る彼は、支度だけは早かった。


 愛車アニーのエンジンをかけると、新聞チラシに載っていたスーパーを目指す。店に着くと、妻は特売になっていた10キロのお米や野菜、魚、そして肉を購入し、自宅に戻ってきた。てきぱきと食材を片付けると、「準備万端。出かけましょう」と言って、二人は日本平に向かった。


 日本平に向かう際、静岡側からだと有料道路を通らなくてはならない。そのため、多少遠回りにはなるが清水側から山を上った。無料の道路は道幅が狭いうえに傾斜がきつく、曲がりくねっている。監督はブラインドコーナーでヒール・アンド・トウを駆使し、二速と三速を上手に使い分けながら山頂にたどり着いた。


 月曜日なのでそれほど混んではいなかったが、山頂には車やオートバイがまばらに停まっている。買い物をするわけではなかったが、妻にしてみれば、ただ二人でドライブに出かけ、山頂の景色を楽しむだけで十分だった。


 監督が妻の手を握り、駐車場から海岸側へほんの少し階段を上ると、清水の街並みと富士山がよく見えた。その絶景に、二人は清々(すがすが)しい気分になった。


 この石段を上った先にある小さな展望台は、監督と妻が初めてデートをした場所だった。昔を懐かしんでいると、何となくお腹が空いた。土産物売り場でソフトクリームを二つ注文して二人で食べた後、来た道を戻って帰路に就いた。


 自宅に戻ると、妻は二人の昼食を作った。決して貧乏ではないが、裕福とも言えない夫の年収を考えれば、外食は極力控えるのがこの家の習慣だ。妻の体調が優れない時だけは、スーパーのお惣菜とサラダで済ませるのが習(なら)わしになっていた。今日は月曜日なので、息子は仕事からまだ帰ってこない。


 昼食ができるまでの間、監督は駿河新聞に目を落とした。妻は夫を尊敬していたが、マラソンそのものには全く興味がなかった。(なぜ、今回のレースで勝てたのか? 河村奈津子の不調は何が原因だったのか?)

 新聞には河村奈津子の失速については詳しく記載されていなかったため、監督は納得できなかった。


「一見脱水症状に見えるが、そんなことはあり得ない。脱水以外で考えると、自然気胸だろうか……?」

『彼を知り己を知れば百戦殆(あやう)からず』とはいうものの、河村奈津子の不調の原因ははっきりしなかった。


 監督はテレビの電源を入れ、チャンネル選択は妻に任せた。昼食を食べている間、妻は気を利かせてNBS放送にチャンネルを合わせた。ちょうど昼のニュースが流れており、昨日の『清水港マラソン』の模様が映し出される。


「どのあたりから優勝を意識しましたか?」

「四十キロ地点で、前に誰もいなかったので、行けるかなって思いました」

 優子のインタビューまで放送された。短い時間ではあったが、その映像を見て監督はニヤリと笑った。


 昼食はブリ大根に、キャベツとレタスのサラダだった。監督は味わうこともなく、サクサクと口に運んだ。


 監督業と事務仕事の両立は、今でも難しい。しかし、監督業に専念してしまえば、役員から平社員に降格させられてしまう。いくら仕事がハードでも、社長が「基本定時出勤・定時退社」という方針を出していることに感謝し、何とか仕事と家庭の両立をさせていかなくてはならない。


 考えてみれば、今日だって月曜日なのに代休をもらっているのだから、文句は言えない。自分は健全な会社で運よく働くことができ、一人前以上の給料をいただいているのだ。スマイルと感謝をモットーに、三人のランナーを育成しなくてはならない。


 夕食はすき焼きだった。妻は夫を気遣い、本当にご馳走を用意してくれた。監督は「ありがとう」と伝え、改めて「いただきます」と手を合わせてから、珍しく一口一口を味わいながら食べた。食事が終わると食器洗いを手伝い、浴槽を洗ってお湯を張った。


  昨日は自分が一番風呂だったので、今日は妻と息子を先にした。監督が風呂に入っている間、妻は家計簿のチェックをしていた。二十五年のローンはまだ返済が終わっていなかったが、息子が働き出したため、貯金残高は少ないものの、給料からローン返済へ十分に補填(ほてん)できるようになった。


 賃貸アパート暮らしよりは楽とはいえ、決して余裕があるわけではない。本当は洋服もバッグも欲しいはずだが、妻は決してそれを口にしなかった。

 監督が風呂から出ると、妻は三人分の洗濯物を洗濯機に放り込み、洗剤を入れてスイッチを入れた。洗濯が終わると、そのまま室内干しにする。


 厚手のもの以外は、室内干しにしても大半が翌日には乾く。監督は妻が洗濯物を干している間に、三人分の布団を敷いた。

「さて、明日は忙しくなるかな……」

 そんなことを考えながら、三人は明かりを消して布団に入った。


 翌日の火曜日。妻は毎朝、目覚まし時計を鳴らさずに目を覚ます。監督の方は、目覚まし時計の音で目を覚ました。新聞を見ると、午後の降水確率は四十パーセントだった。朝食は妻がとっくに作り終えていて、すでにテーブルに並んでいる。


 監督の朝食は、普段は食パンのトースト二枚だ。そのうちの一枚にジャムを塗り、もう一枚にはスクランブルエッグを乗せてケチャップを掛ける。それを牛乳で胃に流し込む。「いただきます」と言ったかと思えば、あっという間に平らげ、ワイシャツとスラックスに着替えてネクタイを締め、スーツを羽織る。


 新聞を見ると、午後の降水確率は四十パーセントだった。雨の予報が出ている日は、監督が車を通勤に使う決まりだ。そうなると妻は買い物に歩きや自転車で行かなくてはならなくなる。


「すまない、今日は車を借りていくよ」

 監督は妻に一言詫びてから、愛車アニーセダンのエンジンを掛けた。

 車は現金一括で購入し、月に一度は洗車とワックスを欠かさない。安いグレードもあったが、監督はどうしてもタコメーター(エンジンの回転数を表示するメーター)付きが欲しくて、妻に頭を下げて高い方を購入したのだ。


 当時は理由は分からないが「名車アニー」と呼ばれ、普段仕事で長距離を運転するタクシーの運転手からも評判が良かった。


オートチョークが効き、エンジンの回転数が高いままの状態で会社に向かう。自宅から会社までの距離が短いため、チョークが切れる前には到着してしまうのだ。

 昨日月曜日は代休をもらったが、それによって事務仕事が滞(とどこお)ったりはしていない。


 事務所のメンバーは、ワンボックスカーの運転手を除けば一人で何役もこなす精鋭揃いだ。給料の支払いなど、膨大な計算を一気にこなさなくてはならないときは、事務員総出で取りかかる。尚且(なおか)つ、計算ミスを防ぐために別の人間が再度計算し、ダブルチェックを行うのが鉄則だった。


 タイムカードの打ち忘れは、ボールペンで手書き記入してよい決まりになっている。しかし、数字が雑に書かれていると判読が難しい。

 従業員が百人もいれば同姓の者も多数存在し、一回の計算で数字がぴったり合うことはまずなかった。だからといって、間違えた人間を責めるようなことは決してしない。


 従業員が、滅多にない残業をした際に申請書を書き忘れてしまうこともある。だから完璧はあり得ないのだ。お互いに「すみませんでした」と言い合えば、それで済むことだった。

 

 火曜日の朝、ランナー三人と監督の計四人は、タイムカードを打った後すぐに社長室へ呼ばれた。一対になった三人掛けのソファーがあり、入り口から見て奥側に監督が一人で、手前側にランナー三人が並んで腰を下ろした。


 社長が自席からソファーの前まで歩み寄ってくると、四人は一斉に立ち上がり頭を下げた。

「楽にしてください。一昨日はよく頑張りましたね。初めての優勝、おめでとう! 夏のボーナスは弾ませてもらいますよ。……ところで、雅さんは負傷されたようだが?」


 監督と雅の声が重なった。

「肋骨(ろっこつ)にひびが入りました」

 

「そりゃあいかんな。医師の見立てでは、完治までどのくらいかかるんだ?」

 今度は雅が答えた。

「四週間はハードなスポーツは禁止、と言われました」

 社長は額にしわを寄せ、ため息をついた。


「四週間か、まずいことになったな」

 社長は深刻な表情で危惧(きぐ)した。「監督、親御(おやご)さんには挨拶(あいさつ)に行ったか?」


「はい。レース後、すぐにご自宅へ伺ってまいりました」

「ご家族の反応はどうだった?」

「お母様からは『兄もスポーツ選手なので、仕事で生傷が絶えないのは仕方がありません』と、寛大(かんだい)なお言葉を掛けていただきました」

「そうか。四週間後だと、ちょうど次のレースに間に合わなくなるが……」


 すると雅が身を乗り出して反発した。

「三週間で治します。次のレース、私を参戦させてください!」

 彼女は必死の形相で懇願(こんがん)した。


 監督は予想していた展開だったが、社長は戸惑いを隠せなかった。

「医者が四週間と言っているのに、三週間で復帰か。うーん……」

 社長は数秒ほど考え込んだが、やがてあっさりと答えた。


「今日から数えて二週間後の火曜日に、診断を受けた病院を再診し、医師の判断を仰(あお)いでください。そこで駄目だと言われたら、諦(あきら)めてもらうしかありません。渋々ながらでも許可が下りれば練習を再開し、その状態を田辺さんと川勝さんに見てもらう。そして最終的には、監督に判断を委ねます。これなら納得できますか?」


 雅は顔を輝かせ、「はい!」と即答した。

「それでは、今日から二週間の間は、工場で八時半から五時半まで働いてもらう。異存はないよね」

「はい、承知いたしました」


 話が済むと、監督は一人で作戦室の奥にある資料室へ向かった。医師が使う『JASPOC医療用医薬品集』と『今日の治療ガイド』という二冊の本を読み比べながら、テラーヂンの正体に迫る。


「……ん? 甲状腺機能低下症のときに使う薬か。ってことは、甲状腺の機能を亢進(こうしん)させるんだから、代謝が活発になって痩せやすくなる。そのうえ、心肺機能を向上させやすくなるということか? でもおかしいな。確か市販薬で同じような成分の薬が痩せ薬として販売されたが、何らかの理由で販売中止になったはずだ」


 人工的に甲状腺機能を亢進させるということは、バセドウ病に罹(かか)ったような状態になるということだ。

「普段から心拍数が上がり、眠っている間でさえ心肺機能に負荷をかけて鍛えられる……ということか」


 真冬でも汗をかきやすくなり、薬の量が多すぎれば眼球が突出してしまう。

「おそらく毎日服用するわけじゃなく、レース前には薬を断っているのか? うーん、なぜこの薬を使うのか、まだよく分からない。確かなことは、現時点でオリンピックの禁止薬物に分類されていないということだけだ」


監督は調査を打ち切った。使用している薬が分かっても、それを使う意義がどうしても理解できなかった。


 こうして草薙雅は、不本意ながらしばらくの間、終日の工場勤務を余儀なくされた。もともと毎日四時間の工場勤務はこなしていたため、大したことはないだろうと高を括(くく)っていたのだが、現実は違った。トレーニング時とは違い、ウォーミングアップもクールダウンも、リフレッシュのためのシャワータイムもない。丸一日、熱気のこもる工場で八時間働くことは、想像以上に過酷だった。


 一方、レースの二日後。『塩分たっぷり低価格ウインナー』では、監督と二人のランナーが社長室に呼び出されていた。荒木監督は荒井社長から激しく叱責(しっせき)されることを承知していた。そのため、河村奈津子と山田令をかばい、「私一人で行くから、お前たちは来なくていい」と二人を遮(さえぎ)った。


 社長室を三回ノックし、「失礼します」と入室した。

「お呼びでしょうか」

 声を掛けた荒木監督の前で、荒井社長はいきなり大声で怒鳴り散らした。


「一体どうなっているんだ! 高い金を払ってペースブレイカーまで雇い、草薙雅対策は万全だったはずじゃなかったのかね?」

「おっしゃる通りでございます」

「言い訳はいらん。理由を説明したまえ」

「河村奈津子が過呼吸でダウンしました」

「過呼吸か……」


 社長は急に怒りが収まったのか、声が小さくなった。

「過呼吸ではしょうがない……と言ってやりたいところだが、駄目だ。練習方法を変えろ。フルマラソンより心肺に負荷が掛かるメニューを週に二日以上入れろ」


 監督は沈黙し考えた。有酸素運動でフル マラソンよりきつい運動……

「水泳でよろしいでしょうか」

「構わん、ただし1日に2㎞以上だ!」


「かしこまりました。本日より、練習メニューの変更をいたします」

「下がってよろしい」

 荒木監督は、事務室で待っていた二人のランナーに事の顛末(てんまつ)を伝えた。二人とも、週に二日以上の水泳練習に抵抗を覚えたが、社長命令とあれば仕方ない。


 荒木監督は二人をアークⅡに乗せ、静岡市下島(しもじま)にある平和ビル一階の『ヤマアリスポーツ』へと向かった。出発した時間が八時四十分頃だったので、会社がある広野(ひろの)からは三十分程度で到着してしまった。開店時間までには一時間近くあったが、車内でどんな形状の何を買うのか、三人で相談を始めた。


「キャップと耳栓は、何でもいいな?」

「うん」

「ゴーグルは、ちょっと高級品がいい。安物だと水が漏れやすいし、すぐ曇るから」

「うん」


「ゴーグルの曇り止めは店の人に選んでもらえばいい。問題は水着だ。ビキニは論外だが、スクール水着も嫌だろう?」

「当然だよ。ダサいじゃん」

「じゃあ、競泳用でいいか?」

「あの、すごくハイレグな水着?」


「確かにかなりハイレグだが、これから練習に行くのは西ヶ谷(にしがや)にある県立西ヶ谷プールだ。あそこは平日は水泳が得意な老人しか来ないし、土日は競技の練習で来る人が多い。競泳用のハイレグの方が、かえって目立たなくていいぞ」


「でも、監督も付いてくるんでしょ?」

「ああ、俺も泳ぐ。観覧席で見ていても仕方ないし、プールサイドで指導したくても、俺は水泳に関しては専門外だ。だからお前たちの水着を買ったら、『矢嶋屋書店』に行って水泳の本を買ってくる。これなら文句あるまい」


「仕方ないなあ」

 二人は渋々納得した。

 ハイレグの水着が恥ずかしいと言っても、マラソンのレースで使うミニTシャツとブルマの方が、よっぽど露出度が高い。


 そうこうしているうちに店は開店時間を迎え、荒木監督は二人に試着させながら、水着とその他一式を選んだ。当時、競泳用水着は『スパード』社と『マリーナ』社の製品が主流だったが、値段はマリーナ製品の方が安い。別にタイムを競うわけではないので、マリーナ社の製品を購入した。


 本当はスパード社の製品が欲しかったのだが、前回の大会で優勝を逃したため、二人は我慢した。ヤマアリスポーツの後、『矢嶋屋書店』で水泳の本も購入する。買い物が済むと会社に戻り、監督はヤマアリスポーツと矢嶋屋書店のレシートを経理に持って行き、現金を受け取った。二人のランナーは、寮へタオルを取りに戻った。


 監督は改めて二人を車に乗せると、今度は自宅に立ち寄った。自分のキャップと耳栓、ゴーグルに曇り止め、そして海水パンツとタオルを準備して、県立西ヶ谷プールへと向かった。


(まさかこの歳で水泳をする羽目になるとは……)

 思いつつも、普段マラソンの練習は二人に任せきりだった。仕事の時間を使ってスポーツができるのも、悪くはないと考えていた。


(すべては河村奈津子のためだ)

 そう割り切って、県立西ヶ谷プールの広い駐車場に車を停めた。施設に入ると受付で回数券を購入し、忘れずに領収書を書いてもらう。


 県立西ヶ谷プールは五十メートルのプールが九レーンあり、平日の利用者はまばらだった。温水なうえに水質が極めて良好で、水に入るとかなり先まで透き通って見える。


 料金は11月1日から5月31日までが冬料金で600円、6月1日から10月31日までが夏料金で五百円となっていたが、回数券なら十回分の料金で十一回分のチケットが付いてくる。


 監督は当然のように回数券を購入し、領収書を受け取った。三人とも更衣室で着替え、いざプールサイドへ向かう段階になると、恥ずかしい思いをしたのは二人のランナーではなく、荒木監督の方だった。


 水着が競泳用ではないうえに、普段はスラックスで隠されている大きなお腹が丸見えになっている。河村奈津子と山田令は監督のお腹を指さして、くすくすと笑った。

「見世物じゃないんだ。さっさと泳ぐぞ」

「はーい」


三人ともレーンの端にある階段から、ゆっくりと水に入った。水温は暖かいとまでは言えないが、冷たくて泳げないほどではない。二人のランナーは今日二キロ泳ぐと聞かされていたので、まずはクロールから始めたが、息継ぎがうまくできず、すぐに平泳ぎに切り替えた。


 監督は泳法に関して、特に注文はつけなかった。彼自身、久しぶりの水泳で泳力はすっかり衰えていたが、いざクロールで泳ぎ出すと、入水の角度や息継ぎのタイミングなど、我流ながら意外なほど上手だった。あまり水しぶきを上げず、すいすいと進んでいく。ある程度泳いだところで、休憩時間を告げる鐘(かね)が鳴った。


 監督は平然としていたが、二人のランナーは慣れない筋肉を使ったせいか、かなり辛そうに見えた。監督はその様子を見て、「そんなに無理して速く泳がなくていい。今日は一キロを目安にしよう」と二人を気遣った。

 実際、この日、監督はクロールで千五百メートル、二人は平泳ぎで千メートルを泳ぎきった。


「今日はここまでにしよう」

 監督が言うと、三人はプールを上がった。監督の泳ぎを目の当たりにした二人は、二度と彼のお腹を笑わなくなった。


 県立西ヶ谷プールの更衣室にはドライヤーが装備されている。監督は手際よく着替えを済ませて受付で待っていたが、二人は少し遅れて現れた。女性は髪を乾かすのに時間がかかるのだ。


 三人が車に乗り込み、静岡市広野にある会社まで帰るまではよかった。だが、会社に着いて午後二時。かなり遅めの昼食を摂ると、三人とも麻酔銃で撃たれたような強烈な眠気に襲われた。眠気に耐えきれず、休憩室で横になると、一時間余りもぐっすりと眠ってしまった。


 清水港マラソンから二週間と二日が経過した火曜日。草薙雅は太田監督と共に、予約してあった『静岡再生会病院』の整形外科を受診した。担当医は初診のときと同じ医師だったので、余計な説明が不要で助かった。


「今日はどうなさいました」と主治医に問われ雅はストレートに質問した。

「12日後にマラソンのレースがあって参加したいのですが、駄目でしょうか?」

「駄目と言いたいところですが、どうしても参加したいですか? ここ2週間激しい運動は一切行っていませんでしたか?」


「はい、言いつけを守り工場で勤務していました」

「整形外科の立場からすると、『はい、いいですよ』とは言いづらいのですが……」

「そこをなんとか、お願いします」


「うーん、困りましたね。駄目と言っても聞いてくれそうにない。……では、こうしましょう。今日を含めた一週間以内に、二回だけ練習を許可します。二回ともフルマラソンの距離を走って結構です。ただし、一度でも脇腹に強い痛みが走ったら、その時点で参戦は諦めてください。約束できますか?」


「やった、先生ありがとう!」

 雅は手放しで喜んだ。肋骨の具合よりも、工場で八時間立ちっぱなしの単純作業に心底うんざりしていたのだ。

 同行していた監督も、密かに安堵の息をついた。もし自分が付き添っていなければ、雅は嘘をついてでも強引に参戦しただろうと睨んでいたからだ。


 万全ではないが一応、医師のお墨付きをもらった以上、監督として参戦させない理由はない。まして今日は天候に恵まれず、川勝優子と田辺要は午後から南部体育館でバドミントンを行う予定になっている。


 丁度良い。会社に戻ったらすぐに雅のエントリーをFAXし、午後はバドミントンで体を動かさせればいい。後は水曜日と金曜日の経過を見て最終決定を下そう。

 太田監督は雅と共に医師に礼を言うと、手早く会計を済ませて領収書を受け取り、車を会社へと走らせた。


 予約はしてあったものの、病院での待ち時間は思いのほか長く、二人が会社に戻ったときには十二時近くなっていた。

「腹が減っては戦はできぬ、か」

 まずは早めの昼食を済ませると、川勝と田辺に連絡を入れた。二人の食事が終わり次第、作戦室で会議を開くことにした。


 作戦室で監督は病院での出来事をかいつまんで説明した。さて、どんな反応が返ってくるか?と心配していたら、2人とも「やったな、戦線復帰だ」と大歓迎してくれた。


 監督は「おいおい、一応参戦の予定ではあるが、確定ではないぞ。二週間も休んでいたんだから使い物になるかどうかも分からん」と釘を刺したが、当の雅は「今日から練習できるんだから大丈夫ですよ」とあっさり答えた。


「それなら、昼休みが済んでから着替えて、四人で南部体育館に行こう」

 そう話はまとまった。


 同じ頃、「塩分たっぷりチーム」の荒木監督は風邪をこじらせて仕事を休み、静岡市下島にある「きんどうクリニック」を受診していた。

 レントゲンを撮り、鼻の奥に綿棒を差し込んで検体を採取する。検査結果を待つことしばし、程なくして診察室に呼ばれた。


 マスク越しでも止まらない咳に、荒木監督は問診の間も激しくむせ返り続けた。

 医師から「いつからこのような症状が出ていましたか?」と尋ねられ、

「一週間ぐらい前から風邪気味でしたが、水泳を続けていたら酷くなりました」

 と、掠れた声で答えた。


 医師は厳しい表情で告げた。

「インフルエンザですが、かなりこじらせて肺炎を起こしています。すぐに入院が必要です。紹介状を書きますから、今すぐ向かってください」

「待ってください。十二日後の日曜日、どうしても外せない仕事があるんです。どうしても入院と言うのなら、一週間以内に退院させてくれませんか」


「……命と仕事、どちらが大切だと思っているんですか?」

 医者の決まり文句だ。だが監督は食い下がった。

「仕事です。私が死んでも家族が困らないよう、生命保険は十分に掛けてあります」


「うーん、頑固な人ですねえ。入院してしまうと、退院の時期は今から私が紹介状を書く日本青十字社の主治医が判断することになります。私の経験上、一週間の入院で退院というのは難しいでしょう。……失礼ですが、あなたはご結婚されていますか?」


「はい、しております」

「医師として推奨はできませんが、自宅で一週間、風呂にも入らず、トイレと食事以外はずっと横になっていられますか? あなたの性格では無理でしょう? 仮にご家族が看病してくださったとしても、今度はご家族にインフルエンザをうつしてしまう危険があるのですよ」


 医師は穏やかな声で説得を続けた。

 荒木のような頑固な人間に強い口調で接すれば、かえって反発を招き、こちらの言うことを聞かなくなってしまうと分かっているのだ。


「家族がうつされる危険性」という言葉が、決定打になった。監督はがっくりと項垂れ、医師の指示に従うことにした。医師の出身母体である静岡青十字社病院へ、その日のうちに入院することが決まった。


 だが、病院を後にした監督は、そのまま入院の準備のために戻った自宅から会社へ電話を入れた。

 荒木は電話口に河村奈津子と山田令を呼び出すと、肺炎で入院することを手短に告げた。そして、それ以上に肝腎な話を切り出した。


「いつか話そうと思っていたが、丁度いい。……『ペースブレイカー・カンパニー』という会社がある。金はかかるが、そこに連絡すれば報酬に見合った『ブレイカー』を寄越してくれるはずだ」


「万が一、私が病気や怪我で会社を長期休業することになった時のために話しておく。私のデスクの右側一番上の引き出しに、一冊の電話帳がある。鍵は車のスペアキーのキーホルダーに付いているやつだ」


 荒木は熱で苦しいはずの息を整え、一気にまくしたてた。

「カンパニーは領収書を発行してくれる。事務に回せば入金は済むはずだ。お前たちとの付き合いも長い、いざという時のために情報を共有しておくことにした。……いいか、こちらの会社名を名乗って『ペースブレイカー・カンパニー』に電話を繋ぐと、相手は必ず『どこかとお間違えではないですか』と返してくる」


 監督の声が、一段と低くなった。

「そうしたら、電話帳の最後のページに貼ってある付箋を見ろ。そこに符号が記入されている。その通りに話せば、こちらの用件が伝わるはずだ」


 荒木監督は息を吸うたびにヒューと気管支喘息のような音をさせながら、必死に話を続けた。


「分かったな。それから、符号はその都度変わる。必ずメモを取り、念のため再度復唱して、新しい付箋に次の符号を記入しておくんだ。いいか、できるな?……それから、毎度のことながら薬の服用は止めろ。いつものことだ、分かっているな」


 話し続けるうちに、監督の声は次第に涙を帯びてきた。

 合法ながら危険な薬物の使用、ルール違反ギリギリのペースブレイカーの投入。それでも前回は敗北を喫した。自分流の指導が否定された気がして、二人のランナーに水泳まで強要したこと。かつては無敵を誇り、優勝を重ねた日々。


 食べ放題の焼き肉を囲み、ビールの味に酔いしれたあの頃……。思い出せば、笑いも涙も、あまりに多くのことがあった。

 それなのに、今回に限って直接指示ができないなんて。電話口の河村奈津子と山田令の目からも、つられて涙がこぼれ落ちた。


「分かった。すぐに電話する」

「上手くいったら私の自宅に電話で報告をしろ。いいか、新しい符号を絶対に書きそびれないように気を付けろ。手順と符号を、決して忘れるな」

 監督は熱に浮かされながらも電話を切り、静かに報告を待った。


 二人は事務所で電話を受けていたため、受話器を置くと同時に事務員へ詰め寄った。

「監督の車のスペアキーはどこだ?」

 事務員は怪訝そうな顔をしながらも、スペアキーを手渡した。あまりに長い密談のような電話に、監督の体調が相当に優れないことまでは察しがついているようだった。


 二人は事務員の視線などお構いなしに、スペアキーに付いている小さな鍵で監督のデスクの引き出しを開けた。これには、たまらず事務員が忠告に入った。

「困ります、役員のデスクを勝手に開けないでください!」

 だが、二人は即座に言い返した。


「監督は肺炎で入院することになりました。私たちは監督の代わりに次のレースの準備をします。信用できなければ、監督に電話を掛けて確認してください」

 事務員は直ちに監督に電話を掛け、誤解は解けた。二人は監督の電話帳と、マラソン作戦室の鍵も借りると、足早に作戦室へ向かった。


 作戦室にある電話から、「ペースブレイカー・カンパニー」に電話を掛ける。

 電話番号は03から始まっていた。所在地が東京だということだけは分かった。最後まで番号をプッシュすると電話は繋がったが、無言だった。


「ペースブレイカー・カンパニーですね?」

「……どちら様でしょうか、お間違えではないですか」

「今日は風が強いですね」


一瞬の沈黙の後、受話器の向こうの空気が変わった。

「符号一致。発信元番号一致。『塩分たっぷり低価格ウインナー』様ですね。念のため……今日、監督はどうなさいました?」


「肺炎で入院することになった。代わりにランナーの河村奈津子が電話をしている」

「了解しました。日本平マラソンに出場する草薙雅、彼女への対策として、ペースブレイカーを用意すればよろしいですね?」

「その通りだ」


「分かりました。金額は三百万円です。事務所に行って金額を伝え、必要経費を振り込んでほしいと言えば話が通じます。なお、次回の符号をお知らせします。『氷は冷たい』です」


 河村奈津子は、傍らの山田令に聞こえるように大きな声で「氷は冷たい」と繰り返しながら、古い付箋を剥がした。そして新しい付箋に「氷は冷たい」と書き留める。

「……『氷は冷たい』、これでよろしいですね?」


 しつこいほどに、再度確認した。

「はい。それが新しい符号です。以上でよろしいですね。ご利用ありがとうございました」


電話は返事をする間もなく、一方的に切れた。

 二人はもう一度「氷は冷たい」と復唱し、付箋に書かれた文字に間違いがないことを確認した。それから監督の実家(または自宅)に電話し、予定通りカンパニーに依頼したことを伝えた。


 監督は「よくやった……」と、また涙声で訴えた。

「日本平マラソンでは私は指揮を執れない。草薙雅対策は考えなくて良いが、当日一切指示は出せないから、二人で考えて行動してくれ」


 今度は山田令が「了解!」と元気な声で返事をして電話を切った。

 二人は作戦室を施錠すると事務室に向かい、経理担当の事務員に「必要経費として三百万円を振り込んでほしい」と話した。事務員は素っ気なく「分かりました」と答えた。


 二人は電話帳を元の場所に戻し、デスクと車のスペアキーも元の場所に戻した。準備は万端。後は、いかにして川勝優子に立ち向かうかだ。


 二人は荒木監督との日々を思い出した。確かに厳しい人ではあったが、優勝の際は経費で落ちるとはいえ「焼き肉次郎」で食べ放題の焼き肉を奢ってもらい、ビールまで注文しても文句一つ言わなかった。


 オリンピックの選考対象外のレースでは連戦連勝を誇り、先月のレースで敗北を喫した際には、練習方法を変えて水泳にまで付き合ってくれた。恐らく監督は、慣れない水泳で無理をしたせいでインフルエンザをこじらせ、肺炎になってしまったのだろう。


 二人は口には出さなかったが、何としても監督のために一矢報いねばと、心に強く誓った。


 レース11日前の水曜日。

 草薙雅は、久しぶりに練習に復帰した。あいにくの天候だったため、予定通り南部体育館でバドミントンを行った。フルマラソンと違い、それほど心肺に負荷が掛かるわけではない。雅にとっては楽勝だった。


 太田監督は雅のことを心配し、練習後に「脇腹は痛まないか?」と尋ねたが、雅は「全然へっちゃらだよ」と笑って答えた。見栄を張ったわけではなく、実際この日は本当に痛みがなかったのだ。


 今日は例外だが、月・水・金曜日はフルマラソン、火・木・土曜日は日本平の急勾配対策として、静岡市久能にある1159段の石段を三往復するのが彼女のメニューだ。会社から久能までは六キロほど。雅は運転手に頼らず、自らの足で現地まで走っていく。


 石段のトレーニングは以前と同様、上りが六分三十秒。三十秒のインターバルを挟み、下りも六分三十秒。これを三往復繰り返す。


 川勝優子と田辺要は、もし雅が痛みを隠しているのなら、この過酷な練習でボロが出ると考えていた。しかし、下り坂がオーバーペースになりがちな点を除けば、雅の動きは以前と全く変わりなかった。


 会社に戻ると、太田監督から「シャワーの後、作戦室に来てくれ」と指示があった。三人は工場勤務には戻らず、そのまま作戦室へと向かった。机の上には、会社のFAXに届いたばかりの出場ランナー名簿が広げられていた。


「雅、痛みはないか?」

「全然」

「それは良かった……」

 監督は胸をなで下ろすと、真剣な面持ちで話を続けた。


「早速だが、今回の日本平マラソンに送り込まれた『ペースブレイカー』が誰か判明した。ゼッケン番号002番、矢島明美。そして009番、山口純だ」

「げっ、二人とも『加速装置』付きか……」

「ん? 要、今何か言ったか?」

「いいえ、何でもありません」


「話を続ける。この二人はスポンサーが付いていない。その上、過去にインターハイや国体で十位前後の成績を収めながら、その後は目立った活躍をしていないんだ。もしドーピングで武装していたら、とてつもない強敵になる。雅、荷は重いぞ」


「そのために、私がこの会社に就職したんでしょ」

 雅はあっけらかんと答えた。


「それは心強い。だが今回のレース、塩分たっぷりチームも黙ってはいないはずだ。前回のレースは三人のチームワークでうまくいったが、今回はそうはいかないだろう。ペースブレイカーが直接的な暴力を使うことはないだろうが、もっと巧妙に、もっと陰気な手段を使うはずだと木下香も言っていた」


「三人共、用心してかかれ。それと雅、君はエントリーこそしたものの、実際に参戦するかどうかは来週の月・水・金曜日の練習結果で決める。脇腹が痛かったら、正直に言うんだぞ」


「はーい」

「よし、工場に戻って仕事をしてくれ。解散!」

 監督は拭いきれない嫌な胸騒ぎを覚えていた。草薙雅の実力は、自分がスカウトした際の想定を遥かに超えている。しかし、ライバルチームがそれを黙って見逃すはずがない。怪我を悪化させなければいいのだが……。


 太田監督の心配をよそに、金曜日と月曜日、三人のランナーはフルマラソンの練習をこなした。

 実のところ、雅の脇腹はしくしくと痛んでいた。だが、彼女はそれをひた隠しにし、

「全く平気だよ」

 と、いつものように明るい声で嘘を言った。


 実際、金曜日は川勝優子と同じペースで走ったが、月曜日の練習では川勝をぶっちぎってしまった。その結果を見た田辺要は「あり得ない……」と一言呟いた。太田監督は本人の自己申告と、二回のフルマラソンの実績から、日曜日に開催される日本平マラソンへの雅の参戦を最終決定した。


 レース直前の金曜日の午後。太田監督は三人のランナーを作戦室に呼んだ。

 午前中にフルマラソンを走り終えた三人は、それぞれシャワーを浴びたばかりだった。ドライヤーで髪を乾かした直後ということもあり、部屋にはシャンプーの清潔な香りが漂っていた。


 雅は自宅から通っていたが、会社の寮に石鹸とシャンプーを常備し、タオルは毎日持参している。先輩たちと同様、洗い立ての短い髪から良い香りを漂わせていた。

 作戦室に三人のランナーと監督が揃うと、いよいよ最後の作戦会議が始まった。


 まずは監督が口を開いた。

「二人は承知していると思うが、雅さんは知らないはずだ。まずは日本平マラソンの概略から説明する。日本平マラソンがオリンピックの選考レースから外されている最大の理由は、あまりにアップダウンが激しいコースだからだ」


「具体的には、日本平山頂のスタート地点から四キロに及ぶ急勾配の下り坂が続く。ここで調子に乗って飛ばしすぎると転倒のリスクがあるし、清水側に降りた頃には膝が笑って、その先がもたなくなる。よって、最初の四キロは久能山の石段を下るのと同じペースにとどめること。当然、雅さんの得意とする『ラビットスタート』は使用禁止だ」


「清水に降りた後は、平坦なコースが続く。十キロ、二十キロの給水地点は従来のレースと同じだ。雅さんは『ペースブレイカー・ブレイカー』に徹して、ゼッケン番号002の矢島明美と009の山口純が、ヘルシーチームの邪魔をしないようにマークしてほしい。……そして、ここからが厄介だ。三十キロ地点には、給水所がない」


「代わりに三十四キロ地点、静岡聖和学院大学前に給水地点がある。要さん、例年のことながら、ここまで優子さんを引っ張ってほしい。そして最後の難関――七・五キロに及ぶ上り坂だ。ずっと上りというわけではなく、途中に平坦な道もあるが、ここに到達するまでに多少なりとも余力を残しておかないと、スタミナ切れでダウンしてしまうぞ」


 監督は雅を真っ直ぐに見つめた。

「二人は毎年走っているから承知しているだろうが、雅さんは初めてだ。くれぐれも用心してほしい。以上だ。何か質問はあるか?」

「はい!」

 雅が元気よく手を挙げた。


「口で説明されても実感が湧かないので、コースを下見させてください」

「それもそうだな。……よし、それでは四人でドライブに、と言いたいところだが、二人はコースを熟知している。雅さんだけ連れて行けば良いな?」

「えーっ」

 要と優子の二人は露骨にブーたれたが、監督は「職場に戻れ」と一喝して却下した。


 車は会社のワンボックス「アニー」を使った。監督は手招きで雅に助手席に乗るよう合図する。移動であれば後部座席で十分だが、今回はあくまで下見が目的だ。後部座席ではコースが見づらい。


 雅は監督の指示通り助手席に乗り込み、シートベルトを締めた。監督はサイドブレーキを外し、ギアを一速に入れて発車した。

 日本平は車やオートバイでツーリングするには楽しい場所だが、ランナーが走るにはとてつもない難所だ。監督は駿河大学の近くを通り、高速道路の下をくぐる脇道をゆっくりと走り、目的地に向かった。


 レースのコース上ではないものの、片側一車線の脇道は既にアップダウンが激しい。車体の重いワンボックスのアニーでゆっくりと坂を登るためには、三速で走らなくてはならなかった。


 そしてようやく本番のコースに入ると、静岡聖和学院大学の前から早くも急勾配の坂道が続いていた。


「ここに最後の給水地点がある。だから、ここまで敵のペースブレイカーを引きつけておかなくてはならない。三十キロ以上走った後のフィニッシュがこの上り坂だ。道を知らずにペース配分を間違えれば、その時点で一巻の終わりだぞ」


 監督は乗り心地の悪いワンボックス「アニー」を慎重に走らせながら、雅に要所を解説していった。

「今度相手にするペースブレイカーたちは、間違いなくここまでに仕掛けてくる。どんな手段を使ってくるかは分からないが、この地点まで雅さんが持ちこたえてくれれば、うちのチームの勝利は目前だ」


「だが、ここはスタートから三十四キロ地点だ。さらに一キロ、相手をしなければならない。ドーピングをした二人の選手を相手に、かなりの苦戦を強いられると思うが……よろしく頼む」


 雅が日本平に来たのは、小学生の頃に両親に連れられてドライブに来て以来だった。当時の記憶などさっぱり忘れていたため、彼女は監督の話にじっと耳を傾けた。

「ここから先は歩行者、自転車、百二十五cc以下のバイクは通行禁止だ」


 監督は料金所の前で車を一時停止させると、ズボンのポケットから小銭を取り出し、手慣れた様子で係員に支払った。

 係員から領収書を受け取ると、改めて車を発車させた。


「さあ、ここからが正念場だ。七・五キロに及ぶ心臓破りの坂、ラストステージだぞ」

 監督は安全運転に徹したが、勾配が急になるにつれ、ワンボックスのアニーは四速では登り切れなくなった。三速までギアを落とすと、古い車に激しいエンジン音が響き渡った。


 実際、ワンボックスのアニーは時折、激しいエンジン音を響かせながら、急傾斜の坂道を登っていく。

「いいかい。この車が大きなエンジン音を立てるときは、ランナーの足に最大の負担が掛かっている時だ。景色に見とれていないで、道をしっかり見て、エンジン音をしっかり聞くんだぞ」


「うん、分かった」

 七・五キロのラストステージは、決して上り坂の連続ではなかった。しかし、少し勾配が緩んだと思えば、すぐにまた急傾斜が待ち構えている。そして中間地点には、一見して平坦な、長い直線道路が現れた。


「この直線道路はな、車で走っていると分かりづらいが、人の足で走っていると、ここまでの上り坂でスタミナを削られているせいで上り坂のように感じるんだ。平坦だからと舐めてかかると、残りの登りでスタミナが切れてダウンしてしまうぞ。


 だから多少の余裕があっても無理はしないで、むしろ普段よりペースを落として脚を温存させるんだ」


「それじゃあ、どこでスパートを掛ければ良いの?」

「もう少し走るとトンネルがある。そのトンネルを目安に、後はスタミナを使い切るまで走れ。……あれ、だけど今回のレース、完走するつもりか?」


「三十五キロまで走れたら、後は私の自由よね?」

「ああ、約束通りだ。……あ、見えてきた。このトンネルだ。このトンネルを目安に、スタミナが売り切れるまで頑張れ。お釣りはいらない。言っている意味が分かるか?」


「『売り切れる』はスタミナが尽きるまで。『お釣り』は、ゴールの後に余裕がある状態のこと?」

「良く覚えたな。さあ、ここでゴールだ」


日本平の山頂は、土産物売り場と簡単な食堂、そして日本平豪華ホテルという大きなホテルがあり、駐車場は充分な広さがあった。


「これだけ広い駐車場があれば、スタートとゴールを見に来る観客(ギャラリー)には都合が良いだろ」

「小学生以来だから久しぶりだけど、確かにギャラリーにとっては最高ね」


 監督は右手で二つの土産物売り場の中間を指さした。

「あそこに見える二つの土産物売り場の中間より、少し左側にほんの小さな石段がある。石段を登り切ると、海と清水の港町が見える絶景のスポットだ。彼氏ができたら連れてきてもらえ。今日は観光目的ではないから行かないぞ」


雅は一寸(ちょっと)がっかりしたが、そこは我慢した。

「ゴール地点までの七・五キロは、大体分かったな。三十五キロでリタイアする気がないのならば、二人のペースブレイカーを相手にしながら、終盤までスタミナを温存するんだ」


「監督、質問」

「なんだ」

「ペースブレイカーを相手にするのは良いけれど、その上でスタミナの温存なんて、無理な話じゃない?」


 監督は前を見つめたまま、静かに、だが断固とした口調で答えた。

「それは、雅さんがゴールまで走りたいと言うからだ。残念ながら、君の役目はエース(主役)ではない。あくまで『ペースブレイカー・ブレイカー』だ。フルマラソンを走って良い条件は、三十五キロまで敵を完璧に引きつけておくことだ。……約束、忘れていないな?」


「はーい」

「では続いて、スタート地点の下見に行く」

 監督は日本平の山頂から清水方面に抜ける、無料の旧道へと車を進めた。


「ここから四キロ、険しい下り坂が続く。ゴール地点の七・五キロと違い、途中に平地が全くない。久能の石段を走っているから分かると思うが、下り坂は上り坂よりきつい。調子に乗ってぶっちぎると転倒してしまうから、要注意だ」


 実際、雅の目で見ても、その急勾配は明らかだった。もし今日下見に連れてきてもらえなかったら、きっと調子に乗って急加速をしていただろう。


「ここは、どうやって走れば良いの?」

「周りの選手のペースにつられずに、久能の石段を下る時を思い出して走るんだ。例年必ず飛び出していく選手がいるが、抜かれても構わない」


「意地を張って先頭に立とうとすると、下り切った後に膝が笑ってしまって、清水側に降りてからまともに走れなくなる。ペースが掴みにくかったら、ヘルシーの仲間や、塩分たっぷりチームのペースメーカーに合わせて走ってくれれば良い」


「なるほど」と、雅は思った。必要とあらば、敵のチームすら利用する。それが監督の戦略だった。

「もう少し走ると、左右に木々が生い茂っておらず、見晴らしの良い所がある。そこまで走れば下り坂は終わりに近い」


 監督の言う通り、上りも下りも山を削って舗装された道は、景観が良いとは言えなかった。だが、突然目の前に清水の町並みがきれいに見えるスポットが現れた。この場所は山と山の間に橋を架けて作られた道路なので、木々に遮られることなく景色が楽しめた。


 監督はバックミラーで後続車がいないことを確認してから、速度を三十キロまで落とし、少しだけ雅に景観を楽しませてやった。雅は監督がわざと速度を落としてくれたことに感謝し、じっくりと清水の町並みを眺めた。


「さあ、もう少しで下り坂が終わるぞ」

 日本平から清水方面へ降りて行くと、道は突き当たりの丁字路(ていじろ)になっていた。右に曲がれば海岸へ、左に曲がれば清水の市街地へと繋がっている。

 実際のコースに従って監督が車を左折させると、そこからは片側二車線の広い道路になった。


「ここから後は、白バイに付いて行けば良い。特に難しいコースではない。ただし、港を出入りする大型トラックが多いので、車道は所々アスファルトにひび割れや陥没があるかもしれない。当日は港町区間を走り終えるまで、足元に気を付けて走ることだ」


 雅は今日下見したコースを考えて、スタートから四キロまでの区間が最大の難関だと感じていた。

 会社に戻ると、監督は雅に「着替えて五時半まで仕事をするように」と指示した。雅は言われるまま、さっさと作業着に着替えて工場に戻った。


 土曜日、雅は昼過ぎまで布団に入り、安静に過ごした。実際、明日のレースを三十五キロまで走り通せるかどうか、自分でも確信はなかった。

 前回のレースで肋骨にひびが入ってから、母親は雅の食事に小魚と牛乳を欠かさずに出し、一日も早い治癒を祈っていた。


 むやみにカルシウムを摂取したからといって早く治るって言う物でも無いだろうが、それでも雅は母親に感謝した。


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