第13話 あの日、言えなかった好き
土曜日の午後。
少し曇った空の下、遥は、ある喫茶店の前に立っていた。
ドアの向こうには、十年ぶりに会う人がいる。
彼の名は――三浦 悠真(みうら ゆうま)。
遥が十九のとき、想いを寄せていた大学の先輩であり、
最後まで言葉にできなかった「初恋」の人だった。
(さよならを、伝えに来たんだ)
遥は、少しだけ深呼吸してから、ドアを押した。
「……佐原?」
テーブル席に座っていた悠真は、変わらない笑顔で立ち上がった。
短めの髪に、落ち着いた服装。
指には、細い銀のリング――左手薬指に。
遥は微笑みながら、頭を下げた。
「……お久しぶりです」
数分の雑談のあと、ふたりの間に、ふと沈黙が訪れた。
どちらからともなく、目を伏せたその空気に、
もう昔のふたりは戻らないとわかっていた。
「……懐かしいね。
君が、文芸サークルで書いた小説、覚えてるよ。
セリフが少なくて、でも心に刺さる作品だった」
「え……ほんとに、覚えてるんですか?」
「うん。あの時、何度も読み返した。
――けど、あの頃の僕は、何も返せなかった。
気づいてたのに、気づかないふりをした」
遥の心が、そっと揺れた。
「私も……怖かったんです。
好きですって言ったら、全部壊れそうで。
あのまま何も言わなければ、嫌われずに済むって、思ってた」
悠真は、少しだけ笑った。
「……そういうとこ、変わってないな。
でも、今日は違うんだろ? 君、何か伝えに来たんじゃない?」
遥は、ゆっくりとうなずいた。
バッグから、一枚の便箋を取り出す。
あの日の夜、書いた手紙。
「これ……いま、渡したくて」
悠真は受け取ると、封を開けずに胸ポケットにしまった。
「……読んでもいい?」
「もちろん。でも、返事は……いりません。
これは、さよならを伝えるための手紙だから」
しばらくの静けさのあと、
悠真は言った。
「ありがとう、佐原。
もし、あの時ちゃんと君の気持ちに向き合えてたら……って思うよ。
でも、今の君を見て、たぶんその好きは、もう過去の光なんだなって思った」
遥は、小さくうなずいた。
「はい。
でも、私にとっては、大切な光でした。
だからちゃんと、言葉にして、終わりたかったんです」
店を出たあと、ふたりは並んで歩いた。
駅までの道。
懐かしい景色。
けれど、もう戻る場所ではない。
「……幸せになってくださいね」
遥のその言葉に、悠真はふっと目を細めた。
「君も、な。
今度は、ちゃんと好きって言える人と」
遥は、笑った。
それは、過去の恋が終わった瞬間だった。
改札前で手を振り、悠真の背中が遠ざかる。
あの頃、胸に沈めたままだった好きという気持ちに、ようやく――
「さよなら」が言えた。
帰りの電車の中。
遥はスマホを開き、玲司にメッセージを送った。
さよならを言ってきました。
そして、ようやく書けそうです。
今度は、私自身の物語を。
画面には、すぐに返信が返ってきた。
よかったな。
それが、お前にとっての始まりだ。
遥は、窓の外の景色を見つめた。
沈んでいた空が、少しだけ明るくなっているように見えた。
それは、自分の中に灯った再出発の光だった。
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